公爵令嬢の本音
偶然だったのだ。
その日は少し授業の後に用事があり、いつも彼女と会う場所に遅れそうだったので、愛しいミリアの元に早く行きたくて、裏庭の近道を通っていた時のこと。
『本当によろしいの?あの子爵令嬢に何も言わなくて?』
『いいのよ。早く殿下を奪っていって欲しいぐらいだもの。』
思わず足が止まった。その声は憎い自分の婚約者と彼女の友人の侯爵令嬢のものだったのだ。さっと、近くの壁に隠れた。
自分の婚約者が愛しいミリアをいじめているという噂は、彼の耳にも入っていたのだ。何度かミリアに真相を聞いたが、涙を溜めた瞳で、首を横に振るから、心配かけまいと我慢しているのだと思っていたが。
『でも、ひどい噂になっているわよ?』
『知ってるわ。』
『黙っていていいの?』
『いいのよ。殿下があの子に夢中になれば、婚約が白紙になるかもしれないでしょう。』
カチャリと、カップがソーサーに戻された音がした。紅茶でも飲んだのだろう。そして、婚約者はふっとため息をついた。
『もともと政略だもの。何も思ってはいないわ。殿下も出逢ったころから私のこと嫌っているし。』
『そうよね・・・。』
『なので、あの子爵令嬢に意地悪する理由もないのよねぇ。殿下を奪われても何とも思わないし、むしろ応援したいぐらいよ。』
『じゃ、意地悪したら応援になるんじゃないかしら。』
そうかもねと、二人してくすくす笑う声がする。
衝撃だった。婚約者は自分を好いているとばかり思っていた。最近では、王子妃に執着する権力志向の醜い女性だと。
昔から何とも思われていなかったとは。
それに、ミリアをいじめていないと言っていた。意地悪しようかと笑い合っていたが、あの様子では冗談というだけであろう。では、誰がミリアをいじめているのだ。あの婚約者が黒幕だとばかり思っていたのに。
思いがけない婚約者の本音を聞いてしまった。そして、思いがけず何とも思われていなかったということに、ショックを受けていることにも驚く。自分はこんなにも彼女に執着していたのかと。
ミリアは可愛い。自分の欲しい言葉をくれるし、側で笑っていると癒される。
反対に、婚約者は月に一度お茶をするぐらいで、他に交流もない。それも数刻で終わる。会話もほぼなく、義務で出席していた。
滑らかな銀糸の髪と宵闇のような瞳を持つ婚約者。太陽の下では、彼女の瞳は紫色にも蒼色にも見え、不思議と魅了されたものだ。幼い頃にはよく手をつないで遊んだものだが、年が増えるにつれ、彼女は母君である美貌の公爵夫人と似てきて、薔薇が綻ぶように綺麗になっていった。照れてあまり話しかけれずにいる間に、距離が出来たのは自分が悪いとは思っていたが、嫌ってなど、嫌ってなどいなかったのに。
彼女達の会話は続く。
『じゃ、次の婚約者はどうするの?』
『そうねぇ、婚約破棄された令嬢なんて需要ないものね。リリィについて隣国に一緒に行こうかしら。そして、隣国で新しい旦那様を探そうかしら。』
『それもいいわね!結婚前から浮気する男性なんて、捨てちゃえばいいのよ。』
そして、彼女達はまたくすくす笑う。
一緒にいる侯爵家の令嬢は隣国へ嫁ぐことが決まっていたな。私を捨てて彼女と行くつもりなのか。
婚約破棄できたらどんなに楽かと、日々考えていた婚約者。あちらも私との関係を捨ててもいいと思われていたとは。
もうこれ以上聞きたくはないのに、体が動かない。私が隠れたのと同じように向こうに私の護衛も隠れるようにして、身を潜ませている。彼にも彼女達の声は聞こえているのだろう。何とも言えない顔でこちらを伺っている。
『でも、陛下も妃殿下も素敵な方達なのよねぇ。』
『あれでしょ。あちらからお願いされたんでしょ、婚約。』
『ええ。お父様なんて二度も陛下のお願いをお断りしたのよ!可愛い娘はやらないって。』
婚約者が思い出したように笑う。
『今でも言ってるじゃない、公爵様。』
『お母様に叱られてらっしゃるわ。』
婚約者の友人もそのやりとりを知っているように、思い出して笑う。
――あの婚約者は権力を使って、殿下の婚約者の座に収まった。
――あの婚約者は、王子妃に、果ては王妃を狙っている。
――あの婚約者は、我がままで、傲慢で、
誰が言っていた?
誰も聞いていない場所での言葉が、本当の彼女の本音ではないのか。それも驚くことに、この婚約は王家から乞われたという。婚約者の友人がさらりと聞けるぐらいには周知の事実なのか?
では、では、彼女が私を好きで権力を使って婚約者になったわけでもなく、王妃を狙っているわけでもなく、
彼女は嫌々ながら、私の婚約者になったのか?
お茶会での彼女を思い出す。
我がままで婚約者の座を奪ったにしては、私に何も言わない。私の側に来れて照れて緊張しているのかと思っていたが、あれはただ無関心だったのか。
私の言葉につねに笑顔で答えてくれていたが、今、友人といる時のように楽しそうではなかった。こんなに可愛らしい笑い声さえ、初めて聞いた。
頭が、何かに覆われているように重い。息が苦しいのに、吐き気を催すように何か得体のしれないモノが臓腑から這い上がってくるようで、怖い。
よろめいたとたんに、体が動くことに気づく。
護衛に目配せして、急いでその場から離れた。
*◇*◆*◇*◆*
「お嬢様。」
長年側で仕えてくれている護衛が、そっと名を呼んだ。
目線だけで合図をすると、頷いて護衛は元のようにあたりを警戒しだした。
「どうしたの?」
リリィが不思議そうに尋ねる。
「なんでもないわ。でも、リリィについて隣国へ行く件、殿下の浮気と合わせて、お父様に相談してみるわね。」
「本当ですの!それは、楽しみですわね!」
輝くような笑顔で、リリィは手を合わせて喜んでくれた。
彼女は知らない。殿下が私達の会話を聞いていたことを。でも、殿下が浮気してからよく家でする愚痴だもの。リリィの心配もいつものこと。
今日は初めて、学園で話した、だけ。そこに、偶然、殿下が通りがかっただけ。いつも私がいると不機嫌な顔で無視して去っていくから、今日もすぐに去るのだと思っていたのに。なぜか、立ち止まってしまわれた。私になんて、興味ないはずなのに。
弱みでも握る気でしたのかしら。
聞かれて困るようなことでもない。
殿下に嫌われているのは昔からだもの。小さい頃は、そんなことも出来ないのかと、何かにつけて引っ張りまわされた。何度泣かされたか、覚えていないほどだ。
こちらも婚約破棄を望んでいる。王家からの打診だから、こちらからはもう断れない。だから、そちらからよろしくお願いしますね。
という感じだったのだけど、伝わったかしら?
早く婚約破棄してくれないかしら。
読んで頂いたことに感謝を。