古井戸の森
古井戸の森は、リコの村から一キロほどの谷地に広がる森で、その中心には鬼の古井戸があり、さらに古井戸をどこまでも長く下っていくと鬼の飯炊き場という場所に通じ、そこからは鬼の世界である、という伝説があった。
谷の入り口には樹高が百メートルを超えるこの辺り最高の樹木、塩杉の大木がそびえたち、岩石のような根を、地面に突き刺していた。
その根をよじ登って、枯稲色の髪の少年が、用心深く森を見回した。
「よし、良いぞパトス」
少年が声をかけると、垂れ耳の、小型犬の仔犬のような動物が、根に飛び乗った。
明らかに怯え切った顔で、尻尾は後ろ脚の中に入り込んでしまっている。
「チェコ…、危ない…」
「心配ないって。
もし何かあったとしても…」
チェコ少年は、腰のベルトに差した長方形の手のひらサイズの物体を叩いた。
「俺にはスペルがあるんだぜ」
「…二アースまでしか使えない…」
パトスは、不安げに呟いた。
「バッカだなぁ、腕の良いスペルランカーは、二アースで、全てを片付ける。
兄貴だって、いつも言ってたじゃないか!」
「熊に勝てない」
「平気平気。
霧のスペルで逃げられる。
それに、本当に熊が出てきたら、働きバチのパラライスで麻痺させてさ、そのうちにトレースのスペルでトレースに成功すれば、熊の召喚が出来るようになるんだぜ!
あー十匹ぐらい、出てこないかなぁ~」
チェコは、身を捩りながら、夢見るように、妄想した。
「チェコ、欲の皮が突っ張ってる…」
パトスは、げんなりと言った。
「さっ、夕暮れまでの三時間が勝負だぜ、早く行こう!」
チェコは元気よく巨大な根から飛び降りるが。
そのチェコの足元に、パンッ、と鋭い矢が、突き刺さった。
「貴様ら、何の用があって、古井戸の森に足を踏み入れる!」
チェコが見上げると、十メートルほど先の木の枝に、緑の服を着た少年が立って、弓を構えていた。
「えー、君って、もしやエルフ?」
エルフは冷たい視線を飛ばす。
「そういう貴様は、たぶんリコの村の子供だな」
チェコは、顔を輝かせた。
「そうなんだよ!
俺、チェコって言うんだ! 君の名は?」
エルフの少年は、エルフ独特の、蝋のように白い頬を、やや紅潮させて。
「人間になど、名乗る名はない!
さっさと森を立ち去れ!」
エルフの少年特有な、笛の音のような声を張り上げた。
リコの村を含む広大な地域を支配するヴァルダヴァ王家の住む王都、コクライノでは、エルフの少年だけを集めた合唱隊が組織され、世界中にその美声は響き渡っていた。
また、そのエルフの少年のみの合唱隊は同時に、いざ戦いのときには、最も勇猛な近衛兵と変身することも有名だった。
「えー、いいじゃない。
別にエルフの土地を荒らすつもりはこれっぽっちもないよ。
ほら、俺、スペルランカーなんだ。
森の動物をトレースして、仲間にしたいだけなんだ!」
エルフの少年の細い眉が、ぎりぃ、と吊り上がった。
「お前一人は、そのつもりでも、やがてリコの村の他の連中も入ってくるようになるだろう。
例外は、許されないのだ!」
弓矢を引き絞った。
「そうか…」
と、チェコは目を落とし…。
「ならスペルで勝ち取るぜ!」
叫ぶと、右手の拳で、長方形の箱、スペルを、パチン、と叩いた。
「スペルランカー!」
声と共に、チェコの頭上に緑色の球が浮かぶ。
これがアースであり、全てのスペルは、このアースの発動を契機としている。
アースは、およそ十秒に一つ発生していくが、アースを貯めておけるのはせいぜい二十秒。
つまりチェコは、二十秒で二アースしか使えない。
だが…。
アオーン!
チェコの横で、パトスが吠えた。
パトスの上にも青色のアースが生まれた。
「なに! その犬もスペルランカーなのか!」
「こいつは犬じゃないんだぜ、精獣なんだ!」
精獣は、獣とよく似ているが、人間と会話ができ、アースを発生られる点で獣とは違う動物だ。
ドラゴンなど、そのほとんどの種類が精獣という種類もいた。
「おれ、チェコのともだち」
パトスが喋った。
チェコの頭上の緑の球と、パトスの上の青い球を使えば、チェコは十秒に二アースのスペルが唱えられる。
「二アースを使って、召喚、スズメバチ!」
空中に、鳥ほどの大きさの獰猛な昆虫、スズメバチが出現した。
「スズメバチは射程が三、すぐに攻撃が出来るぜ!」
召喚呪文は、全て召喚主から一射程の距離に出現するので、普通、攻撃が出来る距離、二射程に移動するのに十秒ほどの時間がかかる。
だが三射程なら、一瞬で相手の前まで動けるのだ。
その時、エルフの少年が、透き通った声で、唱えた。
「スペルランカー!」
「うおぉ、君もスペルランカーなのか?」
「エルフの戦士である以上、そのぐらいは当然だ。
召喚、蜂喰い鳥」
エルフの少年は、小さな鳥を召喚した。
スズメほどの大きさだが獰猛で、蜂を好んで食べてしまう鳥だ。
「くっそう、攻撃はやめるぜ!」
チェコは、しかし、嬉しそうに笑いながら言った。
「代わりに召喚、草原ウサギ、そして草原ウサギだ!」
二匹のウサギが現れた。
エルフの少年が笑った。
「ウサギだと? そんなもので戦えると思っているのか?」
「どーかな?」
チェコも笑った。
「ならば、こちらは容赦しない。
狩場の狐、そして、小指毒蛇」
エルフの少年は、同時に二つのアースを浮かばせていた。
チェコより、レベルの高いスペルランカーだ。
「へへっ、かかってくるのか?」
召喚した獣などで相手にダメージを与えるのがスペルランカーの戦いだが、スペルランカーが使えるのは召喚スペルだけではない。
召喚した獣で防御せずに、霧のスペルで戦いを避けたり、攻撃スペルで応戦すれば、自分が攻撃に割いた召喚獣は、すぐには防御に使えない。
そうなると強い召喚獣を持っていても、自分でダメージを受け、負けてしまうので、攻撃は慎重にならざるを得ない。
エルフの少年は、冷静な表情で、終わり、と言った。
「よーし、じゃあ俺も召喚するぜ。
草原ウサギ、それに…。
草原ウサギだ。以上」
元気にチェコが宣言した。
「ちっ、くだらない。
ならばこっちは、一回待ち、だ!」
「よーし、俺は、草原ウサギ、草原ウサギ…以上」
「ふふん、馬鹿め、ウサギ祭りはもう終わりだ、
大ヘラジカ!」
森に、巨大な角を持つ巨大な偶蹄類が現れた。
エルフの少年が一回待って貯めた四つのアースが消えた。
「じゃあ、俺は、草原ウサギ、草原ウサギだ」
エルフの少年は唸った。
森には、八匹の草原ウサギとスズメバチが並んでいる。
一匹一匹は確実にチェコより強いが、エルフの少年側には蜂喰い鳥とキツネ、毒蛇、そして大ヘラジカだ。
そのうち、蜂喰い鳥は、一発で戦いを終わらす可能性のあるスズメバチ対策に動かせないので、実働できるエルフの少年側は三匹。
だが、ウサギでも、自死と引き換えならヘラジカでも止められる。
すると、敵に五匹のウサギが残ってしまうことになる。
スペルランカーは、その昔には、本当に、命の最後の一滴まで削り合った時代もあるが、今は共通ルールで、全てのスペルランカーは、十のダメージを受けたら負け、と決まっていた。
つまり、残りのウサギ五匹で、エルフの少年は勝敗ラインの十のダメージのうち、半分を削られることになる。
が、しかし。
時に、相手の受けるダメージを増やす、戦闘強化系のスペルも、この世には存在している。
目の前の、一アースしか出せない、村の子供チェコが仕掛けそうなのは、一アースで一匹の攻撃を倍にする二つ頭か、二アース使う巨人のエキスだが…。
巨人のエキスを使えば、一瞬だけだが、大ヘラジカと相打ちに出来る大きさに、ウサギを巨人化できた。
チェコのもつ二アースでは、仮に巨人のエキスを使っても五匹のウサギではエルフの少年に十のダメージは与えられないが…。
実のところ、本当にチェコの使えるアースが、二アースとは限らなかった。
スペルバトルでは、一回限りの隠しアイテムというものがある。
一回だけ、一アースを出す宝玉などだ。
たぶん、持っていないスペルランカーの方が珍しいだろうし、森に乗り込んできたばかりのチェコなら、二つや三つ、持っていてもおかしくない。
もし、巨人のエキスを使って大きくなったウサギに二つ頭を使われたら、エルフの少年は一撃で負けることになる。
エルフの少年は、頭上のアースを消し、言った。
「仕掛け矢、設置」
さらに…。
「もう一つ、仕掛け矢、だ!」
仕掛け矢のスペルは、相手に、一つの仕掛け矢で、三つの矢を放つことが出来る。
ウサギごときは矢一つで倒せるし、チェコに撃っても一矢一ダメージとして計上できる。
このまま仕掛け矢を設置して様子を見てもいいが、もし巨人のエキスを使ったウサギが攻撃をしてくると、仕掛け矢では対応できない。
ならば、後手に回るよりは先制するか…。
「仕掛け矢、全弾発射。
六匹のウサギを排除」
エルフの少年は手を振った。
「吹き飛べ!」
だが…。
チェコが、にやっ、と笑った?
しまった…、のか?
エルフの少年は、瞬間、戸惑った。
「指定された六匹のウサギを、生贄に捧げる。
さらに二匹のウサギ、および、俺のライフを二撃分、生贄に捧げる!」
チェコが叫んだ。
「召喚、呪われた石像!」
チェコの前に、ヘラジカが子供に見えるような、巨大な獣の石像が現れた。
「呪われた石像は射程三、
石像で攻撃!」
エルフの少年は吹き飛んでいた。