面食い
平坂大学心理学研究部の部員である明上征景と桐山咲は、先輩と後輩の関係だ。決して性格が良いとは言えない征景と、その後ろを何かしら文句を言いながら付いていく咲の組み合わせは部内では馴染みの光景だった。ともすれば二人は恋人なのではないかと疑われそうなものだが、浮いた雰囲気を微塵も出さないため『残念コンビ』という不名誉な呼ばれ方をされている。
周囲から要らぬ期待をされている二人だが、現在とある問題に頭を悩ませていた。
「ストーカー、か」
「はい、間違いないです」
それは、咲のストーカー被害。
お昼時で部員が出払っている心理学研究部の部室。あまり他人に聞かれたくない話題を切り出すにはちょうどいいタイミングだった。
咲の容姿は世間一般の美醜の感覚で言えば確実に美しい側に振り分けられる程度には整っている。髪は染めずにショートカット、Tシャツとデニムパンツのボーイッシュなコーディネートを好んで選び、釣り目が印象的な顔立ちからは意志の強さを感じ取れる。過剰に着飾らないというのが咲の信条だ。
「それで、ストーカーに気付いたのはいつだ?」
「一昨日です。意識してなかった時期を考えると、先週から尾行まがいのことをされてると思います」
普通ならもっと不安げに語ってもおかしくない内容を冷静に話す咲が面白くないのか、征景は銀縁メガネをいじりながら話を聞いている。
「ストーキングされている女の反応とは思えんくらい事務的な物言いだな。もう少し怯えてくれれば聞き甲斐もあるんだが」
「明上先輩、そう言う先輩も相談相手にあるまじき発言をしてると思うんですけど、気のせいですか?」
咲はあからさまに嫌そうな顔をするが、征景は意に介すことなく無言で話の続きを促す。普段通りの視線の鋭さからは際立った感情を読み取ることはできない。
「はぁ……基本的に部会で帰りが遅くなった時に限ってつけられてる気配がするんです。今のところ郵便受けに不審物は入ってませんし、ゴミも漁られてません」
「これからされるかも知れんがな」
「ストーカーとかそういうの関係なく先輩を警察に突き出したくなってきました」
ジト目で性格の悪い先輩を睨みながら、咲は紙パックのレモンティーにストローを突き刺す。
「俺は当然あり得るだろう可能性を述べたまでだ。それに……」
征景はレジ袋からコンビニで買ったおにぎりとペットボトルのお茶を取り出しながら、
「そのストーカーは本当に人間か?」
彼女に鋭い視線を投げかけた。
咲は予想外の言葉に目を白黒させるが、自身に備わる力――霊能力に関係する事案なのではないかと暗に問いかけられ、困惑する。彼女の先輩であると同時に霊能の師匠でもある征景は、弟子を試すような意地悪い笑顔を浮かべている。
「た、確かに私は霊能持ちですけど、今回のは違うと思います」
「理由は?」
間髪入れずに質問する征景。
「さっき私は気配って言いましたけど、靴の足音とか息遣いが聞こえてきたんです。幽霊は呼吸なんてしませんし、足音が聞こえてる以上、人間で間違いないと思います」
「ふぅん……」
適当に聞き流してお茶を飲み始める征景の姿に沸々と怒りがこみ上げてくる咲だったが、彼が側に置いてあるバッグからおもむろに何かを取り出し始め、そちらの方に意識が向く。
「どちらにせよ、リトマス紙は必要だろう。こんなのでどうだ」
取り出したのは、筆で何かしらの模様が書かれたお札だった。
「これは?」
「術式を可能な限り簡略化した身代わりの護符だ。シンプルな分、出力次第で効果を高められるが気の消耗も激しくなる」
説明しながら征景は咲に護符を差し出す。
「これに込められた気はさほど多くない。壊れることを前提に作られたセンサーみたいなものだからな。害意ある霊がいるならその邪念に反応するはずだ」
「渡してくれるのはありがたいですけど、つまり私はもうしばらくストーカーの恐怖に怯えることになるんですね」
護符を自分のバッグにしまいながらため息を吐く咲。
「いや、今日の結果次第だ。ちょうど部会の日だからな」
扉の方から複数の足音と話し声が反響して聞こえ始める。部員たちが帰ってきたようだ。
「まぁ、せいぜい頑張りな」
愉快そうに口角を上げ、征景はおにぎりの包みを破いた。
大学の講義も部会も終わり、咲は歩いて家に帰っていた。家の近くまでは電車を使って移動したが、そこから少し歩かなければならない。普段ならさして気にするほどのことではないのだが、今の状況――ストーキングされているという事実を考えると、彼女が足を速めるのはごく自然なことだった。
空は紫色に染まっており、夕暮れの残滓が僅かに空の果てを照らしていた。五月になり、冬よりは日が長くなっているものの、十九時になれば当然空は暗くなる。住宅街に通じる路地を照らす街灯のカバーは黄色っぽく変色しており、白いはずの光はカバーを通過し、古臭い黄色に染まっている。
咲は征景からもらった護符を懐に忍ばせ、背後に気を配りながら早足で移動する。護符とはいえ、説明を聞く限り探知用の使い捨て。身を守る効果は期待できない。そもそも、相手は人間の可能性が高いのだ。幽霊にすら雀の涙程度の効果しかない紙切れが人間相手に役立つはずがない。
(こんなの持たせて、先輩は一体何を考えてるんだか……)
征景は常に不可解な行動で咲を振り回してきた。それが原因で危険な目に遭うことなど日常茶飯事、巻き込まれた案件は両手の指でも足りないほどだった。しかし、形はどうであれ解決しているので、今回も何か企んでいるのだろうと咲は考えた。
閑静な住宅街に入り、道に夕飯の匂いが微かに漂う。この香ばしい香りは焼き魚だろうか。食欲を刺激される匂いに緊張が和らぐ。
「はぁ、おなか空いたなぁ」
尖らせていた神経が緩み、肩の力が抜けたその時、足音が聞こえた。
咲の足が止まる。
さっきの音は幻聴か。
それとも本物か。
音の出所を探るために耳に神経を集中させる。
足音が再び響く。
コンクリートの塀に反響しているため判断がつかないが、後ろにいるということだけはわかった。
三度、足音が響いたのを知覚するより前に咲は走り始めた。
履き慣れたスニーカーがアスファルトの地面を掴み、バッグにつけたストラップの鈴が咲の動きにつられて軽快な音を出す。足音の主も咲に合わせて歩調を速める。
(ついてきてる……きっとストーカーだ!)
咲の頭の中で警鐘が鳴り響き、鼓動がもっと速く走るよう急かす。突然の激しい運動に酸素の補給が追いつかず、荒い息を吐き出す。
後ろの気配は一定のリズムで歩いているはずなのに、足音は確実に咲との距離を縮めている。不可解な現象と、それに追われている事実に心の底がから凍えるような恐怖が湧き出す。
(家まであと少し……!)
直線道路の先に咲の住む家が見える。玄関の柔らかな灯りは道標そのものだった。疲労によって重さを増す足に喝を入れ、薄暗がりの道を駆け抜ける。
アスファルトとコンクリートに反響する足音は歪なリズムを刻み、ローテンポな足音がハイテンポな足音を追い詰める。
咲の耳元で生々しい息遣いが聞こえ始め、全身の毛が嫌悪感と怖気で逆立つ。
ストーカーとの距離感覚が掴めない。
今すぐにでも叫びたくなる衝動を必死に抑え込み、玄関の扉にほとんどぶつかる勢いで突っ込む。急いで扉を開けようとするが、鍵が掛かっていて開けることができない。
「嘘、ちょっと、嫌ぁ!」
半ばパニックに陥りながらバッグの中身をひっくり返そうとした時、ストーカーと目が合った。
それはカメラのピントがズレた被写体のように身体の輪郭がぼやけていた。上半身は細身の男のようであったが、その両足は骨格の存在を感じさせないほど柔軟に揺れ動く。人間とは思えない姿をしたソレは、暗闇の猫のように黒目を見開き、
「ブスが」
と吐き捨てて舌打ちをした。
ソレは咲に興味を失った素振りを見せ、不規則に揺れ動きながら夜の暗闇に姿を消した。
咲は身体を吊っていた糸が切れたかのようにその場にへたり込み、ただ呆然とした表情で虚空を見つめていた。
それからしばらくして護符のことを思い出し、彼女は懐から護符を取り出した。何かしらの反応を示しているはずのそれはしかし、一切の変化を見せていなかった。
翌日、朝一で部室に訪れた咲は、咲よりも早く部室に来ていた征景に昨晩の出来事を話した。今回ばかりは心底怖かったようで、その語り口にも熱がこもっていた。その話を終始にやけ顔で聞いていた征景の顔に咲は護符を突きつける。
「この護符、何の反応もしてないんですけど、どういうことですか」
眉間にしわを寄せながら尋問する彼女に「しわが増えるぞ」などと軽口を叩きながら理由を説明する。
「お前に渡したのは防御用の札ではなかったってだけの話だ」
「じゃあこれは何なんですか」
札を机の上に叩きつけながら問い詰める咲。
「こいつは持ち主の顔を変える幻術を込めた札だ。名付けるとしたら『面食い』といったところか」
「顔を変える?」
困惑する咲の反応が面白いのか、征景は話を続ける。
「ストーキングの要因にも色々あるから半分賭けのつもりで渡したんだが、面食いな奴で良かったな。それと、お前を追いかけてた奴は本職の払い屋が片づけたらしいから安心しろ」
征景は咲から札をひったくり、用無しとばかりに札を破り始めた。申し訳程度の事後処理報告に安心した咲だったが、彼女の頭にひとつの疑問が浮かび上がった。
「でも、どうしてそんな回りくどいものを作ったんですか? 緊急で対処するにしても他の術式で代用できるはずなのに」
師匠の真意を掴めずにいる咲に向かって、征景は右手の人差し指と親指で輪を作って残りの指を伸ばしてみせる。
「これのためだ」
「……小金稼ぎですか」
咲は落胆の溜め息を吐いた。そんな後輩の様子に構うことなく征景は紙くずになった札をゴミ箱に捨てる。
「顔が整ってるだけで恨みを買う美男美女に災難除けとして売りつける。すでに買いそうな奴らに目星をつけてあるしな」
「でもその札の効果って……」
咲が例のストーカーに面と向かって言われた言葉を思い返しながら問いかけると、
「あぁ、この札はブスになる札だ」
征景は意地の悪い笑顔を浮かべながら答えた。
今回の『面食い』はだいたい2年前に部内誌で出した作品に加筆修正を加えたものです。
かなりの期間執筆していなかったのでリハビリがんばります(白目)。