谷底
谷底。
そこから道はつづら折りに上り、やがて七曲り尾根に出る、その一番の底。
水はここに集まるので、晴れていても、ここだけはいつも湿度が高い。
足元は、白い道以外はぬかるんだ泥で、草も殆ど生えていない。
倒木が多いのは、上の七曲り尾根にぶつかった風が下に吹き降りるからで、常に侘しげな風音が、ひゅう、と笛音のように、この谷底では泣き声をたてていた。
チェコはかなりの期待を込めて、木々を眺めた。
が、それはただの森の木立だった。
傘をさしたチャップマンどころか、バッタすらいない。
くー、とチェコは地団駄を踏んで、
「なんで幽霊、いないかなぁ!」
と、憤慨したように語るが、ヒヨウは、
「俺は、霊は見えないのだ」
と、まだ言っていた。
「まー、そうそう見えるもんじゃねーんだって。
俺がこれだけ山を歩いていても、二度しか見た事無いんだからさ」
タフタは慰めるが、チェコは憤懣やるかたなく、
「んー、でも、俺はカヌートもタウトゥンも見てきたしさー、俺って山に愛されている、って言うか、とにかくツイてると思うんだよ!
だからきっと、チャップマンも出てきてくれる、って信じてたのにさぁ!」
チャップマンが悪いみたいに言い出した。
チェコ、騒がないで、とミカは叱る。
「こーゆう特定の幽霊が出る、と噂になるような場所っていうのは、場所自体、特殊な事が多いのよ。
こういうところは、そっ、と通り過ぎるべきなのよ」
「あ、騒ぐと出るの!
幽霊!」
チェコの目に不穏な光が宿るが。
むんず、とタッカーはチェコの首と片腕を抱えるように腕を回して、強引に谷底を引っ張り上げよう、とする。
「いーじゃん!
タッカーは、上に行ってれば!
俺は幽霊を見るんだよ!」
しばし、兄弟喧嘩のように身長が頭二つ分違う二人は、必死の攻防を繰り広げたが…。
「…そんなに見たいなら…、呼んでみてもいいわよ…」
チェコの肩の上のちさが、言い出した。
「ちょっとちさちゃん、寝ている子供を起こすような事をしないで」
ミカが止める。
「いーじゃん!
こんなチャンスは二度と…!」
タッカーに、殆ど首を絞められる格好のまま、チェコは叫んだが、不意に口をつぐんだ。
「あちゃ…」
と、ミカは頭を抱える。
満点の星空に、微かな雨音が聞こえ始めていた。
パラパラパラ…、と雨粒が木葉を打つ音がしめやかに聞こえ、いつの間にか、木立に傘をさした大柄な男が立っていた。
手に持った、真っ黒な大きな傘のため顔は見えないが、ぬかるんだ泥の中、男は素足で立っていた。
だっ、とタッカーは坂を駆け上がった。
チェコは、屈むように、幽霊を覗き込む。
「おいチェコ…」
タフタは、声を潜めた。
「これは、ちょっとヤバいかもしんないぜ…」
谷底の気温は、明らかに寒くなっていた。




