使えるスペル
ナミは、尺取り虫と大差ない速度で、物見台を登っていく。
ヒヨウとチェコは、壊れた柵を潜って、駐屯地に足を踏み入れた。
炎と白煙はますます凄い。
怪物の姿は見えないが、奇怪な笑い声と人間の叫びは駐屯地に渦巻いていた。
物見台へ向かうには、まず小屋と小屋の間に入っていかなければいけない。
その奥から物見台は立ち上がっていた。
ゆっくりと小屋の側面に入ると、どうもそれは無人の掘っ立て小屋で、幾つかの椅子とテーブルが散乱しているようだった。
火事の影響は受けていないし、争った形跡も無い。
どうも、見張りたちは、怪物を恐れて逃げたもののようだ。
ナミは、ゆっくりとだが既に二階家よりも高い場所まで登っていた。
チェコも急ぎたいが、怪物に見つかったらチェコのみならず、現在歩いている全ての人の命を危険にさらす事になる。
チェコは、子供がトンボに近づくように、ゆっくりと進んで行ったが、ふと思った。
ここの兵士たちも、こんな風に逃げたのだろうか?
そうでないとすれば、怪物は兵士を追って、とっくの昔に野に出てしまっているのではないか?
チェコはパトスに囁いた。
「…どういう状況だったのか判らないが、おそらく駐屯地内に、今よりずっと兵士がいたんじゃないのか…」
「でも、ここは偉い人と職人の住む場所でしょ?」
「おそらく、兵士たちの何百人かは、その世話をするために駐屯地に出入りしてたんだろうな」
とヒヨウ。
「清掃、側使い、馬の世話、見張りや巡回など、かなりの兵士が、外のテントに寝起きしながら、駐屯地内部にも立ち入っていたはずだ」
なるほど…。
最初は、そういう餌が豊富だったから、見張りは逃げられた、ということだろうか?
しかし、槍や武器を豊富に持った兵士たちが、そんなに一目散に逃げるものだろうか。
まず戦いを選ぶのが、兵士としては普通ではないのか?
パトスに話すと、
「…たぶん、最初はそうしたはず。
でも、極めて短時間で、退却を決断したんだろう…。
そのために、囮となった兵士もいたかもしれない…」
パトスは推測した。
「スペルが効かなかった時点で、諦めたんじゃないかな?」
背後で、タッカーが推理した。
「有りうるわ。
あれは、ちょっと逃げたくなる絵よね」
ミカも言った。
あ、あの黒髪みたいな奴か…。
確かに、あれでは戦いようがない、と諦めても不思議ではない。
でも、なんか…。
チェコは駐屯地を見回した。
あんな怪物と軍隊が戦った、と言うような形跡が、あまり見えないような…?
それとも、どこか別の場所で戦いがあって、それで火事になったのだろうか?
だが、爆発はそもそも蝋燭爆弾のためで、だから火事はタッカーの力作の手柄だと思うのだが…?
だが、やがてチェコたちも物見台に取り付く事になった。
パトスは、上で見れば、そんな事は判るはず、とチェコに抱かれて言った。
チェコはパトスを、ほとんど荷を出したリュックの中に入れて、両手を自由にして登った。
両手両足を使って、極めてゆっくりと梯子を登っていく。
ナナフシにでもなったように、チェコはそろそろと梯子を登った。
徐々に高さが上がってきて、もうもうたる煙の中から、薄っすら怪物の、爬虫類風の外皮を持つ背中が見えてきた。
外見は蜥蜴のようであり、長い尾もついていたが、動きは鳥のように素早い。
鳥と言ってもガチョウではなく、小鳥のような素早さだ。
犬猫より数段素早く、人間が走って逃げ切れる速度では無かった。
ほぼ一飛びで相手の逃げ道を塞ぐのだが、その一飛びが、早くて正確であり、また攻撃と直結していた。
遮られた瞬間には、必ず二つの手か鋭い牙の並ぶ口で噛みつかれていた。
怪物は、今も楽しげに、頭を木造家屋に突っ込んでいた。
建物はあちこち火が燃えていたが、怪物にはすっかり耐性が出来てしまったのか、気にもしていない。
雨に濡れる、程度にも感じていないのではないか…。
さっきは一斉に爆弾で攻撃した兵士たちだが、怪物が煙の中に潜り込んでいるからか、すっかり攻撃は止んでしまった。
そして兵士たちの的にならないのをいいことに、怪物は楽しげに笑いながら、今も一人の人間を餌食にした、その断末魔の叫びが駐屯地に響いていた。
動きさえ封じられればな…。
そうすれば、チェコならば怪物を倒す事が出来る。
ただし怪物にはスペルは効かないので、やれることは限られていた。
油溜まりは通用する、とヒヨウが言っていた。
だが、底なし沼はどうだろう?
あれは、もしかすると対象を指定するスペルかもしれず、怪物が的であれば、怪物に吸収されるかも知れなかった。
そういう事はカードのテキストを読めば判るのだが、この状況では一々読んでもいられない。
どのみち、この闇夜では、テキストなど読めなかった。
あれ…。
不意にチェコは気がついた。
雷は、吸収されなかったよな?




