今の見えない未来の私はきっと
「ふぅ…」
今日、既に何度目かわからないため息が口から洩れる。
私は今、人生の転機に立たされていた。
目の前には白紙の書類。
二日前に設定された提出期限を過ぎてなお、なんの進捗も見られない一枚の紙を前に、私の口からはため息しか出てこなかった。
期限的にもそろそろ「書類を忘れました」の言い訳で通すのは厳しい。
つまるところ、私には時間が残されていないのだった。
「進路、ね…」
机に額を押し付け、体重を乗せる。
適度に冷えた机の天板が、額の熱を冷ましてくれるような気がした。
校舎の外からは、部活に励む生徒の活気に満ち溢れた声が聞こえてくる。
部屋の外と内側に流れる活気の違いに、どこか、ひとり取り残されたような気分になる。
「誰かと思ったら先輩じゃないですか」
そんな感傷めいたものに浸っていると、頭上から声が降ってきた。
緩慢な動作で首を上げると、そこには見知った顔があった。
「や、久しぶりだな後輩君」
声をかけてきた小柄な少年は、不思議なモノを見るような目で私を見下ろしていた。
「なんですかその呼び方」
「ん、なんだろうね」
再び机に額を下ろす。
はぁ、という後輩のため息が聞こえる。
「めずらしいですね」
「なにが?」
「先輩が図書館にいるなんて」
「そんなこと…」
ない、と言おうとしたが、思い返してみると私が図書館に来たのはこれが二回目だった。
ちなみに一回目は、私がまだ高校一年生のときの学校案内でだ。
「君は、ここにはよく来るの」
「図書委員ですから」
知らなかった。
この後輩とはこれでも二年ほどの付き合いになるが、図書委員だったとは。
考えてみると、委員会に限らず私はこの後輩についてほとんど何も知らないことに気が付いた。
「知らなかった」
「言いませんでしたっけ」
「聞いたかもしれないけど、覚えてなかったのかな」
はぁ、と再びため息を吐く。
「まぁ、先輩は人の話あまり聞きませんからね」
それより、と前置きしてから、後輩は私の目の前に放置されている紙に目を向けた。
「これ、提出期限過ぎてるみたいですけど」
「勝手に見んな」
「じゃあ見えるような場所に置かないでください」
再び顔を上げると、後輩は私の真向いの位置に移動していた。
それはつまり、私の書類がよく見える位置にいるということである。
「進路希望調査票…」
「あー、もう、見んなって」
机の上のそれを雑に掴み取り、カバンに突っ込む。
なにも書いてはいないのだから、見られて困るようなことはなにもないのだが、今はその、何も書かれていない紙を見られるのが何よりも嫌だった。
「この時期に進路決まってないって、結構深刻だと思うんですけど」
「わかってるよ、そんなこと」
私が一番、わかっている。
「大学、行かないんですか」
「ん」
大学進学。
正直な話、それがいま一番現実的な選択肢ではあった。
「先輩、成績よかったですよね。それとも一年間で落ちぶれました?」
「余計なお世話だ」
別に落ちぶれたりはしていない。
落ちぶれていないはずだ。
「正直さ、わかんないんだよね」
「わかんないって、何がですか」
「自分が何がしたいのか」
「はぁ」
後輩が、思春期の困った子供を見るような顔をした。
気持ちはわかるけどその顔はやめてほしい。
「自分探しの旅にはちょっと遅いですよ」
子供を諭すような口調で語る。
その冗談とも本気ともつかない忠告に、私はひらひらと手を振った。
「別にそんなんじゃないって。それに、自分がここにいるのに自分探しなんてできっこないよ」
「へえ、なんというか、先輩らしい」
「自分探しなんて言ったって、大抵答えなんて既に見つかってるもんなんだよ。あとはもう一歩踏み出すための決心を固めるだけ。決心を先延ばしにするのが自分探し」
「ふむ、なるほど…」
どうとも取れる適当な相槌をした後、後輩は人差し指を立てる。
「その理屈でいくと、やっぱり先輩がしてるのは自分探しなのでは」
「んー」
そういわれると確かにそんな気もしなくはない。
ただ、もっと前の段階というか。
私の場合はそもそも。
探したい自分が見つからないのか。
それとも探したくないのか。
その程度のことですら今の私にはわからない。
自分が見えない。
他でもない自分のことなのに。
「ありきたりですけど、先輩は将来の夢とかないんですか」
「将来の夢」
なんだかその言葉の響きだけで笑ってしまいそうになる。
今の私にとって、その言葉はサンタクロースと同じくらい現実味を感じない。
昔の私ならなんと答えただろう。
「なんだろう、なにも浮かばない…。完全週休2日の定職、残業はナシ?」
「悲しすぎるのでやめてください」
後輩は額に手を当て首を振る。
どうやら本気で呆れているらしい。
「いやさ、当たり前のことなんだけど、私と同年代でも、私より優秀な人間っていっぱいいるわけよ。それは別に、なにか特別な研究で賞をもらうとか、飛び級で大学に進学しちゃうとか、そんなレベルの話じゃなくて、単に模試の成績を見ても、私より上はいっぱいいるわけ」
「そりゃそうでしょう」
「もちろんスポーツでもそう。私と同じ年で世界を相手に戦っちゃったりするわけよ」
「まあ、そういうのはごく一部ですけどね」
「そういうの見てるとさ、私には何ができるんだろうって、ふと思っちゃうんだよね。別に、『私にしかできないことがしたい!』とかそんな大層なことじゃなくてさ」
うまく言えない。
言葉で表現できないことが、ここまで歯がゆいものだとは思わなかった。
しかし、ここできれいに説明できたら今悩んだりなどしていないのかもしれない。
「なんかもういっそのこと、虫になりたい」
「カフカですか」
「なんでもカフカに結び付ける風潮、私はよくないと思う」
まあ、カフカを意識していなかったと言えば嘘になるが。
「でも、ちょっと意外でした」
カフカは置いといて、と後輩は話を続ける。
「何が」
「先輩ってそういうの、なんかすぐに決められる人だと思ってたので」
-確固とした自分がある、というか。
-迷いなく自分の道を進める人のような気がして。
「それは過大評価だよ。私だって、悩みもすれば迷いもするさ」
後輩の言葉を笑い飛ばす。
もし私がそんな人間だったら今こうして悩んでなどいない。
そんなことを考えていると、おもむろに後輩が口を開いた。
「別に悩んでも迷っても、いいんじゃないですか?自分で選んだ答えなら、たとえ後悔しても、きっと先に進めるから」
「どうしたの、急に」
少し面食らった。
この後輩がこんなセリフを吐くとは思わなかった。
「僕がある人に言われた言葉です」
受け売りですよ、と。
「へえ」
予備校の講師にでも言われたのだろうか。
完全に偏見だが。
「先輩ですよ、僕にこれ言ったの」
「は?」
私にそんなことを言った記憶はない。
というか仮に私だったとして、非常に恥ずかしいので、今すぐその記憶を後輩から消し去りたかった。
「私が、いつ?」
「この高校の説明会の時です」
「説明会?」
全く記憶にない。
試しに記憶を掘り返してみても、そんな記憶は一向に出てこなかった。
「ちょうど一昨年の今頃の時期、高校の説明会で先輩に質問しに行ったんですよ」
「ああ、なんとなく思い出した…」
ちょうど一昨年、学校の説明会で、生徒会の一員だった私は学校生活に関する質問を受けるコーナーの一部を任されていたのだった。
とは言え、質問に来る生徒が思っていた以上に多かったのと、もともとやる気がなかったのもあり、ほとんどが記憶にない。
「僕が質問に行ったとき、対応してくれたのがたまたま先輩だったんです」
「あ、そう…」
適当に質問に答えていたであろう自分が容易に想像でき、当時の生徒に謝りたくなってきた。
それはそれは雑な対応だったに違いない。
「当時、僕は進学先にすごく悩んでて、なんというか、失敗したくなかったんでしょうね。きっと」
「失敗ね」
それは、今の私にも通ずるところがあるような気がした。
「それで先輩に聞いたんです。この学校に入ってよかったかどうか、って」
今考えると、通ってる本人に訊くようなことじゃないですけどね、と苦笑する。
「それで、私はなんて?」
昔の私がなんと答えたのか、興味があった。
昔の私は彼に対して何と言ったのか。
「そんなこと聞いてどうするの?って、言われました」
力が抜けた。
我ながら酷すぎる。
「この学校に入ってよかったかどうかは、私じゃなくて君が決めることだって。でも、悩んで、迷って、その上で決めたことなら、たとえいつか後悔したとしても、それは失敗にはなりえない、と」
当時を思い出したのか、少し目を細め、懐かしそうにそう言った。
「後悔はしても…」
失敗じゃない、か。
にしても、中学生相手に酷いことを言うものだ。
いやまあ、二年前の自分なわけだが。
「なんというか、こう、それで吹っ切れたみたいなところもあって、結構感謝してるんですよ。これでも」
照れ隠しなのか、指で頬を掻く。
「へー、それならよかった」
なんだ。
答えなら、自分でとっくの昔に出していた。
二年前の自分が今の私を見たら、呆れるに違いない。
そんなところで何を足踏みしているのかと。
「悪くないかな、そういうのも」
カバンを持ち、椅子を引いて立ち上がる。
「あ、帰るんですか?」
「うん。紙出してからね」
もう散々悩みはした。
「教員とか悪くないな…。私才能ありそう」
その上で私自身が出した結論なら、たとえ後悔したとしても、未来の私はそんな自分を笑っていられるだろう。
「ありがと、助かったよ」
「僕なんかしましたっけ」
首をかしげる後輩をよそに、図書室を後にする。
「結局、自分探しだったってことなのかな」
昔と、未来の自分探し。
廊下に差し込んだ夕日が、今日は少しだけ明るく感じた。