シーズ・ソー・クール(中篇)
フレッドの顔を見た途端、担当していた客に「すみません、ちょっとの間だけ、他の従業員と交代しますね」と頭を下げ、雑用をしていた従業員に仕事の説明をすると、チェスターはフレッドの傍に駆け寄った。
「……お前、その顔は一体どうしたんだ?!それに、何で、ギャラガーさんと一緒なんだ?!」
「……それは」
「……私から説明させてもらいます」
フレッドの言葉を遮って、ジルが口を開いた。
「……ただ、彼としてはあまり知られたくないようなことも多々あるみたいですが」
「……そうですか……。聞きたいのは山々ですが、今はお客様を待たせていますので……。ギャラガーさん、大変申し訳ありませんが、時間が許すようでしたら、息子と共に奥の部屋で待っていただいても宜しいでしょうか??勿論、都合が悪ければ無理にとは言いませんが……」
「私は構いませんよ」
「ありがとうございます。助かります。フレッド、ギャラガーさんと奥で一緒に待っていてくれ」
フレッドは無言で頷くとジルを奥の部屋まで案内し、一時間程経った頃にチェスターはやってきた。
「ギャラガーさん、お待たせして申し訳ありません」
「……いえ。オールドマンさんこそ、お忙しいのに」
チェスターは、テーブルを挟んでジルの正面の席に座る。
「仕事でしたら、もうすぐ終業ですのでお気になさらずに。そんなことより……」
チェスターは、自分の右隣(ジルの席から見て、左斜め前)に座っているフレッドをちらりと横目で見るが、すぐにまた、ジルの方へ視線を戻すと再び口を開く。
「こいつ……、フレッドに一体何があったんですか??」
今度はジルが口を開く番だった。
「……実は……。……図書館の近くにある公園で、息子さんが数人の悪ガキと喧嘩していたんです」
フレッドはぎょっとした顔をして(……言わないで、って言ったじゃないですかっ!……)と批難したげに表情を歪めてジルを見たが、構わずジルは続ける。
「喧嘩と言っても彼より背も高く体格の良い連中でしたから、ほぼ一方的にやられてました。その時、たまたま私は公園にいたので、悪ガキを追い払って怪我をしている息子さんをここまで送った、というだけの話です」
「……そうでしたか……。それは色々とご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした……」
「……いえ……」
「……にしても、何だってお前、喧嘩なんか……」
チェスターに軽く睨まれ、フレッドは身体をビクリと震わせ、どう答えようか逡巡している。
「……それがですね、息子さんとしては大変答えづらいようなことでして……、代わりに私が答えていいものかどうか……」
(何、そんな思わせ振りな言い方してるんですか!それじゃ、聞いてくれと言わんばかりじゃないですか!!)と、再びフレッドから批難するような顔を向けられたが、ジルは無視する。
「構いません。理由によっちゃ、厳しく叱り付けるかもしれませんが……」
「オールドマンさん、決して彼は悪くないので叱らないであげてくださいね」
真剣な面持ちでジルを見つめるチェスターの目を真っ直ぐ見据えてジルは言った。
「…………女は胸か足かの論争が白熱しすぎて、喧嘩に発展してしまったようなんです…………」
「………………は?!?!………………」
チェスターとフレッド、親子揃って全く同じようにポカーンと口を開け、間の抜けた表情になる。
「……悪ガキ連中が絶対胸に決まってるだろと一致している中で、息子さん一人だけは足の方がいいに決まってる、分かってないな、とその理由を理論整然として語るから、口で勝てない連中がついカッとなって殴りつけた……ということなんです」
なんて無茶苦茶で苦しすぎる出任せを言っているんだろう、と思ったし、こんなの信じる訳がなければ下手したら怒らせてしまうかもしれないのに。ふざけているかもしれないが、フレッドがチェスターに心配を掛けたくない気持ちも、チェスターがフレッドを心配する気持ちも痛い程伝わってくるだけに、自分がくだらない話をすることで場を白けさせるか、チェスターを怒らせるかして、喧嘩の原因を追求する気を失せさせられれば……と。勿論、浅はか過ぎる考えだということは重々承知している。
「…………本当なのか??フレッド…………」
案の定、物凄く訝しむような表情でチェスターはフレッドに問う。フレッドは明らかに困った顔をしながら、「………………うん………………」と一言だけ頷く。 下手に言い訳を並べたり、逆にだんまりを決め込むよりも信憑性が持てそうな反応を彼なりに考えたようで、半信半疑なことには代わりなさそうではあったが、チェスターも一応納得したような素振りを見せる。
足フェチの汚名を捏造されたにも関わらず腹を括ったのか、フレッドは「……父さん、くだらないことで喧嘩して、ごめんなさい……」と謝る。
「……まったくだ……。心配して損するは恥ずかしいはで、怒る気にもならねぇ……」
チェスターは机に両肘をつけ手を組むと、そこに額をくっつけて溜め息をつく。
「…………でも、お前もくだらないことで喧嘩するんだな………、ちょっと安心した」
「……じゃあ、私はこれで失礼します」
「……あぁ、待ってください、ギャラガーさん」
チェスターは顔を上げ、席を立とうとしたジルを呼び止める。
「……今日はうちの馬鹿息子のことで、とんだお世話とご迷惑お掛けしたお詫びと言ってはなんですが、今晩食事でもご馳走しますよ。……と言っても、私の家で私の家族や従業員もいる大所帯での食事なので、かなり騒がしいですけど……」
いつものジルなら即座に断るような話なのだが、今日は珍しく誘いに乗ろうと思った。この親子の、血の繋がりを超えた、互いを大切に想い合う雰囲気が嫌いではないし、血が繋がっていても自分は両親を疎ましく思うばかりで、こんな風に想うことなどないから、羨ましいのかもしれない。
「……良いんですか??…………じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
そんな訳で、ジルはオールドマン家で夕食を取らせてもらうことになった。
店の片付けが終わるまで、ジルはフレッドと共に奥の部屋で待ち続け、その後フレッドとチェスターに連れられ、すぐ近くにある彼等の家に案内された。
そこではチェスターの母と、彼の下の息子のマシューがいて、チェスターの母が食事の準備をしている最中だった。
「……と言う訳で、一人増えるけど別に良いよな??」
チェスターは母にジルのことを説明すると、「うちは元から大所帯だし、一人二人増えたって構わないわ。変に遠慮しないでね」とチェスターの母はジルに笑いかけながら言った。彼女のブロンドの髪と気さくな性格、それと笑った時の顔といい、チェスターは母親に似ているとジルは思った。
チェスター、チェスターの母、フレッド、マシュー、店の古参の従業員だというエリザ、エリザの娘のメアリ、他の若手や中堅の従業員五人、そしてジル……、総勢十二人での食事は意外と楽しいものだった。接客業という職業柄もあってか、彼等は会話上手なだけでなく話しを聞くのも上手く、人と話すのが苦手なジルもそれなりに話すことが出来た。
フレッドは食器を並べたり料理を皿につけ分けたりと、率先して祖母の手伝いをしつつ、まとわりついてくるマシューの面倒も見ていた。
マシューはチェスターそっくりの髪の色と顔立ちで随分利かん気の強い子供なのか、食事に飽きて食べ物で遊び始めたところをチェスターに叱られても奇声を発して反抗する。しかし、フレッドが叱った途端ピタリと大人しくなる辺り、相当なお兄ちゃん子のようである。
「店長ーー、父親の威厳形無しっ!!」
「どっちが父親だか……」
「お前ら、うるっせーよ!!」
従業員達にからかわれ、悪態をつくチェスターの姿をジルは唖然とした様子で見つめる。
「ほらほらーー、ジルちゃんが呆れてますよーー」
「……お前ら、明日の終業後の練習、みっちりしごいてやるから覚悟しとけよ……」
えぇーー、勘弁してくださいよーー、と更にギャーギャー騒ぐ従業員達を無視し、チェスターはジルに話し掛ける。
「すみませんね、本当に騒がしい奴らで」
「……いえ……」
ジルの懐中時計の針は、もうすぐ二十一時を指そうとしている。
「……そろそろ帰りますね。ごちそうさまでした」
「いえ、こちらこそ、フレッドを助けていただいただけでなく、あまりちゃんとしたお礼も出来なくて」
「……そんなことないです。とても楽しかったし……、ありがとうございました」
ジルはペコリとチェスターに頭を下げ、礼を言った。
「すっかり遅くなってしまったから、家まで送りますよ」
「……そこまでしていただかなくても結構です。一人で帰れますから……」
「若い女の子が夜道を一人歩きするのは危険です。もしものことがあってはいけないし……」
「店長、お父さんみたいですよーー」
またもや従業員からチャチャが入り、「お前らなぁ……」と最早言い返す気にもならないと呆れるチェスターに、フレッドが更なる追い打ちを掛ける。
「ジルさん、大丈夫ですよ。父さん、見た目は若作りでチャラチャラした遊び人みたいだけど、意外と常識人でお堅いから、送り狼なんて真似は絶対しないので安心してください」
「……フレッド、お前は父さんをそんな風に思っていたのか……」
さり気なく酷い事を言ってのけるフレッドにチェスターは、傷ついたと言わんばかりに悲しげな表情を見せる。
ショーの時、美容師達の中で中心になって動き、仕事に厳しい完璧主義者として有名なチェスターが、こんな風に従業員達にからかわれる人とは……。ジルは意外に感じた。
「……ったく、どいつもこいつも言いたい放題言いやがって……。大体なぁ、二十歳そこそこの若い女の子に、バツ持ちコブ付きの三十路のおっさんなんか相手される訳ないだろう……。まぁ、そういう訳で、行きましょうか」
(…………どういう訳よ…………)
チェスターに根負けしたジルは、渋々彼に自宅まで送られることになった。
外を出ると、まだ秋が終わりを告げてないいものの、冬の到来が迫っているのを感じさせる宵の寒さに思わず身震いし、ジルは肩に羽織っていたストールを首元まで引き上げる。少し間隔を空けて隣を歩くチェスターの吐く息も白い。
「……寒いですね」
「…………えぇ…………」
二人になった途端お互いに口数が減り、さっきからこんな調子の一言二言で終わる、会話にならない会話を繰り返している。
「……ギャラガーさんには本当に感謝してます。フレッドを助けていただいたこともそうですが、久しぶりに楽しそうなあの子の顔が見れたのは、きっと貴女のおかげです。」
「……私は……、別に何もしてないです……」
「……失礼なことを言いますが、ショーの舞台袖や楽屋での貴女を見る限り、他人に興味がなく無関心な人だと思っていたので、赤の他人で通りすがりに近い存在のあの子を助けるなんて、正直意外でした。そして、あの喧嘩の理由とか……」
思い出したのか、チェスターは声を殺して笑う。やはり嘘だと分かっているのだ。
「……すみません、つまらないことを言いました……」
恥ずかしさと申し訳ない気持ちになり、ジルはチェスターに向かって頭を下げた。
「……とんでもないっ!あれで逆に、貴女は本当は優しい人なんじゃないかと分かりました」
「……優しいって?……私がですか??」
冷たい人間だと言われることはしばしばあるが、優しいだなんて未だかつて言われたことなんかない。
「……本当は、家族やあの子自身のことで、色々言われてたのでしょう??」
「………………」
返す言葉が見つからなくて黙り込むジルに構わず、チェスターは続ける。
「あのブランドのショー関係者の間でも散々噂されてるから貴女ももう知ってるだろうし、隠す気もないので言うけれど、アルフレッドは別れた妻の連れ子で私の実の子じゃないんです」
「……アルフレッド??……」
「あの子の本名です。妻と別れてから、アルフレッドと呼ばれることをひどく嫌がるようになったので、フレッドと呼んでるんです。」
(……だからあの時、あんな露骨に嫌な顔をしたのか……。……でも、なぜ??)
気にはなったけれど、これ以上は踏み込んではいけないと思い、口には出さなかった。代わりに「……息子さんを、愛しているんですね……」とだけ言った。
「別れた妻のお腹にいる時からあの子の成長をずっと見てきているせいか、実の子のように思えるのかもしれませんがね……って、私の話ばかりですみません」
「……大丈夫です」
「……もし良ければ、これからも今日みたいにうちで一緒に食事でもしませんか??」
「…………えっ??…………」
「貴女がいると、いつもより子供達も従業員達も楽しそうにしていて、場が明るくなる気がしたんです。……と言っても、貴女の帰りを待つ家族や恋人がいたり、貴女自身が騒がしいのが好きでなければ、無理にとは言いませんが……」
そう言うと、チェスターは力無く笑う。
(……また、この笑顔だ……)
仕事中に見せる自信有りげな笑い方でも、家族や従業員達と一緒にいる時の明るい笑い方でもなく、寂しそうなこの笑顔が彼の本当の顔なのではないだろうか。この人こそ、いつでも人のことばかり考えている優しい人なのでは。自分なんかよりずっと。
「……アパートで一人暮らしだし、恋人なんていない。騒がしいのは……、好きじゃないけど、貴方の所は例外です…。だから……、……またお邪魔しますね??」
柄にもないことを言ったせいか何故か疑問形で返してしまったが、チェスターは気にせず、「ありがとう」と微笑んだのだった。
肩紐と胸元、裾を黒レースで縁取られた、血のように鮮やかな深紅のビスチェに、黒のパニエとガーターベルトを身に纏う。ロッキングチェアの左側のひじかけに両肘をつけてもたれかかり、足を組みながら気怠げに煙草を啣えて座っている。 「若い娘が下着姿で行儀の悪い姿勢して、煙草吸うなんて……、何てはしたない!」と、大半の良識ある人間ならば眉をひそめるだろう。当のジルでさえ、本来の自分なら絶対にしないであろう恰好や行動(煙草は除くが)だと思っている。
「……ジル、一旦休憩入れようか」
女が、カンバス越しに声を掛ける。
数分後、メイドがティーポットとカップ二つをトレーに載せて部屋に入り、それぞれのカップに熱い紅茶を注いでいく。女はカップに口をつけながら、空いてる方の手でもう一つのカップをジルに手渡す。いくら暖炉のおかげで暖かい部屋の中とはいえ、下着姿の上にブランケットを羽織っているだけの状態ではさすがに寒いので、温かい飲み物を飲ませてもらえるのはありがたい。
「ジル、貴女ちょっと雰囲気が変わったんじゃない?」
「……さあ、どうだか……」
女はからかうような軽い口調で続ける。
「さては、男でも出来た??」
「……興味ないね……」
「なんだ、つまらないわね。前よりも、心なしか表情が優しくなったような気がしたけど……、私の気のせいかしら」
舌を火傷しないように息を吹きかけながら、ゆっくり紅茶を飲むジルに対し、女は一気に紅茶を飲み干す。
「あぁ、慌てなくてもいいよ。貴女、猫舌なんだし。ふふっ」
女――、女流画家のディータとは、かれこれ七年も付き合いがある。そもそも、絵画モデルの仕事を一番初めに依頼したのが彼女だった。むしろ、始めるきっかけを彼女が作ったのだ。
この国の中流以下の家庭で育った者は、法律で決められた義務教育課程を修了した十五歳になると、一部の学力が高い者を除き、大半は社会に出ていく。
ジルも例にもれず、十五歳で学校を卒業すると、ある屋敷でメイドとして働いていた。とにかく何が何でも家を出たかったので、住み込みで働ける仕事が良かったからだ。
その屋敷で働き始めてから半年程過ぎたある日、屋敷の当主の末妹だというディータが訪ねてきて、当主とディータの二人が雑談している時にたまたまジルがお茶を運んだところ、なぜかディータに気に入られ、自分が描く絵のモデルをしてほしいと懇願されたのだ。
最初、ジルは断った。画家だか何だか知らないが、初対面の人間に「貴女の裸の絵を描きたい」といきなり言われたら、誰だって首を縦に振る気にはならないだろう。
だが、ディータは毎日のようにモデルをして欲しいとジルの元へ訪れ、説得を続けた。そのうち、屋敷の当主からも妹の願いを聞いてやってくれと言われるようになり、一回限りという条件でモデルを務めた。
しかし、一回限りの約束のはずが、その後もモデルを頼みにディータが頻繁に訪れ、それが元で他の使用人達から口さがないことを言われるようになったジルは「本来の仕事に差し障るから、もうモデルはやらない」と宣言したところ、「じゃあ、この仕事辞めて私のところに来ればいいわ。そうだ、貴女、絵画モデルの仕事始めたら??何なら、私以外の画家にも描いてもらえるように取り計らってあげる」と、結局、半ば強引にメイドの仕事を辞めさせられたジルは絵画モデルの仕事をしつつ、ディータの屋敷に一年半滞在した。正確に言うと、滞在させられたのだが。
ディータが描く人物画はどれもハッとするような、艶めかしい色気があった。三回の離婚歴をはじめ、二回り近く年下の恋人がいたりと、奔放な彼女の性格が滲み出ているようである。
「絵に限らず、芸術全般にいえることだけど、芸術家が創ったものには芸術家本人の性格や現在の心の在り方が無意識に宿るものだ」と彼女は言う。ディータはジルの「周りに流されず、自分を貫く正直さ」と「未成熟で不完全な色気」を持っているところが好きらしい。
「でも私としては、成熟した色気を貴女に持ってもらいたいのよねーー、そしたら更に描きたい衝動に掻き立てられそうだもの」
休憩を終え、ジルは再びロッキングチェアに座り、ディータはカンバスに筆を走らせる。
「……で、もっと色んな男と付き合えってこと??」
「と言いたいところだけど、貴女の場合、貴女が心底惚れた男に抱かれるべきね」
「……男と寝るの、あんまり好きじゃないのよ……」
ジルは義務教育を終える頃には、すでに男性を知っていた。他の少女達より大人びた落ち着きがあり、クールな美しさと謎めいた雰囲気は主に年上の男性の気を引き、大人と同等の付き合い方を求められたからだ。
メイドとして働いていた時も周囲に隠れて若い執事と付き合っていたし、絵画モデルになってからも何人かの画家や芸術家と付き合ったり、割り切った身体の関係を持ったりと、それなりに経験は豊富だった。
だが、ジルは相手が自分に惚れ込んでいる程、頑なに心を開かず冷たい態度を取り続けるため、そんな彼女に相手も次第に冷めていき、短期間で付き合いが終ってしまうことがほとんどだった。好きでもないのになぜ付き合ったのかーー、「好きでもないけど嫌いでもないし、断る理由がなかったから」ただ、それだけである。 しかし、ここ一年は男性と付き合うこと自体が億劫になり、恋人も寝るだけの男もいない。自分にとって、さして必要としないことに気づいたからだ。
「セックスなんて、誰としようがやることなんて皆同じじゃない」
「わかってないのねぇ。欲を充たすだけでするのと、愛し合ってするのとじゃ雲泥の差よ。貴女は人を愛することを怖がってるだけ、ジル」
それからは、ディータが絵を描くのに全神経を集中しだしたため、お互い無言で時を過ごしたのだった。
ディータからの仕事は大抵、数日の間彼女の邸宅に泊まり込むことになる上に、日数を延長されることもしばしばある。なので、彼女から仕事を依頼された場合、最初に指定された日数より三日〜一週間は多めに予定を空けるようにしている。今回も指定された日数から二日延長になった。
「はい、今回の依頼料」
渡された依頼料は、ジルが出した見積の金額よりはるかに多かった。
「ちょっと……、延長料金の分を足しても多すぎるわ」
「いいの、いいの。いつも私の仕事を最優先で請け負ってくれるし、何より私は貴女を気に入ってるから、つい贔屓したくなるのよ」
ディータは一度言い出したら、こちらの言うことを聞かない性分だとジルは長年の付き合いで分かりきっているので、これ以上は何も言わず、黙ってお金を鞄の奥底に押し込む。
「じゃあ、また貴女を描きたくなったら、お願いするわね」
ディータは微笑みながら、玄関先までジルを見送ってくれた。絵を描くことに関してのみストイック、私生活は自堕落で破天荒で少々男にだらしないけれど、それに伴う犠牲や代償や責任を全て受け止めた上で誰にも縛られず自由に生きるディータが、ジルは好きだった。
「……さてと」
今までならば、著名な画家や美術学校での仕事の後は真っ直ぐにアパートの自室に戻っていたが、ここ数ヶ月は違う。
画家のアトリエ(もしくは邸宅)や美術学校がある場所は街の中心部や一等地の場合が多く、そこには下町では中々手に入らない高級な品物を売る店が軒を並べている。
そういう場所で仕事をした帰り、ジルは必ずオールドマン家への手土産(菓子や紅茶の茶葉、珈琲の粉や豆程度の物だが)を買って帰るのが習慣になっていた。
フレッドを助けた日以来、ジルは時々オールドマン家に立ち寄っている。
「いつでも家に寄ってくれればいい」とチェスターやチェスターの母から言われたものの、特に用もないのに他人の家に上がり込むのも……と、しばらくの間ジルは彼らの家に行かなかったのだが、借りた本を返しに図書館に行くと、フレッドとメアリにばったり遭遇し(フレッドは学校帰りにほぼ毎日図書館に通い、本を読んだり勉強をしているらしい)、「あっ、お久しぶりです、ジルさん。父さんと祖母ちゃんが、ジルさんに渡したいものがあるから近々家に寄って欲しいって言ってました」と伝言を受け、再びオールドマン家に立ち寄った。
用が済んだらすぐに帰ろうと思っていたジルだが、チェスターの母に「いいのよ、ゆっくりしていきなさいな。うちは昼間はいつも誰かしら遊びに来るし夜は大所帯になる家だし、かまわないわ」と押し切られ、その日も結局夜まで滞在し、チェスターに帰りを送ってもらった。
いつも施されてばかりというのも何だか気が引けるため、仕事帰りに下町では手に入りづらい、ちょっと高級な菓子を彼等への手土産に買い、それを渡しにオールドマン家に立ち寄った。すると、また後日、菓子のお礼がしたいと呼び出しを受ける。この数ヶ月、そんなやり取りを繰り返している。
最近では、ジルはオールドマン一家や店の従業員達の好みを考えながら、手土産を選ぶことが楽しみになりつつあった。どうすれば、より皆の喜ぶ顔を見られるか想像すると、自然と心が浮足立つ。ほんの些細なこととはいえ、他人が喜ぶ姿に自分も喜びを見いだせるなんて、ちょっと前の自分ならば有り得ない感情である。
一旦、荷物を置きにアパートの自室に戻り、オールドマン家に到着した頃には夕方十六時を過ぎていた。
チェスターの母は友人知人が多く、昼過ぎに行くと大概誰かが遊びに来ているので、先客が帰るだろう時間を見計らって立ち寄ることにしている。が、今日は珍しく、先客が残っていた。と言うより、今し方遊びに来たばかりのようである。
それもそのはず、彼は学校から帰ってきたばかりのフレッドとメアリと一緒に玄関先にいたからだ。
「あ、ジルさん、こんちわーー!!」
一段と大きな声でハキハキと挨拶する彼ーー、エドは、最近フレッドに出来た友達だった。
口数が少なく内向的で、小柄な体躯に反して妙に大人びた雰囲気のフレッドは同じ年頃の少年から見ると取っ付きにくいと思われやすいのか、また、かなりの美少年で頭も良く、女の子から人気があるという部分でのやっかみも含め、同性の友達がいなかったし、それどころか何かと敵意をもたれやすかった。反対に、エドは身体も大きく(十歳にして一六五㎝のジルより背が高い)多少お調子者ではあるが、外向的な明るい性格の少年だった。
二ヶ月前に開催された、あのブランドのファッションショーの会場でジルを観に来たフレッドとメアリは、父親がブランドの出資者の一人で嫌々連れて来られたエドと出会ったそうだ。
最初は、メアリに一目惚れしたのがきっかけでフレッドはついで、みたいな感じで接していたエドだったが、磁石のS極とN極並に正反対な性格が吉と出たのか次第に友情を深めていき、今ではすっかり親友のようである。ちなみに、クールな美少女ぶりとは裏腹に、男子顔負けの腕っぷしの強さとサバサバした姐御肌な性質を知っていくうちに、エドはメアリを女の子として見なくなったそうだ。
「こんにちは、フレッド、メアリ、エド。フレッド、お祖母さんは中にみえるの??」
「はい、いますよ」
「……そ、ありがと」
「あっ、ジルさん、今日は父さん達の帰りがいつもより早いから、うちで食べてってくださいよ」
ジルは一瞬、逡巡し、間を置いて答える。
「……考えとくわ……」
「あっ、俺も食べたい!!」
「……エドは帰れ」
便乗しようとしたエドに、フレッドは冷たく言い放つ。
「えぇーー、いいじゃねーかよーー!!」
ギャーギャー騒ぐエドを適当にあしらうフレッド、そんな二人のやり取りを呆れ顔で眺めるメアリ。うるさく騒ぐ子供は大嫌いだったのに、三人の他愛のないやり取りを見ていると心が和んでくる。オールドマン一家と関わり出してから、自分の中で少しずつ変化が起きている。
「ほらほら、あんた達、今から広場でやってる大道芸見に行くんでしょ。ぐすぐずしてたら終わっちゃうわよ」
家の中からチェスターの母が出てきた。
「あっ!いっけね!!おい、フレッド、メアリ、早く行こうぜ!」
慌てて走り出したエドに「……ったく、本当に騒がしい奴だな……」とぶつぶつ言いながら、フレッドも走り出す。
(文句言う割に口元が楽しそうに緩んでるわよ)と教えてやろうかとジルは思ったが、あえて口には出さなかった。
「子供達の元気なことっ。さぁ、ジルさんも中に入ってちょうだい」
まるで自分の娘に声を掛けているような、ひどく親しげな口ぶりでチェスターの母に促され、ジルは家の中に入る。
今日こそは手土産を渡したらすぐに帰ろう、と決めていたのに、いつも通りの余りの居心地の良さに甘えて、つい長居してしまう。
「本当に遠慮なんかしなくて良いのよ」
「……何か、私、甘えすぎですよね……」
「人間はね、一つくらい甘えられる場所を持ってた方が良いのよ。ジルさんにとって、ここがそういう場所なんだわ。ジルさんだけじゃない、何でか知らないけど、この家を拠り所に思う子が多いの」
「……?……」
「私も夫と別れてチェスターと母一人子一人で生きてきたからか、類は友を呼ぶって訳じゃないけど、うちの従業員達は揃いも揃って温かい家庭を知らない子達ばかりなのよ。従業員だけじゃない、アビゲイルもそうだったし……、エドもそんな感じね。だから、この家が彼等にとっての甘えられる場所であればいいかな、と私は思ってるの」
「……優しいんですね……」
「まぁ、単に私が大勢でわいわいやるのが好きなだけなんだけど」
チェスターの母は、悪戯っ子のようにペロッと舌を出して笑う。
「ばーちゃん、おなかすいた」
夕食の準備を始めた祖母の傍へマシューが駆け寄ってきた。
「今からご飯作るから待っててね」
「あい」
いつもなら駄々をこねるマシューだが、今日は違った。ジルがいるのに気づいたからだ。
マシューはなぜかジルが大好きなようで「ジルーー!!!」と、嬉しそうに纏わり付く。子供嫌いなジルは始めのうち、マシューに懐かれることにひどく困惑しうろたえていたが徐々に慣れて行き、どうにか相手ができるようになった。
「……マシュー、お祖母ちゃんがご飯作ってる間、一緒に遊ぶ??」
「うん!!」
「……そう、何する??」
「公園行きたい!!」
「……それは無理ね。お父さんがお休みの日に連れて行ってもらいなよ」
「やだ!今ジルと行きたいの!!」
(……困ったな……)
いくら親しくさせてもらっているとはいえ、自分一人で他人の子供を連れて外出するのは……、何か起きた時に責任を負えるのか。そんな大人の事情は知る由もなく、マシューは案の定駄々をこね始め、終いには盛大に泣き出した。
「……わかった!今日行けない代わりに、今度公園連れてくよ。ただ、お父さんかお祖母ちゃんも一緒がいいな」
「……今度っていつ??」
「……う、う〜ん。次に私がお家に来る時かな……」
「ねーねーー、じゃあ次にジルがお家に来るのはいつ??」
どうして小さな子供と言うのは、答え辛いことに限ってしつこく聞いてくるのだろうか。
「…………そ、そうだね…………」
チェスター譲りの薄茶色の瞳を期待で輝かせ、ジルの答えを今か今かと待つマシュー。
「こらっ、マシュー!ジルさんに無茶なこと言うんじゃないの!」
見兼ねたチェスターの母が台所から顔を出し、マシューを叱り付ける。途端にマシューは凄い勢いで隣の部屋へ逃げ込み、そのまま隠れてしまった。
「ごめんなさいねぇ……、マシューが我が儘言って」
「……いえ……」
「もしかしたら、貴女に母親の影を求めているのかも……」
そこまで言ってチェスターの母は慌てて口をつぐむ。
「あぁ……、変なこと言っちゃったけど、気にしないで」
「……はい……」
その日も、ジルはオールドマン家で夕食を共にした。オールドマン家では、夕食後に皆で紅茶を飲む習慣があり、ジルが今日持ってきた手土産は紅茶の茶葉だった。
「そうだわ、ジルさんに紅茶の茶葉を貰ったから、今夜早速頂くわね」
チェスターの母がキッチンに向かうとジルも後に続く。一度、チェスターの母の手伝いで紅茶を淹れたところ、「いつものお茶より美味しい」と皆の好評を得て以来、食後の紅茶を淹れる仕事はジルに任された。
大きなティーポットにあらかじめ沸かしておいた熱湯を注ぎ、温めている間に人数分のカップを並べ、それにも熱湯を注いで温める。十二人分のカップにお湯を注ぎ終わると、ティーポットのお湯を入れ替え茶葉をさじで四杯入れて、砂時計をひっくり返す。その間にカップのお湯を捨てる。あとは、砂時計が完全に落ち切るのを待つのみ。メイド時代に屋敷の主の紅茶を入れていたことがこんな風に役立つとは、ジルは思いもよらなかった。
カップを一人一人に手渡していく時にふと誰かの視線を感じたが、カップを手渡した人と会話をしていて、その視線の元の正体を確認できずにいた。カップを全員に渡し終えて自分の分のカップを持ちながら席に戻った時だった。
エリザがニヤニヤしながら今にも吹き出しそうな顔をチェスターに向け、チェスターは悪戯がばれた子供のようなバツの悪そうな顔しながら、エリザの視線を避けるように顔を背けている。そして、そんな大人達の姿に「……お母さん、いい歳して大人気ないからやめてよ……」と呆れるメアリ。
あの視線の正体はチェスターなのか??
(……まさかね……)
ひょっとすると、気のせいかも知れないので忘れることにした。
帰り際にチェスターの母から、手土産のお礼を貰った。手渡された袋の中身を確認すると、オレンジが三つ入っていた。
ジルは果物が好物で、取り分けオレンジが一番好きだった。思わず、いつものポーカーフェイスを微妙に崩し、はにかむように顔を綻ばせた。
「……ありがとうございます……」
ジルのその表情を見た人々は驚き、固まる。
(……今、笑った??笑ったよね?……)
皆の視線が自分に集まっていることに恥ずかしくなったジルは、すぐさま唇を引き結ぶといつもの鉄面皮に戻る。そんなジルの様子にチェスターの母は苦笑しつつも、「またいつでも遊びに来てね」と言い、「じゃあ、チェスター。ジルさんをちゃんと送り届けてね」と息子に言うのだった。
ジルを送っていく道中のチェスターはやけに饒舌になる。
口数の少ないジルを気遣ってるのもあるのかもしれないが、時折、彼の弱さや普段押し殺してる本音を垣間見せる時があり、ジルはほんの少しだけ嬉しく感じる。 いつから、そんな風に思うようになっただろうか。
器用で誰よりも如才ない男ーー、それがチェスターの印象だったし、おそらく必要以上に関わることはないだろうタイプの人間だと思っていたがーー。
ここ数ヶ月、彼と彼の身内の人々と接するにつれ、自分のことよりも他人のことを優先しがちな優しさゆえに、知らず知らずの内に自分自身を苦しめてしまっている、誰よりも不器用な人だと言うことが分かってきた。
特に、別れた妻のアビゲイルに関する事柄が最もたる例だ。
チェスターとアビゲイルは近所に住む幼ななじみで、それぞれの母親同士の仲が良かったこと、お互いに母子家庭だったことから兄妹のように一緒に育ってきて、放任主義なチェスターの母に対し、アビゲイルの母は過保護で厳しい人だったので、常日頃、「素直で真面目で従順な良い子」であることを求め続けられるアビゲイルが唯一、憎まれ口を叩けるのはチェスターだけだったという。
「良い子であり続けようとした人間が何かのきっかけで一度タガが外れたら、どうなってしまうのか。俺はそれが心配だった」
チェスターの心配通り、母親の目を盗んで友人と出掛けた夜会で出会った、婚約者のいる富裕層の男性に恋をしたアビゲイルは彼の子であるフレッドを妊娠し、未婚のまま出産。チェスターは、アビゲイルとフレッド親子共々気に掛け続け、五年後にアビゲイルと結婚した。
「フレッドが腹の中にいる時から、結婚しようと言い続けていたけど、五年間ずっと断られっぱなしだったんだ。フレッドが、『お父さんはチェスターさんじゃなきゃ嫌だ』とアビゲイルに言ったから結婚できたようなもんさ」
普段、皆といる時はアビゲイルのアの字すら口に出さないのに、ジルと夜道を二人きりで歩く時、チェスターはアビゲイルの話をよくする。始めの頃は気にもしなかったが、 最近はアビゲイルの話が出る度にジルの胸の奥底がチクリと疼く。気を許してくれていることは嬉しいけれど、彼の中に根強く存在し続けるアビゲイルの影にうっすらと嫉妬心が湧いてくる。
(……私も一体どうしてしまったんだか……)
仕事中、いつもチェスターの隣にいたアビゲイルは、ウェーブがかった栗色の長い髪と赤縁眼鏡が印象的で、とても子供を二人も産んだように見えない程小柄で華奢な体つきだったため、女性というより少女のようだった。モデル仲間の中には、「あんな子供みたいな女、チェスターさんには不釣り合いだわ」と陰で笑う者がいたくらいだった。見た目のみならず、中身まで少女特有の危うさを抱えていた彼女は、誰よりも優しいチェスターの庇護欲を無意識にずっと駆り立てていたのだろう。別れた今でも。
しかし、そんなジル自身も、淡々としつつもどこか寂しげな様子を自分の前で見せるチェスターに、無性に庇護欲を駆り立てられることがある。自分よりも一回り近くも年上の大人で、自分など何の力にもなれないと分かっていると言うのに……。
そうこうしている内に、アパートに到着してしまった。
毎回必ず、チェスターは三階のジルの部屋の目の前までジルを送り届ける。
一番初めに送ってもらった時、共に階段を上がろうとするチェスターを思いっきり不審気に睨みつけたら(今思うと失礼極まりないのだが)、「部屋に入るまでに何か起こらないとは限らない。ちゃんと部屋に入って中から施錠するまでを見届けないと、送った意味がないので」と押し切られ、以来、素直に従っている。
そして、いつものように部屋の前で「ありがとう。お休みなさい」と別れの挨拶を交わした時だった。
ふいにチェスターが、右手をジルに向けると、そのまま彼女の髪と顔の間に掌を差し入れ、頬に触れる。
ジルの頬をすっぽり包み込んだ大きな掌は骨張ってごつごつしている上に手荒れにより少しガサついた感触をしていたが、壊れ物を扱うかのようにそっと、優しく優しく撫でる。予想だにしなかった出来事にジルは驚き、目を見開いたまま、自分の頭上から二〇㎝も上にあるチェスターの顔を見上げる。
チェスターはジルを慈しむような、とても穏やかな笑みを浮かべていたが、すぐに目を伏せ、思い詰めたような切なげな表情に変わると頬を撫でていた右手を離し、ジルの頭をポンポンと軽く叩き、「……おやすみなさい」と言った。
ジルは無言でチェスターに背を向けたまま、部屋に入り鍵を掛ける。
鍵を掛けたのを見届けたチェスターが部屋の前から立ち去っていく足音を聞きながら、先程彼が触れた左頬と頭、それぞれを自分でも触れてみる。そこだけひどく熱を帯びているような感覚に陥ると急に恥ずかしくなり、ジルはその場でぺたりと座り込んでしまったのだった。
(続く)