シーズ・ソー・クール(後篇)
白い扉を勢い良く開ける。左右に三つずつ並んだベッドのうち、右側の一番奥ーー、窓側のベッドにジルは早足で近付く。
「……お父さん……」
「……来たのか……」
頭に包帯を巻いた父が、ベッドで半身を起こした状態で座っている。
「……仕事中に足場から落ちて病院に運ばれたって聞いたから……」
「いや、なに、頭を軽く切っただけで特に異常はない。今日一日だけの入院で帰れるらしい」
夕方、仕事から帰ると母がアパートの前で立ち尽くしていて、その顔面は蒼白で混乱してるせいか、話の要領も覚束ない。わかったことは、父が仕事中に転落し、怪我をして病院に運ばれたということだった。
ジルはすぐさま病院へ向かおうとし、母も当然ついてくるものだと思っていたら、「……じゃあ、お母ちゃんはうちに帰るね」と信じられない言葉が返ってきた。
「……病院の帰りなの??」
それなら問題はない。そうであって欲しい。
「違う違う。病院なんか行かない。あんたにお父さんの様子見に行って欲しくて、ここでずっと待ってたの」
「……は??……私がいつ帰ってくるかなんて分からないじゃない。たまたま、この時間に帰ったから良かったものを。私なんか待たずに、先に一人で病院行けば良かったじゃない」
「だから、お母ちゃんの代わりであんたに行ってきて欲しいのよ」
「……何言ってんの。お父さんが怪我して病院運ばれたのよっ!」
ジルは珍しく、声を荒げる。
「……そんな、怒鳴らないでよ。お母ちゃん、ここまで来るのだって本当にしんどかったんだから」
話がまるで噛み合わない。
「…………もういい。お母さんは行かなくていいから、どこの病院かだけ教えて」
母への苛立ちを押さえながら、ジルは母に病院の場所を教えてもらい、すぐに父の元へと向かったのだった。
「……やっぱり母ちゃんは来ないか……」
自嘲気味に呟く父に答える術もなく、ジルは無言を通す。
「しかし、一日だけとはいえ、入院代が勿体ないな……。自分の不注意とはいえ、無駄金になる……」
こんな時まで、お金の話……、昔より極端ではなくなったが、相変わらずお金に執着を見せる父にも苛立ってくる。
「……入院費なら、私が出すわよ」
ジルだって、決してお金に余裕があるとは言える程の収入はない。だが、父の入院費くらいなら何とか捻出できる。
「いや、いい」
ならば、最初から入院費が勿体ないとか言わなきゃいいのに、と、思わず舌を打ちかけたジルに父は更なる追い打ちをかける。
「売春まがいの商売で得た汚い金なんか使いたくない」
確かに、ディータの強引な薦めで絵画モデルの仕事を始めた当初、父から勘当を言い渡されていた。しかし、それから三年後、今日のように母がいきなりアパートを訪ねてきて、ひとしきり父への愚痴を聞かされたあげく、「あんたがいないとお母ちゃん、気が狂っちまうから、頼むから一度家に顔を出して欲しい」と泣きつかれ、父が仕事で留守の時に実家に顔を出すようになった。が、ある時、予定より早く仕事を切り上げ帰ってきた父と鉢合わせてしまった。父は何も言わず、すぐに自室へ行ってしまったが、部屋に入る直前、仏頂面で一言「……また来ていいぞ」と告げた。
だが、今日のことで気付く。
父は、ジルの事を許していない。
その後、ジルは父と何を話したのか(もしかしたら、会話しなかったかもしれない)、どうやって病室から出て行ったのか、良く覚えていない。ただ、気がつくと、図書館の近くの公園のベンチでぼんやりとしながら煙草を吸っていた。一本吸い終わるとまた一本、それも吸い終わるとまた一本取り出しては、マッチで火を付けて煙を吐き出す。足元の吸い殻入れのバケツに、吸い殻がどんどんたまっていく。
初夏が始まる今の時期、まだ日は明るいがおそらく十八時を過ぎているだろう。 しかし、ジルはここから離れたくなかった。もうどこにも戻りたくない。
一時間足らずで煙草を一箱分吸い、二箱目に手を付ける。短時間で大量に吸ったため、喉が乾燥しきり肺と気管支が痛む。それでもまた煙草に火をつけ、煙を吸い込む。
「……げほっ、げほげほっ!」
さすがにむせたようで、ジルは顔を伏せてしばらく苦しそうに咳込み続けた。咳込んだ勢いで目に涙が滲む。自業自得だ。
「……煙草を吸うなとは言わんが、ちょっと吸い過ぎだと思うぞ」
顔を上げると、大きな買い物袋を肩に担いだチェスターがジルを見下ろしていた。
驚きの余り、目を見開いたまま固まるジルに構わず、チェスターは当たり前のように隣に座る。
「……フレッドが今日から一週間、学校の行事で隣の街へ合宿に行ったんだが……。今日の朝になって、図書館で借りた本を返しに行くの忘れた、返却が今日までだから返してきて欲しいと言い出して。ったく、俺がたまたま休みだったから良かったものを……。あいつは普段しっかりしているのに変なところで抜けてるんだよな……。で、買い物ついでに本だけ返しに図書館行ったら、近くの公園に一人でベンチに座ってるジルさんを見つけた」
「………………」
ジルは再び顔を伏せて、うなだれる。情けない姿を見られたため、恥ずかしさでいたたまれない。
そんなジルにチェスターは何も言わず、ただ黙ってジルの頭を撫でる。チェスターの大きな掌に触れられると安心感が募り、ささくれ立った心が次第に落ち着きを取り戻し、和らいでくる。
ジルがゆっくり顔を上げると、チェスターはベンチから立ち上がり、荷物を抱えていない方の手を彼女へ差し出す。
「帰ろうか」
「……どこに?……」
「うちにだよ」
チェスターはジルの手首を引っ張る。引っ張られた勢いでジルは立ち上がり、手首を掴まれたまま、チェスターの後につく形で彼と歩き出す。
「……お父さんみたい……」
「おいおい、せめてお兄さんにしてくれよ」
振り向いたチェスターは笑っていた。
家の近くまで来るとチェスターはジルの手を離し、「悪いけれど、先に家に行っててくれないか。……ちょっと野暮用があるんだ」と告げる。
返事の代わりにジルは頷き、一人でオールドマン家に向かう。
丁度、玄関先でチェスターの母が花壇の花に水遣りをしていて、ジルの姿を見ると笑顔を浮かべた。
「あら、ジルさん。こんばんは」
「こんばんは」
「珍しいわね、こんな時間に家に来るなんて」
「さっき図書館近くの公園にいたら、たまたまチェスターさんと会って……」
「あぁ、何かフレッドに本を返してきて欲しいとか言われてたわね。で、チェスターは??」
「野暮用があるから先に行っててくれ、って。すぐ近所にいるみたいですけど……」
「…………そう…………」
チェスターの母は、珍しく神妙な面持ちになる。
「ジルさん、チェスターは大量の買い物していなかった?」
「……?……。そういえば、大きな買物袋を抱えてましたが、それが何か??」
「……本当にあの子はお人好しだよ……」
「…………?…………」
「外で立ち話もなんだし、とりあえず家に上がってちょうだい」
ジルは促されるまま、家の中に入る。
「……変なことを聞くけど、ジルさんは家の事情を知ってるかしら??」
「……大体は……」
「……そう、なら説明はいらないわね。チェスターが今行っている場所は、……おそらくアビゲイルの実家よ」
チェスターの母の話によると、アビゲイルがオールドマン家から出て行って以来、娘の起こした不始末により、周囲から向けられる批難や好奇の目に耐えられなくなったアビゲイルの母は外出恐怖症に陥り、チェスターが時々様子を見に行ったり、彼女の代わりに食料品の買い出しに行ったりしているという。
「アビゲイルの母親と私は仲が良かったけど、やっぱり私も人間だからね……。息子や孫達をあんな風に傷つけられては心穏やかではいられないし、アビゲイル自身は勿論、アビゲイルの母親とも、正直今は関わりたくないのよ。確かに彼女も被害者ではあるし、同情の気持ちはあるけれど……。……なのに、チェスターは『義理とはいえ、家族には変わりないから』と、今でも彼女を気に掛け続けている。本当に優し過ぎる子よ……」
ジルは、チェスターの母が今言った言葉の中でどうしても引っ掛かる部分があり、躊躇いながら聞いた。
「……あの……、……義理って……」
チェスターの母は一瞬、しまった、と言う表情をしたが、やがて観念したようにジルの目を真っ直ぐ見据えた。
「……今から話すことは、従業員達も孫達も知らないことだから、絶対誰にも言わないでもらえるかしら」
「………………」
「…………実は…………、……まだチェスターとアビゲイルは正式には別れていないのよ……」
アビゲイルが家を出て行ってからすぐに、アビゲイルの代理人を名乗る男が離婚届を持って現れたが、そのことで激怒したチェスターによって、首根っこを捕まれるような形で追い返されてしまったらしい。(チェスターの母曰く、彼があんなに怒りの感情を剥き出しにさせた姿は今まで見たことがなかったそうだ)
「アビゲイルの浮気相手……、浮気というより、フレッドの実の父親と元の鞘に戻った……というのが正しいんだけど……、おそらくその男の差し金だろうね。まぁ、アビゲイル自身も会わす顔がないと言うのがあるかもしれないけど、『自分から起こした問題なら自分で蹴りをつけるべきだろう。他人に頼るな。籍を外したいなら、自分で直接言いに来い』って」
「……至極、正論だと思いますが……」
「私もそう思うわ。でもね、私が思うに、チェスターはアビゲイルが戻ってきてくれるのをどこかで期待しているんじゃないかって」
チェスターの母は、軽くため息をつく。
「……チェスターの髪が長いのは何故か分かる?」
「……?……」
「……まだ二人が十代後半の頃だったかしら。髪がちょっと伸びてきたチェスターが『邪魔だから切ろうかな』とか言ったら、アビゲイルが『チェスターの髪はすごくサラサラとした、真っ直ぐで綺麗なブロンドだから、いっそのこと伸ばしてみたら?』って。その時は『女じゃあるまいし』と鼻で笑ってたくせに、結局伸ばし始めたのよね。結婚してからはアビゲイルがチェスターの髪を結ってた。アビゲイルはチェスターの髪に触るのが好きだったみたい」
チェスターの母は、いつかの二人を懐かしむように話した。
「……でも、人の心って分からないものよね……」
しばらく沈黙が続いた。
胸の中に去来する様々な感情をどうにか飲み込むと、ジルはようやく重い口を開く。
「…………なぜ、私にそんな話をするのですか…………」
「……そうね……、きっと誰かに胸の内を打ち明けたかったのかもしれないわ……。それと……」
「それと……?」
「……怒らないで聞いて欲しいんだけど……、貴女ならチェスターのことを任せられるかもしれない、と私が勝手に思ったの」
「……それは……」
「本当に勝手なことを言ってると思うわ。でもね、貴女が家に来てくれるようになってから、家の中が明るくなってきたのは事実なの。それに、貴女とチェスターが惹かれ合ってるいのは一目瞭然だし」
「………………」
「だけど、チェスターはアビゲイルのことを未だに断ち切れてない。私としては、待てども待てども帰らない人を待ち続けるより、今目の前にいる人とちゃんと向き合って欲しいのよ……」
「…………私は…………」
ジルはそれ以上、言葉を続けることができなかった。
あの日から、ジルはオールドマン家に行かなくなった。正確に言うと、行けなくなった。
チェスターの母に、チェスターへの気持ちを見抜かれていたことが気恥ずかしいのもあったが、これ以上チェスターと関わるのが怖くなってきたのだ。
このままオールドマン家に通い、仮にチェスターとの仲が深くなったとしても……、どこかでアビゲイルの影を感じる度にあの時ーー、チェスターの母の話を聞いていた時の嫉妬めいたような、それでいて諦めとも取れる、何とも言えない敗北感に襲われるだろう。
チェスターにとってアビゲイルは妻というだけじゃなく、幼なじみであり妹分でもあり、最も守るべき大切な人だったのだ。だから、夫と妻と言う関係が壊れても、幼なじみとしての友情や妹分としての肉親的な情が残っている限り、彼は、万が一アビゲイルが戻ってきた時にはいつでも笑顔で迎えるつもりだろう。チェスターはそういう人だ。
彼の家族や仕事仲間を愛し受け入れるだけじゃなく、彼が未だに抱き続けているアビゲイルへの想いも含めて受け入れなければ、彼を愛することにはならない。
頭では分かるけれど実際に達観できる程、ジルは大人にはなれなかった。自分はチェスターの優しさに甘えるくせに、チェスターの唯一の甘えを認められない自分は彼にはふさわしくない。そう思ったのだ。
やがて、またファッションショーの開催が決まり、打ち合わせや準備、ショーの練習等でジルはチェスターと顔を合わせることになったが、お互いに素知らぬふりをしてやり過ごした。久しぶりに会ったチェスターの髪は、相変わらず長いままだったーー。
ショーの開催が差し迫ってきたある日、衣装合わせを終えて、喫煙者用の休憩所へ入った時だった。部屋の奥で何やら囁きあっている男女が一組。この休憩所は人が余り来ないのをいいことに、ごくたまにだが、男女の営みを始める非常識な輩に遭遇してしまう時がある。
(……あぁ、また馬鹿な奴らと出くわしてしまったわ……)
ジルは心底げんなりして舌打ちをするが、とりあえず煙草を一本だけ吸ったらさっさと退散しようと思った。どうやら、女の方が男に一方的に迫っているようで、男は若干引き気味の様子だ。
(……もしかして、あれって……)
なるべく視界から逸らしているので姿は見えないが、あの聞き慣れた低い声は紛れもなくチェスターだ。
恐る恐る、声の方向に視線を向ける。女に押し付けられる形で部屋角の壁にもたれかかるチェスターとはっきり目が合う。女は背中を向けているためジルに気付いていないが、チェスターは微妙な姿を見られたためか、ひどく気まずそうに目を泳がせた。
チェスターの挙動不審な様子に感づいたのか、女が振り返る。確かこの女はモデルの一人で、前もチェスターに言い寄ったかしていた女だって噂があったし、あとは恋人や妻のいる男ばかりに狙いを付けるとも……。女はぼんやりしているジルを一瞥し、再びチェスターに迫る。
「おいおい、人が来ましたよ?いい加減、解放してくれません?」
「ジルのことーー?大丈夫よ、あいつ他人に無関心だから、誰かに話したりとかしないしーー」
女はしがみつくように、チェスターの腕に身体を寄せてくる。
「チェスターさん、奥さんと別れて寂しいでしょ?女の一人や二人と遊んだって罰なんか当たらないわよ」
「生憎、仕事と家のことで手一杯でね、女性と遊ぶ時間なんて全然ないんですよ」
「またぁーー、時間なんて作るものでしょ?」
女は更に、チェスターの腕に身体を押し付けてくる。
「こらこら、そういうのは……。こんなおっさんじゃなくて、もっと若い人にやんなさい」
口調や表情こそ穏やかだが、チェスターはあくまで拒絶を示すために女の身体をさりげなく自分から引き離す。チェスターが自分を受け入れるつもりが一切ないことをようやく悟った女は、プライドをいたく傷付けられたからか、ヒステリックな金切り声を上げて怒り出した。
「何よ!奥さんに逃げられて可哀相だから慰めてやろうって言ってんのに……、恥かかせんじゃないわよ!!」
更に、女は顔を意地悪げに歪ませ、見下すように言う。
「皆、貴方のことを陰で笑ってるんだから。良い男ぶってるけど、金持ちに嫁を寝取られて泣き寝入りした腰抜けだって」
気付くとジルは、女の尻を思いっきり蹴り飛ばしていた。
「いったぁーーい!!!!!何すんのよ!!」
「……あんたの、その、モデルのくせにやけに大きいお尻見てたら、無性に蹴っ飛ばしたくなっただけよ……」
女は涙目でジルを睨みつけるが、ただでさえ鋭い上に怒りに満ちたジルの睨みの威力には到底叶わない。
「……あんたみたいな頭の悪い尻軽女を、言って良いことと悪いことの区別すらできない馬鹿なんかをこの人が相手するとでも思ってんの??ねぇ??」
「……っっつ……」
女はジルの静かな怒りに気圧されて何も言い返せなかったが、言い返せない代わりにジルの頬を平手で思い切り打ち、胸倉に掴み掛かる。
「いい加減にしろよ、二人共」
これ以上は騒ぎに発展すると思ったのか、チェスターが二人を無理矢理引き離すと、女は逃げるように足早に部屋から去っていった。
「……あんた、一体何やってんだよ、全く……」
チェスターは呆れながらも、ジルの殴られた頬に手をそっと添える。が、ジルはその手を払いのける。
「……触らないで……」
「……そりゃ悪かったな。……叩かれた後が腫れたりしたら、ショーに響く。ちゃんと冷やしとけよ」
そう言い残すと、チェスターは部屋から去ろうとしたが、ジルの顔を見てぎょっとする。ジルが涙を流していたからだ。
「……貴方は、あんな風に言われて悔しくないの……」
「……そんな理由で泣いてるのか??」
「……そうよ!いけない?!」
「……気持ちはありがたいが……、今は仕事中だ。休憩中とはいえ、騒ぎを起こすんじゃない。あの先生は私的な揉め事をひどく嫌う人だ。この件が先生の耳に入れば、下手したら、いくら君でもショーから降ろされるかもしれないぞ。もう少し後先考えろ」
チェスターの言うことは正論だと思う。ジルは黙ったまま、手の甲で涙を拭うと、まだ何か言いたげなチェスターを無視し、喫煙所から去っていった。
何故、チェスターに助けてもらうばかりなんだろうか。自分だって、少しでも彼を助けることがしたいのに……。でも、彼は大人だから、自分のように助けを要する態度は一切出したりしない。
(……それとも、私が見抜けないだけ……??)
しかも、今度は余計なことをしでかして、逆に迷惑を掛けてしまった。ジルは至らない自分に、ただただ情けなさと悔しさを感じるばかりだった。
(……全然駄目だ。やはり、私は彼にふさわしくない)
ジルは改めて、彼には二度と関わらないでいよう、そう決心したのだった。
喫煙所での一件はデザイナーから咎められることもなく、噂にすらならなかったのがせめてもの救いであり、チェスターとジルはともかく、あの女も口外しなかったことがジルは意外に思った。有り難いことではあるけれど。
そして、ショーは無事に開催され、控室へ向かう途中のジルにある人物が声を掛けた。
「……ここは関係者以外立入禁止なんだけど……」
「エドからこれを借りたんだ」
フレッドはエドの名前が記された、関係者のみに渡される札を見せる。
エドの父親は資産家でブランドの出資者の一人のため、息子を楽屋まで通せるよう手配したようだが、当のエドは「誰が親父んとこなんかに行くかよ。お前、これつけてジルさんとこ行ったら?」とフレッドに渡したのだ。
「エドワード・モリスン」と書かれた札とフレッドを交互に見比べる。癖のあるアッシュブロンドの髪に吊り上がり気味のダークグリーンのつぶらな瞳をした大柄なエドと、癖のない真っすぐなブルネットの髪に涼しげな薄いグレーの瞳をした小柄なフレッドなんて似ても似つかないのにーー。
(……警備の者も、随分いい加減な仕事ぶりね……)
「……で、私に何の用??」
しばらく会わない内に、少し背丈が伸びた(それでもジルより、ずっと低い)フレッドは口を開く。
「……ここ数ヶ月、ジルさんが家に来ないから、皆が会いたがってて。特に、マシューが寂しがってるし……、俺もちょっと、寂しいです……。また来てくれたら、嬉しいかな……って」
オールドマン家の人々は、なぜこうも優しくて人が好いのだろうか。ジルの心は揺れる。
「……それに、ジルさんが来なくなってから、父さんに元気がないような気がするんです」
「……それは気のせいじゃないかしら」
「……ジルさん、本当は気付いてるんでしょ??」
「……何が??」
フレッドはそこまで言うと、黙ってしまった。
「……悪いんだけど、私はあんた達の母親でも家族でもないから……。これ以上、踏み込まない方が良いと思ったのよ」
これ以上、フレッドと話をしていると彼を傷つけてしまう(すでに傷つけているのだが)ことになるし、自分自身も罪悪感が募っていくばかりなので、「話はそれだけ?じゃあ、私はもう行くから」とフレッドの前から離れようとした時だった。
「ジルさん、もっと自信を持って下さい」
それまで俯いていたフレッドは顔を上げ、ジルを真っ直ぐ見つめた。いつも感情を余り出さない冷めた瞳に、わすがに熱が篭っている。
「確かに、父さんはまだ母さんのことを忘れていないし、もしかしたら一生忘れないかもしれない。でも、ジルさんのことも大切に想っているのは確かなんです。じゃなきゃ、あんな風に何度も何度も家に上げたりしないし、ましてやお茶なんて入れさせたりしない」
「……あれは……、貴方のお祖母さんからお願いされただけよ……」
フレッドは少し迷いながらも、こう言った。
「……父さんにバレたら、多分、ゲンコツ飛びそうなんで絶対言わないで欲しいんですけど……」
「……?……」
「……ジルさんが初めてお茶を入れてくれた日、『ジルさんが入れたお茶は温かくて、心がとても落ち着く気がするから、毎日でも飲みたい』って、ボソッと呟いてたんです。父さん、疲れが溜まってる時、知らず知らず独り言言う癖があって。幸い、俺にしか聞こえてなかったみたいだったから良かったけど……」
「……で、あんたがお祖母さんに私にお茶を淹れるよう言って欲しいと、お願いした訳ね……」
ジルはわざと頭を振りながら、大きく溜息を吐く。
「……俺がどうこうできるようなことじゃないって、分かってます。……実は父さん、今回でこのブランドの仕事を降りるって言ってたから……、今日伝えなきゃ、二人が二度と会わなくなる気がして……」
「……どういうことよ……」
(……チェスターがこの仕事から降りる……??)
そんな話は初めて耳にしたし、噂すら上がっていない。
ジルはフレッドをその場に残したまま、ある場所へと急いで向かった。
ジルが向かった先は、デザイナーのところだった。ちょうど関係者に挨拶回りをしている最中だったデザイナーは、衣装も着替えずに自分の元へやってきたジルを見て驚く。
「やぁジル、珍しいな、君の方から私の元へ訪れるとは……。今日はお疲れ様。相変わらず、君は私のデザインしたドレスが誰よりも似合うな」
デザイナーは、ジルを頭の上から爪先まで一通り眺めると、満足そうに微笑む。
「……お疲れ様です。先生、今すぐでなくとも構いませんので、少しお時間いただけますか??お話したいことがあります」
ジルのただならぬ様子に察するものを感じたのか、「良いだろう、少しだけなら今すぐ聞こう」と自分専用の控室へとジルを連れ立っていった。
「……やっぱり、ここにいたのね……」
デザイナーと話を終え、着替えを済ませたジルは、この間の喫煙所で一人煙草を吸うチェスターに声を掛ける。
「……ばれたか……」
チェスターは、少し疲れた様子でジルに笑いかける。
「ばれるも何も、片付けの後はいつもここで煙草吸ってるじゃない。大体、ここを使うのは私と貴方しかいないし」
「そう言えば、そうだな」
「……今回で、この仕事降りるんだって??」
「……誰から聞いたんだ??」
「……ちょっと小耳に挟んだだけよ……」
「…………そうか…………」
「…………ごめんなさい…………」
「……何が??……」
チェスターは怪訝そうにジルを見る。
「……先生に聞いたけど、この喫煙所での一件、貴方が全部泥を被ってくれたって……」
あの後、あのモデルがジルに暴力振るわれた(と言っても、尻を一発蹴られた程度で無傷ではある)とデザイナーに訴えていて、しかし話の流れでチェスターが深く関係していることが分かり、まずチェスターが呼び出された。
ショー関係者の間で恋愛関係を持つことは、表向きには禁止されている。表向き、と言うのは、周りに迷惑を掛けず、仕事に支障きたさなければ問題はないと言うことである。
しかし、今回はモデルの女が一番悪いとはいえ、第三者であるにも関わらず手を出したジルにも非があるし、チェスターとの仲にあらぬ疑いを掛けられても仕方がない。このデザイナーは仕事に私情、取り分け男女問題を挟まれるのをとにかく忌み嫌うため、当初、ジルもその女もショーから外そうと考えていた。
そこでチェスターは、実はジルと自分が付き合っていることにした。だからジルが、女とのやり取りについカッとなってしまったんだと釈明した上で、ジルもその女もショーを行う上でモデル達の中での中心的な立場(ジルほどではないが、その女も割とデザイナーに気に入られていた)であり、特にジルはブランドの顔と言っても過言でない存在なので、彼女達を外すのはショーを行う上でマイナスにしかならない、と説得した。同時に、自分がいるとまた同じような揉め事が起きる可能性があるので、今回でショーの仕事を降りることにする、と伝えたそうだ。
「……私も反対したんだよ。『確かに彼女達の存在は代わりが利かないが、君の代わりだってそうそういない』ってね」
デザイナーは更に続ける。
「そしたら、彼、何て言ったと思う??『彼女を……、ジルがステージに立って颯爽と歩く姿を客席から眺めたい、と思うようになったんです』って。照れもせずに言い切るものだから、逆にこちらが恥ずかしかったね。ありゃ相当惚れ込んでるよ、オールドマンのやつ。……ジル、彼を大事にしてやりなさい」
デザイナーの話は以上だった。
「…………馬っっっ鹿じゃないの?!何格好つけてんのよ!!」
気が付くと、ジルはチェスターを全力で罵倒していた。
「貴方、いつもいつも人の心配ばっかりして!少しは自分の気持ちに正直になりなさいよ!!」
彼を責めても仕方ないだろう、と冷静に諭す自分がいる一方で、それ以上に今までの思いをぶちまけてしまいたい自分が上回っていた。
「本当は、奥さんにだって言いたいことがあるんじゃないの?!我慢ばかりしてないで、文句の一つでも言いに行けばいいじゃない!たまには誰かを傷付けたっていいじゃない!!」
頭の中がグチャグチャになりすぎて、もう自分でも何を言っているのか、訳が分からない。
ジルの勢いに押され、唖然としたまま言い返すことができず、言葉を詰まらせているチェスターに言いたいだけ言い切るとジルは喫煙所から走り去った。床には彼女が吸いかけた煙草が転がっていて、チェスターはそれを拾うと吸い殻入れに捨てたのだった。
あれから十日が過ぎた。
その日、ジルは久しぶりの一日休みで特に予定もなく、夏も終わりだというのにうだるような暑さに起き上がる気力もわかず、ベッドの上で寝間着のままでだらけていた。
正午はとっくに過ぎていて、時計を見ればもうすぐ十四時だ。
明日からの仕事は帰る時間の予測がつかないため、今日のうちに食糧品の買い出しに行かねば、しばらく水だけで過ごすはめになってしまう。が、この暑さの中、外へ出て行くどころか着替えることすら億劫だ。
しかし、汗をかいて肌や髪がベタついて気持ちが悪いのも、また事実。いい加減、ジルは観念してベッドから起き上がり、汗を流すため風呂場へ向かう。
風呂から上がり、タオルで髪を拭いている最中、ドアをノックする音が聞こえた。
(今、ドアを開けられる状態じゃないんだけど……)
ジルは舌打ちをすると、タオルを首に掛けた状態でドアを少し開ける。
ドアの先には、チェスターが立っていた。
まだ濡れたままの髪と、風呂上がりでほんのり上気した顔のジルの姿に、見てはいけないものを見てしまったかのように、気まずそうに目を逸らすチェスターに、「……何しに来たのよ……」とジルは努めて冷たい口調で尋ねた。
「……あんたに、どうしても話したいことがあったんだが……、どうも間が悪かったみたいだな……」
そう言って立ち去ろうとしたチェスターにジルは言った。
「あと十分待てるなら、聞くだけ聞くわよ」
約束通り十分後、身支度を整えたジルはチェスターと外へ出た。立ち話も何だから部屋に上がれというジルにチェスターが頑なに拒否するため、とりあえずアパートの近くのカフェに向かった。そこは若い夫婦が経営する小さなカフェで、紅茶の種類が豊富なのと静かな店内の雰囲気が好きで、ジルはよくここで本を読んでいた。
「……で、話って何なのよ」
ジルは不機嫌そうに煙草に火を付ける。向かいの席で、同じくチェスターも煙草に火を付けていた。
「……さっき、アビーに……、アビゲイルと会ってきたんだ……」
「…………そう…………」
「……あいつには今、生まれたばかりの娘がいるらしい……」
「………………」
チェスターは、煙草を灰皿に押し付ける。
「……あんたが言ったように、あいつに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが……、……やめた。あいつの幸せそうな顔を曇らせたくない、と思ったんだ……」
「…………どこまでお人好しなのよ…………」
「我ながら、馬鹿だと思う。が、これが俺の性分だ。お人好しついでに、帰りに離婚届を出してきてやったさ」
ようやく、チェスターはアビゲイルを待つことを止めたのだ。一年以上掛かったが、彼は自分の気持ちに見切りをつけることにしたのだった。
「……そう。じゃあ、とっとと新しい嫁探しなよ。あれだけモデル達に言い寄られてるんだから、貴方ならダースで出来るんじゃない??」
「……そんな体力と精神力と経済力がある訳ないだろうが……。一人で充分だし、そもそも一人としか出来ないだろ」
「貴方は何でもかんでも抱え込もうとするから、一人で支えるのは苦労しそうだもの」
「じゃあ、あんたが支えてくれよ」
まるで軽い冗談を言うかのように、下手したら聞き流してしまうような感覚でチェスターは言った。
「冗談は抜きにして」
「…………」
「今日、バツが付いたばかりで切り替わりが早すぎるだろうが」
「………………」
「俺は真剣に言っている」
「……………………」
「俺と結婚して、家族になって欲しい」
「…………………………」
ジルは歓喜と羞恥により、自分の全身が真っ赤に染まっていることを嫌と言う程感じていて、チェスターの顔を見ることが出来ない。
「…………ばっ、馬っ鹿じゃないの?!……」
ようやくジルは顔を上げると、チェスターの顔を思いっきり睨みつける。
「何、無理してんのよ。まだ奥さんのこと、完全に吹っ切れてないくせに」
そう言うと、チェスターの長い髪を一掴みして、軽く引っ張る。思いの他、引っ張る力が強かったようで、チェスターは痛みで顔を顰める。
「……奥さんのこと、引きずりたければ一生引きずっててもいいわよ……。……髪だって、一生長いままでもいい……。……私で良ければ、そんな未練がましい貴方ごと引き受けてやるわよ……」
そう言うと、ジルは掴んでいた髪を放し、ぷいっと顔をチェスターから逸らす。そんなジルに、チェスターはもう我慢できないというように盛大に噴き出し、「……あんた、やっぱり格好いいな。俺には勿体ないくらいだ」と言うと、声を上げて笑い出した。
ジルは物凄い形相でチェスターを再び睨みつけながら、これからは彼にはこういう笑顔が増えて欲しいと密かに願ったのだった。
鏡の前の白い椅子の上で、それ以上に真っ白なドレスを身に纏ったジルにエリザは「終わったわよ」と声を掛けた。鏡の中には、この日のために伸ばした髪を綺麗に結い上げられた自分がいて、見慣れない姿に少し戸惑う。
「凄く綺麗よ」
そう言いながら、エリザはジルの頭にマリアベールを被せる。
「チェスターを呼んでくるわね。」
エリザは、チェスターを呼びに部屋を後にする。数分もしないうちに、すぐにノックする音が聞こえ、ドアが開くとジルと同じく白い衣装に身を包んだチェスターが入ってきた。
照れ臭くて、思わず下を向くジルに「こんな時まで俯くな」と顎を掴んで無理矢理顔を上げさせると、「……綺麗だな……」とチェスターは目尻を下げて微笑む。 恥ずかしそうに顔を背けるジルに「あーー、はいはい。そう照れるなって」と肩を竦めてみせる。
「……貴方も、素敵だと思う……」
相変わらず、顔を背けたまま、ジルは小声で言った。
「もうっ、あんた達相変わらずねぇ」
いつの間にか部屋に入ってきたチェスターの母が呆れたように言う。
「……でも、やっぱり式を挙げることにして良かったでしょ?」
最初、二人は結婚式を挙げるつもりは全くなかった。
チェスターが二人の子供を連れての再婚ということもあったし(まだ封建的な部分が根強く残るこの国では離婚を良しとしないため、離婚して再婚する場合、結婚式を挙げる人は余りいない)、ジル自身も式を挙げることに憧れが一切なかったからだ。
しかし、チェスターの母を始め、周りの人々に説得された為、近親者のみを集めて式を挙げることになった。しかし、それとは別に、もう一つ理由があった。
「……ジル、お父様は……??」
チェスターの母の問い掛けに、ジルは力無く首を横に振る。
「……母は来てくれるみたいだけど……」
病院での一件以来、父とジルとの間の溝が更に深まった上に、結婚の報告をしに一度だけ二人でジルの実家を訪れた時、複雑そうにしながらも結婚を喜ぶ母とは対照的に父は憮然としながら言い放った。
「美容師なんて水商売みたいな仕事で、しかも二人も子供がいて離婚するような、ろくでもない男選びやがって。ただでさえ、売春まがいの仕事してやりたい放題好き勝手に生きてきたくせに、お前はどこまで親を蔑ろにする気だ。好きにすればいいんじゃねえの、その代わり、二度と顔を見せるな」
事実上の勘当宣言ーー、慌てて何か口走りながら後を追い掛ける母と、一旦落ち着けと諭すチェスターを振り切って、ジルはアパートの自室に走りながら帰った。 しばらくして、チェスターが息を切らしながら部屋を訪れ、「……心配かけんな」と彼に頭を撫でられた瞬間、ジルの中で二十数年間張り詰めていたものが突如プツンッと切れ、何時間も泣き続けながら、両親への今までの気持ちを吐き出した。その間、チェスターは彼女の頭を撫でながら、ずっと話を聞いていた。彼は何も言わなかったが、ジルはそれだけで救われる気がしたのだった。
「……気が済んだか??」
ひとしきり気持ちを吐き出して泣き止んだジルの鼻を、チェスターは指で軽く摘む。
「……痛っ、……何すんのよ……」
「ただでさえ、でかい鷲鼻が泣きすぎで腫れちまって、更に成長してんぞ」
「……あんたねぇ、他に言うことない訳……」
「憎まれ口叩けりゃ上等だ」
「…………」
「……やっぱり、式挙げるか」
「……は??……」
「じゃなきゃ、お前の両親に顔向け出来ん」
その後、ジルは両親に結婚式の招待状と父への詫びを書いた手紙を出した。返事は来たものの、それは母からで父からの返事はとうとう来ないまま、式当日を迎えたのだった。
「さぁさぁ、今日はおめでたい日なんだから暗い顔はしないの!」
場の空気を変えるべく、チェスターの母がパンパンと手を叩く。
「……それよりジル、今日、気分は悪くない??大丈夫??」
「……あ、はい。今のところ、今日は何ともないです」
ジルのお腹にはチェスターの子が宿っていて、現在二ヶ月半らしい。発覚したのは、式の二週間前だった。
「まだお腹が出てくる前に式挙げられるから良かったものを……。もっと前だったら、せっかく先生自らデザインして下さったドレスが着られなくなるところだったわ」
二人の結婚が決まるとデザイナーは餞別だと、自らデザインしたウェディングドレスを特注で製作した。そのドレスは、美しいAラインのシルエットで、ジルの細身ながら女性らしい身体の曲線を強調するものだった。
「『結婚するまでは絶対に手は出さない』って言ってたのは、何処の誰かしらね」
「まぁ、チェスターのことだから、絶対に無理だとは思ってたけど。式が近くなってきたから油断したんでしょ」
母とエリザから交互に責められ、チェスターは両手をそれぞれの耳に当てて聞こえない振りをする。その様子にジルは思わず苦笑を浮かべる。
「もうすぐ式を始めるらしいから、席に戻れってさ」
フレッドが祖母とエリザを呼びに控室にやってきて、二人に素っ気ない口調で言った。
「……二人ともお似合いだね」
厳かな雰囲気で式は進み、二人は夫婦の誓いを立てる。この人達と出会えたことで、自分が何よりも求めていた「温かい家庭」を得ることが出来た。例え血の繋がりなんかがなくても、人との絆や信頼を築くことが出来ることを知った。
(……私は、それをずっと守っていきたいし次に繋げたい……)
式が終わり、退場する道中、ずっと組んでいるチェスターの腕に更にぎゅっと力を込め、そのまま外へ出るとーー。
口々に祝福の言葉を投げ掛ける人々の中に紛れて、ジルの父親がその人だかりの隅の方にいたのだ。いつもの仏頂面を下げながら。
固まったまま一点を見続けるジルに気付き、チェスターも同じ方向に視線を動かすと彼も目を見張った。
「……ジル……。良かったな……」
「…………うん…………」
「……親父さんとこに行ってこいよ」
チェスターに背中を押され、ジルは走り出そうとしたが、「おい、腹の子に障るから走るな」と釘を刺されたため、早足に変えて父の元へ向かった。
「……お父さん……」
ジルの父は気まずそうにジルから目を逸らしながら、小さな声でボソリと呟いた。
「……急に、お前の花嫁姿が一目見たくなったんだ……。それだけだ……」
そう言うと、父はくるりと背を向けながら、聞こえるか聞こえないかの消え入りそう声で言った。
「…………幸せになれ…………」
振り返りもせず去っていく父の姿が見えなくなるまでジルは見送り続けていたが、ふいにドレスの裾を掴まれた気がして足元を見ると、マシューが裾をツンツン引っ張っていた。
「お母さん、中に入ろ??お父さんも兄ちゃんも、皆待ってるよ??」
ジルは驚く。
マシューは彼女のことを今までずっと「ジル」と呼び続けていたからだ。
「……分かった。マシューも一緒に来てくれる??」
「うん!いーよ!!」
ジルはマシューの手を取り、教会の中へ、新しい家族の元へと戻っていった。
(終)