シーズ・ソー・ラブリー
「シーズ・ソー・ラブリー」
「アビー、早く寝なさいね。おやすみ」
部屋のドアの前から母の気配が消え、更に階段を下りていく足音を確認すると、アビゲイルは窓を開ける。肌を刺すような空気の冷たさに思わず身体を震わせながら、窓から身を乗り出し、階下を見下ろす。そこには物干し竿を持ち、白いフェイクファーのコートを着た友人が立っていて、アビゲイル以上に身を震わせながら、「早く降りてきて」と言わんばかりに、しきりに彼女に手を振り続ける。
アビゲイルはコートを羽織ると、窓から屋根に降り立つ。すぐさま這いつくばるような体勢で、恐る恐るゆっくり屋根の端側まで移動し、そこで友人に物干し竿を立て掛けてもらい、倒れないようにも支えてもらいながら、竿から滑り落ちるようにして地上に降りる。
「はぁーー、今回も何とかママもごまかせたし、物干し竿も折れずに無事に抜け出せたわ」
もう二十歳になると言うのに、アビゲイルの母は彼女に対して過保護だった。例えば、門限は十九時までとか。ちなみに現在の時刻は二十二時半、門限はとっくに過ぎている。当然、外出できない時間であるし、バレたらしばらくは仕事以外の外出は禁止されてしまうだろう。
それでも、アビゲイルにはどうしても行きたい場所があったのだ。
「セシル、今夜も付き合ってくれてありがとうね」
共犯者の友人にいつものごとく感謝の意を述べると、友人もいつものごとく笑いながら返す。
「いいのよ、私もあんたと同じように会いたい人がいるし。お互い様だってば」
それにしても、と友人は、アビゲイルの姿にまじまじと目をやり、呆れたように言う。
「アビー、あんたさ、もうちょっと着飾ってきなさいよね。一応、夜会なんだし。それじゃまるで、カーテンか、子供か年寄りの下着みたいよ」
白いフェイクファーのコートの下に、真っ赤なベルベットのドレスを着た友人に対し、アビゲイルは紺色の地味なロングコートの下に、いかにも安っぽい総レース生地のベージュ色のワンピースを着ていた。
「……だって、派手な色や高い生地の服だとママから注意されるんだもん」
アビゲイルは、服一つ買うのも母の許可を得なければならず、このワンピースも「仕事でお客さんが、もうちょっと可愛い服着たら?って。ほら、やっぱり美容に関する仕事だし、あんまり野暮ったい見た目じゃ駄目だと思うし」 と苦しい言い訳をして、何とか買ったくらいだった。
友人はますます呆れてしまい、それ以上は何も言わなかったが、アビゲイルは服装を気にするよりも、一刻も早く目的の場所に着いて彼に会いたかった。
「こら、アビー。客がいないとは言え、仕事中だぞ」
手で押さえても隠しきれない程の大きな欠伸をしたアビゲイルの頭を、ブロンドの長い髪を後頭部辺りで団子状に緩くまとめた、長身の青年が軽く小突く。
「痛っ、暴力反対っ!」
自分の頭二つ分は背が高いであろう青年を見上げ、赤縁の眼鏡越しに睨みつける。
「そんな涙目で睨まれたって怖くも何ともないな。その涙も欠伸で出てきたものだと思うと、可愛くもないし」
「……うるっさいな、馬鹿チェスター!」
「仕事中に涙が出る程大欠伸する方が悪い。客や母さん、エリザがいないからって気を抜くな」
青年ーー、チェスターはそう言うと、抱え込んでいた大量のタオルを強引にアビゲイルに受け渡す。
「暇なら、戸棚に閉まってきてくれよ」
断る理由もなければ、先程の大欠伸を見られてしまったバツの悪さも手伝い、アビゲイルは素直に言うことを聞いた。いくら気の置けない幼なじみとはいえ、チェスターは仕事上では一応先輩にあたるからだ。
アビゲイルは、チェスターの母が営む美容室で働いている。
元々、家が隣同士でお互い母子家庭だったこともあり、チェスターの母とアビゲイルの母は仲が良く、チェスターはアビゲイルより二歳年上だったので自然と兄妹のような関係になっていった。だからか、同性の友人との付き合いすら厳しくするアビゲイルの母も、チェスターに対しては信頼を置いていて、「アビーをお嫁さんに貰ってくれないかしら」と言う程である。しかも、チェスター本人を前にして。
その度にアビゲイルは焦って「ママ、そういうこと言うのはやめて」と必死に抗議するのだが、チェスターは「いやーー、アビーは僕なんかよりも、もっと良い人に嫁がせるべきですよーー」とさらっと大人の対応で上手に流す。
そんなチェスターを見ていると、すぐムキになってうろたえる自分の子供っぽさがつくづく嫌になる。こういう部分があるから、母にいつまで経っても子供扱いされるのかもしれない。
そもそも、この店で働き出したのも、十五歳で街の学校を卒業し(この国では約百年前に階級制度を廃止し、それにより極端すぎる貧富の差もなくなり、教育制度も見直され、各市町村ごとに発足された学校へ十五歳までは無償で通うことができるようになった。しかし、そこから先の高等学校や大学まで通うのは元貴族や一部の富裕層、もしくは高い学力により特待生になれる者のみで、中流家庭以下は大体十五歳から働き始めるのだった)、アビゲイルも卒業後、しばらくは近所の雑貨屋で夕方までの時間働いていたが、仕事が立て込むと門限の十九時を超えてしまうことが度々あったため、半年経たずに母により強引に辞めさせられ、代わりにチェスター達の店で働かせてもらうことになったのだ。
ここならば家のすぐ近くだし、仕事やカットの練習等で帰りが遅くなる場合はチェスターが送ってくれるから、と言う理由で。
アビゲイルは母によって、半径一㎞に満たない小さな小さな世界でしか生きることを許されていない。が、それでも別に良いと思っていた。
友人のセシルに、とある夜会に誘われるまではーー。
山積みになったタオルを奥の戸棚に片付け、再び店に戻ったアビゲイルにチェスターは言った。
「お前、夜遊びするのは良いけど、程々にしておけよ」
「は?何が??」
「昨日の夜遅くに家抜け出して、セシルと一緒にどっか行っただろ。見たのが俺だったから良かったけど、母さんだったら間違いなくおばさんに密告されてたぞ」
「………………」
「……まぁ、お前だって、年相応に夜遊びの一つや二つしたいって言う気持ちはわかるさ。ただ、限度がある。俺が見ていた限り、抜け出し方が慣れてるように見えたから、最近頻繁にやってるだろ??」
「………………」
「……図星かよ」
チェスターは、わざと大仰にため息をつく。
飼い主に叱られた子犬のように頭をうなだれ、見るからにシュンと落ち込んでしまったアビゲイルの姿を見て、さすがに可哀相に思ったのかチェスターは彼女の頭をポンっと優しく撫でる。
「……寝不足になるまで遊ぶなってことと、おばさんが心配するようなことはすんなってことだよ」
「……分かった……」
チェスターは心配だった。
籠の中で飼われている鳥はとかく自由を求めたがる反面、広い空での飛び方を知らない。空で思い切り羽ばたけることが嬉し過ぎて、飛び回ることに夢中になりすぎる。夢中になりすぎて周りが見えなくなり、気付いた時には元いた場所がどこなのか分からなくて帰れなくなってしまう。外で生きる術を持たないまま。
アビゲイルは、そういう危うさを持っていた。
彼女は母親に対しては勿論のこと、周りの他の人間に対しても素直すぎるくらい柔順だった。チェスターにだけは時折、噛み付いてくることもあるが、最終的には必ず言うことを聞く。
暇を持て余し、店の中を箒で掃き掃除を始めたアビゲイルをちらりと横目で見る。彼女の赤縁眼鏡は、この店で彼女が働くことが決まった時、チェスターが選んで贈ったものだ。フレームの赤色は、彼女の白い肌とウェーブがかった栗色の長い髪によく映え、アビゲイルは不器用ながら真面目な仕事ぶりと素直な性格から「赤縁眼鏡の看板娘」と、特に中年の女性客から可愛がられた。
しかし、アビゲイルの素直さは自分自身の意思のなさの裏返しだとチェスターは思う。
そんな彼女が自分の意思というものを抱き始めたのは良いことなのだが、どうも間違った方向へ突き進んでいって、いつか暴走しやしないか。母親からも周りからも狭すぎる世界の中で「素直で真面目な、聞き分けの良い子」という生き方を強いられ続けてきた彼女のタガが外れた時、純粋すぎるが故に染まりやすく(何に染まるのかは分からないが)、ちゃんと元に戻れるのだろうか。
(ーーまぁ、考え過ぎだよな。おばさんの過保護が移ったか)
これじゃ、本当に実の兄貴みたいだな、とチェスターはつい苦笑いを浮かべ、それを見たアビゲイルが「何、一人で笑ってんの……、気持ち悪いよ……」と引き気味の様子で突っ込んだのであった。
ーー数ヶ月後ーー
「ねぇ、チェスター。ちょっといいかな」
終業後、マネキン相手にカットの練習をしていたチェスターに、同じく共に練習をしている、髪を男性のように短く刈り上げた中性的な容姿の、チェスターより幾つか年上の女性従業員、エリザが神妙な面持ちで声を掛ける。
「アビーのことなんだけど……」
「あいつ、また何かやらかした?」
どうせまた客の注文通りに出来ず失敗し、怒らせてしまったとか、そんな類の話だろうとタカをくくっていたチェスターだったが、エリザの口から信じられない発言が飛び出した。
「あの子、もしかして妊娠してるんじゃない?」[
ガッシャーンと言う硬い金属音が足元に響く。余りに予想外すぎる言葉に動揺し、手にしていた大事な商売道具の鋏を不覚にも落としてしまったようだ。慌てて拾い上げながら、「何でそう思うんだよ??」と、努めて冷静にエリザに問う。
「……いや、あくまで何となくなんだけど……。最近、やけにアビーの顔色が悪くて、どんどんやつれてきている気がするし、あと、隙を見てはトイレでよく吐いてるみたいなのよ」
「ああ……、あいつ生理不順な上に生理痛も重たいから、それが原因なんじゃない??もしくは、何か悪いもんでも食って、調子が悪いのか。あいつ胃も弱いから、たまに胃壊しては軽く拒食状態になることあるし」
「……それなら、まぁ、良いけど……って、体調悪いことには変わりないから、良くはないか」
「何にせよ、客の前で具合の悪そうな顔見せるなんて接客業者として失格だし、俺の方から体調管理に関して注意しておくよ」
まだ何か言いたげなエリザに有無を言わせぬ強い口調で、チェスターは言う。
「アビーみたいな、超がつく程の箱入り娘に限って有り得ないって」
チェスターが知る限り、アビゲイルには恋人や男友達はおろか、自分以外でまともに口を利ける男はいない。そもそも、あの母親が男性との付き合いを簡単に認める筈がない。
なのに、チェスターの中で百%否定することができなかった。数ヶ月前に夜な夜な部屋を抜け出していたのは、男に会う為だったのかもしれない。あくまで最悪の想定なだけで、大事にならなければ良いが……。
次の日、チェスターとアビゲイルの二人だけで店の仕事していた。
チェスターの母は大変腕の良い美容師で、評判を聞き付けた街の内外の富裕層の奥様方やお嬢様方に呼び出され(この手の人々は未だに特権意識を持っているので、自ら店に出向くなんてことはしない)、エリザを助手として伴って出掛けることがあり、時々、店をチェスター達に任せることがある。客が多い日は非常に慌ただしくなって大変だが、今日は常連の中年女性客一人だけなので楽だ。
髪を切った後、シャンプーをアビゲイルに任せ、それが終わると二人がかりで髪を乾かす。その時にようやく気付く。
アビゲイルの顔色が悪く、血の気がすっかり引いて真っ青なのだ。
「アビー。もう俺一人でやれるから、お前は休憩してこいよ」
その言葉を待ち続けていたのか、アビゲイルはすぐに使っていた道具を片付け出し、店の奥の休憩室に入っていった。
「おい、アビー」
客が帰った後、同じく休憩室に入ってきたチェスターが見たのは、眼鏡を外してソファーの上で海老反りになり、ぐったりとしているアビゲイルの姿だった。
「……お前、もう今日は帰れ」
「……少し休めば何とかなるっ……」
「何言ってんだ。さっきも青い顔してたくせに。あんな顔して客の前に出られるのは、正直迷惑なんだよ」
「……ごめんなさい……」
「別に謝って欲しい訳じゃない。今日無理することで、体調がますます悪化したらいけないだろ?」
「…………わかった…………」
「立てるか??無理なら、ちょっとだけ店閉めて家まで送ってやるよ。帰る途中で倒れたりされても困るしな」
「…………ありがとう…………」
帰り支度をしようとアビゲイルは、体を起こし立ち上がろうとした。が。
「…………気持ち悪い…………」
「……は??おい!トイレ行けるか?!」
「……………無理……かも……………」
チェスターが咄嗟に近くにあったゴミ箱を手渡すと同時に、アビゲイルは派手に嘔吐した。
「……お前さぁ……、もしかして……」
チェスターは昨日のエリザとの会話を思い出す。吐くだけ吐いてすっきりしたおかげか、アビゲイルの顔色は先程よりも随分マシになっている。
「…………何…………」
眼鏡を掛けていないアビゲイルは目も鼻も唇も全てが小さく、際立った特徴のない地味な顔立ちをしていて、おまけに体調不良で目が虚ろなので、余計に覇気がなく見える。
「…………何でもない…………」
さすがのチェスターも、こればかりは聞くことが出来なかったが、疑念は確実に膨らんでいった。
ところが、しばらくすると今度はエリザの妊娠が判明し(エリザは長年付き合っていた恋人と一年前に籍を入れている)、今まで彼女がやってきた出張仕事の助手等、新しい仕事を覚えていくことにチェスターは精一杯で、アビゲイルを気に掛けている余裕がなくなっていたし、エリザも仕事と体調とのバランスを上手く取ることを第一に考えていたし、チェスターの母も今までと仕事の体制を変えていくことやエリザがやってきた仕事をチェスターに引き継がせることで店全体がバタバタしていたので、誰もアビゲイルの変化に気付かなかった。
「ねぇ、アビー。貴女、ちょっと太ったんじゃない??」
ある日、チェスターの母がアビーに言った。
「うーん、確かに最近、やたら色んなもの、特に甘いものが食べたくて、つい食べちゃってましたけど……、そんなに太ってます??」
あまりに不安そうに見つめるアビゲイルにチェスターの母は噴き出す。
「いいえ、貴女はどちらかと言うと痩せすぎてたから、今くらい太った方が丁度良い…、むしろもっと太ってもいいくらいだと思うわ」
「母さん、そんなこと言うとこいつ調子に乗りすぎて、気付いたら豚みたいなデブになりかねないぜ」
「うるさいよ、チェスター」
二人の憎まれ口の応酬に、チェスターの母を始め、エリザや客達もくすくす笑う。二人のやり取りは店の名物と化している。
確かに以前と比べて、アビゲイルは少しふっくらしている。特に、顔周りと……、腹の辺りが。
チェスターは気付かれないように彼女の腹部を盗み見る。すると再びあの疑念が湧き、今度こそ聞かなければ……、とようやく決心をしたのだった。
「おはようございまーす!」
アルフレッドの手を引きながら、アビゲイルが店に出勤してきた。
「おう、おはよう、アビー」
挨拶を返すとチェスターはしゃがみ込み、彼女の息子にも声を掛ける。
「おはよう、アルフレッド」
「おはようございます、チェスターさん」
アルフレッドはちょっぴりはにかみながらも、しっかり挨拶をする。癖のないブルネットの髪、切れ長の薄いグレーの瞳で幼いながらに鼻筋の通った、綺麗な顔立ちをしたアルフレッドは、抜けるように白い肌以外はアビゲイルに全く似ていなかった。おそらく、父親である男に似たのだろう。
「メアリも来てるから、奥で一緒に遊んで来いよ」
メアリはエリザの娘でアルフレッドとは同い年だったので、店で預かってもらう時に二人が揃うといつも仲良く一緒に遊んでいた。アルフレッドはほんの少しだけ嬉しそうな顔をすると、わかった!と言って奥の部屋へ入っていった。
「いやー、あいつは誰かさんと違って利発そうだねぇ。今四歳だったか?日に日に賢そうな顔になってきてる」
「そりゃそうよ、何たって、あの人に瓜二つなんだもの。むしろ、そうならなきゃおかしいわ」
(しまった、また始まった……)
アルフレッドの話になると、時々、彼の父親の話になってしまう。
五年前、アビゲイルの体調や腹の膨らみから妊娠を疑いつつ、チェスターが彼女に問い質すことはなかった。なぜなら、その数日後、店が休みの日にアビゲイルの母がいきなり家に怒鳴り込んできたからだった。
その日、とうとう家で倒れたアビゲイルを無理矢理病院に連れて行ったら、案の定、妊娠が発覚。五ヶ月に入る頃なので、母体のことを考えたら堕胎も厳しいと言われ、すっかり混乱したアビゲイルの母はすぐさまチェスターを疑った。
アビゲイルが相手はチェスターじゃないと言っても、ショックが強すぎて正常な判断ができなくなっていた母は信じようとしなかったし、チェスター自身が否定しても信じなかったため、最終的にチェスターの母やエリザまで巻き込んで、ようやく身の潔白を証明することが出来たのだった。
だが、肝心の子供の父親についてアビゲイルは口を閉ざしたままで、彼女の母がどんなに怒鳴り付けても何回も頭や頬を激しく叩いても、チェスター達に説得されても黙ったまま。今までの素直で従順なアビゲイルでは到底考えられない、頑なで反抗的な態度を貫いた。
全員がそんな彼女に戸惑った。
話し合いは一晩中続き、とうとうアビゲイルの母が彼女に根負けし、父親が誰なのか聞き出すの諦め、子供を産み育てることを許した。彼女の母は静かに泣いていた。
(……やっぱり、俺の思った通り、暴走しちまった……)
泣いている母親を他人事のようにきょとんと見つめるアビゲイルを見て、チェスターの胸が痛んだ。
アビゲイルは出産するまで毎日腹の子に向かって、「いい?あの人そっくりのブルネットの髪と綺麗な顔立ちの男の子に生まれてきてね」と話し掛け続け、希望通りの姿にアルフレッドは生まれてきた。これはあくまで想像だが、アルフレッドと言う名も「あの人」の名前なのでは、と思う。
アビゲイルはアルフレッドを溺愛しているが、腹を痛めた我が子だからというより愛した男の身代わりとして愛しているように見える。
それを幼いながらに感じ取っているのか、アルフレッドが「僕がお父さんに似てなかったら、お母さんは、僕をキライだったのかな?」とチェスターにこっそりと尋ねてきたことがあり、その時は「そんな訳ないだろー。アビーはアルフレッドがお父さんに似てなくても、女の子だったとしても好きだと思うぞー」と言ってはみたものの、完全に否定できない部分もあった。
一度だけ、「誰にも言わないし、聞いたことは全部墓場まで持っていく」と言う約束の元、アルフレッドの父親について聞いたことがある。
随分渋った様子で中々口を割ろうとしなかったアビゲイルだったが、根が素直な分、やはり誰にも言わないで黙り続けていることが苦しかったのだろう、彼女は語ってくれた。
セシルに半ば強引に誘われ、家を抜け出すことの協力と引き換えに嫌々付き合った夜会で、男と出会った。夜会で演奏していた楽団でピアノを弾いていた彼はとても美しい青年でアビゲイルは一目で恋をし、セシルも同じ楽団の別の青年に一目惚れしたため、二人でその楽団が演奏する夜会の日程を調べては度々出向いていたそうな。
そのうち、セシルがお目当ての楽団員と仲良くなり、アビゲイルも二人の計らいにより彼と何とか話ができるようになり、ますます恋心を募らせるも彼にはすでに婚約者がいたため、思いつめた彼女は「一回だけで良いから」と懇願した結果が……、現在の状況に至る訳である。
極力、口と態度には出さないように気を付けたが、チェスターはアビゲイルの浅はかすぎる行動に呆れを通り越して、若干失望を覚えた。
言い方は悪いが、見てくれの良さだけに憧れ、大してよく知らない男のために自ら据え膳になるなんて……。遊び慣れている女が全て承知した上でやるならともかく、自分以外の男とまともに接したことのない、世間知らずの小娘が一時の感情に流されて暴走しただけじゃないか。余りに幼稚すぎる。子育てを通して、多少は大人になっていくとは思うが……。
それからチェスターは、アルフレッドを気に掛けるようになり、アルフレッドも何かと可愛がってくれるチェスターによく懐いた。アビゲイルが「私より、チェスターに懐いてるのよね、この子。私だって、こんなに愛情掛けてるのにーー!!」とやきもちを焼くくらいだ。
「よし、じゃあ結婚するか」
「絶対、嫌」
アルフレッドが腹の中にいる時から数えきれないくらいプロポーズを繰り返しているが、未だに返事はノー。最近では、日常会話レベルと化している。
アビゲイルが好きか嫌いかと言われれば、好きだと即答できる。
ただ、それは家族愛のような感情が強く、女として好きかと言われると少し考えてしまう。が、どうしても彼女とアルフレッドをほっとくことができない。ならばいっそのこと、本当に家族になってしまえばいいじゃないか、とチェスターは考えるのだが、アビゲイルは「今更、男の人として見ることなんてできない。それに、チェスターは見た目も頭も良いし、器用で気遣いが上手いし、その気になれば女の人選びたい放題だろうから、私じゃなくてもいいでしょ」と拒否し続ける。
かれこれ、そんなやり取りを五年続けていたが、遂に終止符が打たれる日が訪れる。
何かの拍子で、「アビー、結婚するぞ」「だから、嫌だってば」といつものように遣り合っていたら、すぐ傍で静かに絵本を読んでいたアルフレッドから「お母さん、僕、誕生日にお父さんが欲しい。お父さんはチェスターさんじゃなきゃ嫌」と、小さいけれどはっきり聞き取れるような強い口調で言い放ったのだ。切れ長の薄いグレーの瞳で母の目をじーっと見つめながら。
アビゲイルは彼に見つめられると、湯気が湧きあがるんじゃないかと思うくらいに顔を真っ赤にさせ(おそらく、アルフレッドに見つめられてるというより、彼の父親に見つめられてる気になったのだろう)、「ア、ア、……アルフレッドがそう言うんだったら……」と顔を下に向け、手をもじもじさせながら、チェスターの方を向く。
「……おい、顔赤くして恥ずかしがる相手、間違えてないか……」
「うるさい、馬鹿チェスター」
アルフレッドのこの一声で、二人は結婚したのだった。
ーーやっぱり、私は彼じゃないとダメなのーー
アビゲイルとチェスターが結婚して五年が経過し、チェスターとの間にマシューという息子が生まれ、店も大きくなり従業員の数も増えた。今ではチェスターが店長となり、店を切り盛りしながら富裕層の客への出張仕事もこなしていて、アビゲイルもそんな彼を支えつつ二人の息子の育児に追われ、忙しくも充実した日々を送っていた。
十歳になったアルフレッドは、順当に知的な美少年へと成長し、六歳下の弟マシューの面倒もよく見てくれるし、チェスターも二人を分け隔てなく可愛がってくれる。家庭も仕事も順風満帆で上手くいっている。これ以上ないくらい、幸せだ。
でも、日に日に益々あの人に似てくるアルフレッドを見る度、胸がざわつくような、何とも言えない気分に陥る。そのせいか、近頃のアルフレッドはアビゲイルに対し、少しぎこちない態度を取る。
彼は頭も良いが勘の鋭い子供なので、母の複雑な感情を読み取っているのかもしれない。ただでさえ、複雑な出生と血縁関係に思うところが少なからずあるだろうに。
(……駄目な母親ね、私……)
アビゲイルがそう思うのは、他にも理由があった。
とある有名な交響楽団員の奥方の依頼で髪を切りにチェスターと共に屋敷を訪れたことがあり、その奥方にお礼として夫の楽団の演奏会のチケット(楽屋に入れる許可証付き)を貰った。
後日、チェスターと二人でそのチケットで演奏会を観に行った際、奏者の中に「あの人」がいるのを偶然発見したのだ。
演奏会終了後、チェスターと共にアビゲイルは楽屋を通され、依頼主の夫から「妻が大変お世話になったようで……」とお礼を延べられたが、全く内容は耳に入らず、右から左へと流れていく。すぐ近くに「あの人」がいたからだ。
(……でも、十一年前にちょっと顔合わせてて一回だけ関係した女のことなんて、覚えちゃいないよね……)
ところが、チェスターが少しの間席を外し、アビゲイル一人が楽屋に残された時だった。
「ジェームス、こちらのご婦人は??」
何と、「あの人」の方から楽団員に話し掛け、アビゲイルに近づいてきたのだ。
「あぁ、こちらはアビゲイル・オールドマンさんといって、下町で大層評判が良い美容室の美容師でな。最近、私の妻が世話になったとかでのお礼で演奏会に招待したんだ」
アビゲイルを紹介された「あの人」は、初めて会うかのように挨拶をする。
「私はアルフレッド・マクダウェルだ。貴女の店の評判はよく耳にします」
「ありがとうございます。店を取り仕切り、主な仕事を請け負っているのは夫で、私はあくまで助手のようなものですが……」
必死に平静を取り繕いながらも、アビゲイルの胸は激しく高鳴る。
十一年前と比べると、肌のキメも荒く目元の皺や法令線が目立つ上に、ひどく頬が痩せこけてすっかり老け込んでしまってはいたが、間違いなく「あの人」だ。
「マクダウェル、お前の細君もオールドマンさん達にお願いして、髪くらい結ってもらったらどうだ。少しは気分転換になるやもしれんぞ」
「そうだな……、ここのところ、寝込んでばかりいて塞ぎがちだからな……」
「では、今、オールドマンさんの店の連絡先を教えてもらうがいい」
と言うことで、再び「あの人」と接点を持ってしまったのだ。
本来ならチェスターに任せる仕事なのだが、「たまには、私一人でやってみたい」と押し切り、チェスターも店の仕事や他の富裕層の顧客を抱えて多忙だったため、この仕事は全面的にアビゲイルに任せた。
アビゲイルは彼の妻の髪を整えたり化粧を施したりしに行くだけで、「あの人」と何かある訳ではない。顔を合わすことも少ないし、たまに遭遇しても会釈を交わす程度である。
しかし、それでもアビゲイルは彼の屋敷に(正確に言うと彼の妻だが)呼ばれる度、二十歳の頃に引き戻され、夜遅くに家をこっそり抜け出す感覚ーー、彼に会える(かもしれない)楽しみでワクワクする気持ちと、家族に隠れてこそこそと彼に会う(今は仕事という口実があるが)後ろめたさを毎回感じていた。
きっとアルフレッドは、母のそんな部分まで見抜いているのかもしれない。「あの人」の屋敷に呼ばれて出向く母の姿に、何か言いたげな視線をそれとなく送るアルフレッドには気付いていたが、(……別にやましいことなんて何もないんだし、ちゃんと家族を愛しているんだから……、これくらいは許して……)と心の中で弁解を述べるのだった。
しかし、しばらくしてマクダウェル家から「もう屋敷には来なくていい」と言う通達が届き、アビゲイルはがっかりし人知れず落ち込んだが、すぐに理由が判明した。「あの人」の妻が急死したという。
「あの人」の妻は美しいけれどとても病弱な女性で、特にこの数年は重い病に蝕まれ、長くは生きられないと医者に宣告されていたそうだ。アビゲイルも仕事で会う度、彼女が日に日に弱っていく様子は薄々感じていたが、余りに急なことだ。アビゲイルは「あの人」がショックと悲しみで心労を溜め込んでいないか、心配で気が気ではなかった。
アルフレッドは、とある屋敷に仕事しに行く時の母の表情がいつもとは違うことに気付いていて、複雑な面持ちで見つめていた。
元々、アビゲイルは小柄で華奢な上、年齢より若く見えるのだが、その屋敷に出向く時はまるで夢見がちな少女のようにフワフワした雰囲気を醸し出している。それは幼い頃、自分に向かって「アルフレッドはパパに似てるから、パパのように素敵な男の人になってね」と言い聞かせる時のアビゲイルと同じ表情だった。
母が、自分を「あの人」と重ね合わせて見ていることは物心つく頃には気付いていた。
いつも不安だった。
もしも、「あの人」が再びアビゲイルの前に現れたら、彼女はあっさり自分を捨てて遠くへ行ってしまうのではーー。
チェスターと結婚し弟のマシューが生まれたことで、母に捨てられるかもしれない不安は取り除かれ、すっかり忘れ去っていた。はずなのにーー。
その屋敷の夫人、つまり仕事の依頼主が亡くなったとかで、アビゲイルが呼ばれることはなくなった。夫人の死後、お悔やみを申し上げに出向いたのと、今までのお礼がしたいという先方の申し出を受けて、二回だけ屋敷に呼ばれたが、それっきりだ。
それでも、アルフレッドの不安は消えなかった。そして、残念なことにそれは的中したーー。
突然、「あの人」が馬車に乗って店に姿を現し、アビゲイルに向かってこう告げに来たのだ。
「アビゲイル、今すぐ私の元に来て欲しい」
アビゲイルを始め、チェスター、チェスターの母、エリザ、他数名の従業員に客達は、一瞬何が起きたのか状況が読めず、全員が石のように固まる中、チェスターだけはすぐに平静を取り戻すと、「あの人」に問い正した。
「……貴方は確か……、妻がよく仕事を依頼されてた、故マクダウェル夫人の旦那様ですよね??」
「いかにもそうだが」
「失礼ですが、妻が何か粗相でもしていたのでしょうか??それならば、店長の私にも責任がありますので、私共々お詫びに向かわさせていただきますが……」
恐らく、チェスターは見抜いている。彼がアルフレッドの実の父親で、アビゲイルとの間に再び何かが起こったことを。
「その必要はない。彼女の仕事は完璧で、亡き妻も大変喜んでいたくらいだ」
「そうですか。ならば、妻にどのような御用があるのでしょうか??」
言葉こそは柔らかいが、チェスターの声には明らかに牽制の色が混じっている。
「では、単刀直入に言おう。オールドマンさん、私はアビゲイルを新たな妻に迎えたい。だから、別れて欲しいんだ」
「それはできない話ですね。貴方と妻との間に何があったかは知りませんが、彼女は私の大切な妻であり、子供たちにとっても、ただ一人の母親なのです。諦めて、とっととお帰り下さい」
明らかにチェスターの口調は荒くなってきている。普段は温厚な彼が苛立ってる証拠だ。この状態が長引けば、胸倉を掴んで怒り出すかもしれない。たまらず、アビゲイルが間に入る。
「マクダウェルさん、申し訳ないのですが、他のお客様のご迷惑になりますので一度外へ出ていただいても宜しいでしょうか??チェスター、ちょっとの間、席を外してもいいかしら??」
てっきり、「あの人」を追い返すものだと思っていたのか、チェスターは不服そうに表情を歪めたが「……客を待たせてるんだ、手短にしろよ」と許可を出したので、アビゲイルは「あの人」を一旦外の人気のない場所へ連れ出した。
「……知らなかったとはいえ、私は君に随分酷いことばかりしていた。若気の至りとはいえ、子供を孕ませていたばかりか、自分の妻の髪結いをさせていた……」
「私、以前、言いましたよね??貴方の子供を産んだのは、私が好きで勝手にやっただけで、貴方に責任は一切ないし、取って貰おうとも思ってないって。なのに、気でも違ったんですか??あんな無茶苦茶な行動に出て……」
さすがのアビゲイルも、突飛すぎる「あの人」の行動にはかなり呆れ果てている。
お悔やみを申し上げに屋敷を訪れた時、帰り際に彼から「アビゲイル」と名を呼ばれた。それまでは、一貫して「オールドマンさん」と呼ばれていたので、ひどく驚いたと同時に「……私の事、覚えていたんですね……」と呟いてしまい、しまった!と口を噤んだ瞬間、「……忘れる訳ないだろう……」と切なげな表情でじっと見つめられたことで、そして彼女のタガが再び外れてしまったーー。
後日、今までのお礼がしたいと呼ばれた時にまた過ちを犯しそうになったが、アビゲイルは「私には夫と二人の息子がいますから……!!」ときっぱり拒絶をした。その時、なぜか息子たちの年を聞かれ、今思えば、適当にごまかせば良かったのだが、欲を理性で抑え付けるのに必死でそこまで頭が回らず、つい「十歳と四歳」と正直に答えたところ、チェスターとの結婚年数と上の子の年が合わないことを指摘され、嘘やごまかしが苦手な性分のアビゲイルは結局、本当のことを話す羽目になり、彼は相当なショックを受けたのだった。
(……だからって、何もチェスターと別れさせてでも私と結婚したいだなんて……、異常だわ)
昔も、彼の富裕層特有の少々傲慢な部分に呆気に取られたことがあったが、今回はまるで理解不能である。
「きっと貴方は最愛の奥様を亡くされたショックが強すぎて、疲れ果てているところへ、昔ちょっとだけ遊んだ女が現れたから、甘えたいだけなのです。一時の感情に流されてはいけません」
自分だって、一時の激情に溺れて、今まで積み上げてきた大切な事々を失いたくなんかない。
「……一時の感情なんかじゃない……。私はずっと君を忘れられなかったんだ。誰よりも純粋で素直な君が本当に可愛らしくて、君といると私はとても優しい気持ちになって、その度にこのまま連れ去ってしまいたい、と思っていたんだ」
「だけど、選んだのは亡くなられた奥様だったし、随分大切にしていらしてた」
「……確かに、私は彼女を大切にしていた。でも、それは……、君を忘れられずにいることの罪悪感を隠すためでもあった」
そんなのはアビゲイルも同じだ。だけど、終わったことは美しい思い出として取っておくべきで蒸し返してはならない。
――――何故??――――
今現在、アビゲイル自身は幸せだからだ。
――――幸せ?????本当に????―――
半径一㎞圏内の狭い世界で一生を過ごすことが??
「……君はかつて言っていた。私は狭い世界でしか生きることを許してもらえないし、そういう風にしか生きられない。きっとこのまま幼馴染の店で働き続け、幼馴染と結婚し、そのまま一生を終えるんだ、何てつまらない人生なんだろう。一度で良いから、自分自身で何かを選ぶことをしてみたいって。それは私も同じなんだ。だから、私は自分自身のプライドや、他の誰かを傷つけてでも君をもう手放したくないんだ」
「あの人」が真剣な面持ちでアビゲイルを見つめながら、彼女の細い腕を懇願するように強く掴むと、そのまましゃがみ込み膝をつき、手の甲にキスをする。
端から見たら、気障すぎて陳腐にも思える、失笑ものの行動にも関わらず、アビゲイルの中で押しとどめていた理性が見事に崩れ去って行ったーーーー。
「フレッド、今学校から帰ってきたのか」
アビゲイルが家を出て行ってから、アルフレッドは「アルフレッド」と呼ばれることを物凄く嫌がるようになり、彼がそう思う気持ちは誰もが理解できたため、人々は彼のことを「フレッド」と呼ぶようになった。
だが、それ以外のことではアルフレッドは今まで通り、変わらず過ごしている。
時々、悪ガキ達が母親のことをわざとからかってくるのも素知らぬ顔で無視をするため、ある日、無視するフレッドに逆切れした悪ガキが「お前の母さん、とんでもないヤリマン!!」と言い出し始めたところ、切れ長の薄いグレーの瞳に激しい怒りを湛えながら、十歳の少年のものとは思えぬ威圧感で悪ガキ達を鋭く一瞥し、その迫力に思わずたじろいだ連中に一言静かに、強く言い放った。
「違うよ。彼女はとても純粋で自分に嘘がつけない、可愛い人なだけだ」
そして、唖然とする悪ガキ達を尻目に、フレッドは家路を急ぐのだった。
(終)
(第二部へと続く))