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シーズ・ソー・クール(前篇)

「シーズ・ソー・クール」


(……いつも喋ってばかりいて、よく話す話題が尽きないな……)

仕事が終わるとすぐさま誰かしらとくっつき、ぺちゃくちゃとお喋りに興じ始める周りの女達を尻目に、ジルは一人でさっさと控え室へ向かう。

一刻も早く化粧を落とし、私服に着替えてここから離れたい。流行りのファッ ションか男か、誰かしらの噂話及び悪口で大半占められてるような、くだらない会話は聞くに耐えないのだ。最も、聞きたくもないが集団になると気が大きくなるのか、声も大きくなるので嫌でも耳に入ってしまうが。

「ジルーー、打ち上げはーー??」

「行かない」

 女達の一人が打ち上げに誘ってきたが、ジルはきっぱりと断る。だから無駄だってばーー、あいつ付き合いすっごく悪いからーー、と別の女が聞こえよがしにそう言うのが控え室の扉を閉める直前に聞こえた。

(……疲れたな……)

自分の他にはまだ誰も控室には入ってきていないことに少し安心すると、すぐに化粧を落とし始める。ジルは、この街で一番有名なデザイナーが新作を発表する時に行うショーでモデルをしていた。

 元々、ジルは絵画モデルの仕事をしていて、時には画家の要望で裸になることもあり、ある時、彼女がモデルになった裸婦画を偶然目にしたデザイナーが「私の服が最も似合うであろう理想の女性」だとジルを捜し当て、自分のブランドのモデルを務めて欲しいと頼んできたのだ。

 ファッション自体には興味がなかったし、そのブランドの服も富裕層の人々向けで、ジルのような中流家庭育ちの若い娘には手が出ないような代物だったし、本当に自分が務まる仕事だろうか、と、さすがのジルも躊躇したが、デザイナーの熱心な説得により、引き受けることになったのだ。

 柔らかい亜麻色の髪を肩より少し上で無造作に切り揃え、鋭い目つきをした薄いブルーの瞳、鷲鼻と少し口角が下がり気味な薄い唇はやや気がきつそうな印象を与えるが、愁いを帯びた陰のある表情を含め、ジルは独特の美しさを持っている。背丈は一六五㎝とこの国の女性の平均身長ではあるものの、四肢が細長く全体的にすらりと均整の取れた体格をしているので、モデルを務めるには打ってつけだった。

ファッションモデルの仕事も始めたからと言って、ジル自身は華やかな世界にはまるで興味がなかった。

 だから、その華やかさに溶け込もうと美しさに磨きを掛け、自身を飾り立てることに必死な他のモデル達とは面白いぐらい反りが合わなかったし、それでなくても大勢でいるより一人でいることを好むジルは、仕事以外では徹底して他人と関わろとしなかった.

 化粧を落とし私服に着替え終わった頃に、ようやく他のモデル達が控室に戻ってきた。相変わらず、よく喋っている。

「えぇーー、それマジで?!」

「うん、マジだって!!だって本人も認めたらしいってさ!!」

(……どうせまた、どうでもいい噂話だろうに。くだらないな……)

 ウンザリしながら、「……お疲れ」と適当に挨拶をし、部屋を出ようとした時、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。

「チェスターさん、奥さんに浮気されたあげく、そのまま寝取った男に奪われちゃったんだって!あんなに夫婦仲良かったのに信じらんない!」

 振り返って、声がした方向をじっと見据える。ジルは三白眼で目付きが決して良くなく(むしろ悪い)、一点を見つめるとどうしても目が据わってしまう。案の定、声の主はジルがいきなり睨んできたと思い、その眼力の鋭さに怯えつつ「な、何よっ……」と必死で睨み返す。

「…………別に…………」

 まだ何か言おうとする女の視線から逃れるように、ジルはドアを開け、部屋から出ていく。

(……あの二人は「本物」だ、って思ってたのにな……)

 家路に向かいながらジルは、チェスターと、その妻だったアビゲイルのことを考えた。



チェスター・オールドマンは、下町で人気の高い美容室の店長だった。

 彼は、富裕層の人々からの評判もすこぶる良く、ついにはその腕を買われ、三年前からこのブランドのファッションショーを開催する際の、モデル達の髪型を担当する美容師の一人としても活躍する、売れっ子の美容師だ。

 腕の良さに加え、彼は女性への細やかな気遣いがとても上手く、精悍さが入り混じった端正な顔立ちで年齢より随分若く見える(確か三十代半ばだったはずだが、二十代後半と言っても通じるだろう)容姿の良さにより、モデル達にもかなり気に入られていたし、密かに想いを寄せている者も少なからずいたくらいだった。

 しかし、妻のアビゲイルが助手としていつも彼の傍らに控えていたし、淡々と仕事をこなしているだけのはずなのに、とても仲の良い夫婦だということが自然に伝わってくるため、想いを口に出す者はいなかったし、誘いを掛けたとしても、彼はやんわりと上手くあしらっていた。

 他のモデル達とは違い、ジルはチェスターにもアビゲイルにも特に興味も関心も持たなかったが、二人が醸し出す、春の木漏れ日のような暖かく優しい空気感には少し憧れていたし、彼等の家庭は愛情に満ち溢れているのだろう、自分もあんな両親の元で育ちたかったとも思った。ただ、それだけのことだ。

 それだけのことなのに、あの二人が別れたことに対して、何故こんなに胸の中がモヤモヤしてすっきりしないんだろう。

(……所詮他人事だ、関係ない……)

 古びたアパートの自室に戻り、乱雑に靴を脱ぎ捨て鞄をベッドに放り投げ、自身も俯せの体勢でベッドに横たわる。部屋に入る前に郵便受けから取り出した一通の手紙ーー、差出人の名前を確認するとジルは露骨に顔をしかめ、面倒臭そうに中身を取り出し、文面を読む。

 手紙の差出人は彼女の母からで、父と二人きりだと家にいても落ち着かない。針のムシロに座っているようで気が狂いそうだ。だから、たまには帰ってきて欲しいーー、と言う催促だった。

(…………またか…………)

(……私は、あんた達二人のやり取りをこれ以上見たくないから、家を出たのよ!……)

 くしゃりと手紙を握り潰すと床に投げ捨て、顔を枕に押し付ける。しばらくその状態でいたらば、一気に疲れが押し寄せ、ジルはいつの間にか眠りに落ちていった。



――バシッ!!と言う肉を打つ音は、父が母の頬を思いっきり張り倒した時の音だ。私はこの音が大嫌いーー。

「馬鹿野郎っ!!あれ程、無駄なモノは買ってくるなと、何度言えばお前は分かるんだっ!!」

「で、でも、お父ちゃん……、今日はジルの誕生日だから、お祝いでパンケーキを買っ……」

「そんなもん、いちいち祝う必要ないだろ!いつも通りの飯だけで充分だ!!」

 あれは確か、何歳の時かは覚えていないがジルの誕生日の日に家族三人で夕食を終えた後、母がお祝いで買ってきたパンケーキを皿に切り分け、父に差し出した時のことだ。

 ジルの父は腕の良い大工で稼ぎも決して悪くないにも関わらず、自身が貧しい家庭で育ち、お金で苦労したせいか、病的なまでの守銭奴だった。服は洗い替えを含めて二枚までしか持たせてもらえなかったし、靴に穴が空こうが靴底が剥がれてきても我慢して履き続けた。お菓子なんて当然買ってもらったことなんてないし、それどころか、料理に使う塩や調味料の量すらうるさく言う(健康の為ではなく、お金のため)ので、いつも味がほとんどしない食事をしていた。

 そんな父だから、ケーキ屋で一番安いパンケーキでも無駄金を使ったと憤るのも当然である。

 初めて目にするパンケーキに目をキラキラと輝かせながら、嬉しそうにフォークで口元まで運び掛けていたジルはひどく戸惑い、とりあえずフォークに刺したケーキの欠片を皿に戻して、怒鳴り散らす父と頭をうなだれる母をただ見ているしかなかった。

 やがて父は、わざと大きな音を立てて席を立ち、苛立った様子で寝室に入っていった。

「……お母さん……」

「……ごめんな、ごめんなジル……。お母ちゃんが余計なことしたばっかりに、お父ちゃん怒らせて……。お母ちゃんが阿呆だからいけないんだ……」

母は、三つに切り分けたパンケーキをごみ箱に捨てる。その様子をやりきれない思いでジルは眺めていた。

(…………嫌な夢…………)

 ふと目を覚まし、枕元の時計を見ると深夜の三時。どうやら、あのまま寝入っていたらしい。風呂は朝入ることにして、夢見の悪さですっかり目が冴えてしまった。

 顎までの長さがある前髪が顔の前に降りてきて視界を邪魔するので、うっとうしげにかきあげながら、ベッドから起き上がる。ベッドの左隣には小さな机があり、その上に置かれたカンテラに火を点す。カンテラの傍にあった煙草の箱から一本取り出す。煙草は、手持ち無沙汰な状態をごまかすのに丁度良い。

 カンテラの朧げな光の中、ゆらゆらと揺れている煙草の煙をジルはずっと見ていた。昔は父だけが嫌いで母のことは好きだったはずなのに、いつから母まで嫌うようになったのかーー。それは、母が余りにも後ろ向きで全ての物事を悪い方悪い方へ考えて自分を責める……割には、自己反省を全くせずにすぐに何かと「私は何て可哀相なの、もう死んだ方がいい」と悲劇のヒロインぶる姿に次第に苛立ちを覚えるようになったからだ。

 確かに気難しい父と長年共に暮らしていたら、こうなってしまうのはよく分かるが……、すぐに声を荒げて怒る父に口を開けば愚痴か泣き言しか言わない母が嫌で嫌で、家に帰りたくなくて、よく閉館ギリギリまで図書館で本を読んで過ごした。

 今でもジルは休みの日には図書館によく行く。本を読むのが好きなのは勿論だが、人が集まっているのに静まり返っているという状況になぜだか分からないが安らぎを覚えるのだ。

(……そうだ、もし明日の仕事が早く終われば、借りたい本もあるし、図書館に行こう。……あと、そろそろ、髪も切るか……)

 何度手で後ろへ流しても顔にかかる前髪を、ジルは細い指で摘み上げた。



 ファッションモデルの仕事はショーが行われる時のみで年に数回程度しかないため、普段のジルは絵画モデルの仕事で生計を立てていて、この日の午前中は美術学校のデッサンの授業で裸婦モデルを務める仕事だった。プロの画家だと拘束する時間が人それぞれ違い、延長もザラではないので仕事が終わる時間の見当がつかないのだが、学校の場合、授業の枠が決まっていて時間きっかりに終われるので、その後の予定が立てやすい。 

 ジルの読み通り、正午には自由の身になり、その足で街の図書館へ向かい、十五時に美容院に髪を切りに行く。朝仕事に出掛ける前に、すでに電話して予約したのだ。しかし、本を選ぶのに二時間以上掛かってしまい、慌てて懐中時計で時刻を確認する。

(これはもう、すぐにでも美容院に行かなきゃな……)

 すぐに図書館の出入口の扉を開け、図書館と門の間の中庭を足早に抜けて、門の前まで来た時だった。

「お前の母さん、とんでもないヤリマン!!」

(…………躾のなってないガキね…………)

 思わずジルは、チッと舌打ちをする。ちょうど門の陰に隠れているので悪ガキ達の姿は見えないが、さっきの言葉の標的であろう子供達の姿は目に入った。

 一人は、長い黒髪が印象的な背の高い少女で、もう一人は少女より背が低い、ブルネットの髪の少年だった。姉弟だろうか。髪色と瞳の色が違うこと以外、美しく整った、少し冷たい雰囲気の顔立ちがよく似ている。

 門を隔てているとはいえ、すぐ目の前にジルが突っ立っていることに二人は気付かない。静かではあるが、二人が激しい怒りに駆られながら悪ガキ達と対峙していたからだ。

 少女は不気味な程の無表情で悪ガキ達をじっと見つめていて、少年は切れ長の薄いグレーの瞳に激しい怒りを湛えながら、幼い少年のものとは思えぬ威圧感で悪ガキ達を鋭く一瞥し、その迫力に思わずたじろいだ連中に一言静かに、強く言い放った。

「違うよ。彼女はとても純粋で自分に嘘がつけない、可愛い人なだけだ」

 少年はくるりと少女の方を振り向くと「メアリ。悪いけど、俺、今日は帰る」と告げ、「え……、ちょっと……」と何か言いかける少女を置いたまま、この場から去っていった。

 残された少女は、茫然としている悪ガキ達に氷のように冷えきった視線を突き付ける。それはジルでさえも、一瞬背筋が寒気立つ程のものだったので、悪ガキ達はすっかり怯えきって戦意を失っていたが、構わず少女は彼等に近づいていき、一人一人を拳で叩きのめしていった。

「…………お嬢ちゃん、やるじゃない…………」

 ヒュウッと口笛を吹き、珍しく顔をニヤけさせながら、ジルは喧嘩中(と言っても、少女の一人勝ち)の子供達に見付からないようにその場から離れ、急いで美容院に向かった。



 時間ぎりぎりに美容院に着くと、ジルは少しだけ躊躇いながら扉を開けた。自分でも何故そうしたのか分からないが、チェスターの店に予約をしてしまったのだ。

「いらっしゃいませ」

 男にしては長めの、鎖骨まで伸ばしたプラチナブロンドの髪をハーフアップに纏め、シャツをラフに着崩した長身の男性――、チェスターが声を掛けてきた。

「……十五時に予約したギャラガーですけど……」

 チェスターとなるべく目線を合わせないよう斜め下に視線を向けながら、ジルは受付を済ませると案内されるがまま、一番奥の席に座る。思い返せば、彼とは年に数回ショーで顔を合わせるくらいで髪型を作ってもらったこともほんのニ、三回だけだし、まともに口を利いたことすらほとんどない。ひょっとしたら、自分のことなど覚えていないかもしれない。

 そう思った途端、ジルの妙な緊張は僅かに緩んだ。他に手が空いている者がいなかったからか、チェスターがジルの担当のようだ。他の客が「いいなーー、店長にやってもらえて」と小声で呟いたのが聞こえた。

「うちの店は初めてですね、今日はどうされますか?」

「……前髪が伸びてうっとうしいから何とかしたいし、横も後ろももっと短くしたいんですけど……」

「……では、後ろはうなじが隠れるか隠れないかのギリギリで切って、横は前下がりに切りますか??」

「……お任せします」

 髪型にこだわりなんかないけれど、ジルはいつも肩先に掛からない短めのボブカットにしている。これ以上長いのは邪魔に感じるからだ。

「前髪は、眉毛の辺りで厚めに切り揃えてみるとか?」

「……ちょっと短すぎません?」

「そうかな?君は透き通った綺麗な青い瞳をしているのに、いつも長い前髪で隠してしまっているから勿体ない、と思うんだけどな」

「………………」

(……何だ、私のこと誰か分かっているんじゃない……)

「……私が、あのブランドのモデルだってこと気付いていたんですね」

「そりゃ三年もあそこで仕事してれば、さすがに覚えるよ」

「でも、私とまともに話したことないですよね」

「だからだよ」

「え……??」

 チェスターの方を振り返ろうとしたが、「頭動かさずにちゃんと前見て」と注意され、慌てて前を向くと鏡越しに彼と目が合った。

「ここぞとばかりに話し掛ける隙を狙ってくるモデルの子達の中で、君だけは我関せずと知らん顔して通り過ぎる。そのクールさが返って小気味良くて、面白いなぁと思って覚えたんだ」

(……成程ね。他の女と毛色が違うから目についたってとことか……)

 それなら、彼が自分のことを覚えたとしても何の不思議もない訳である。その後、チェスターは黙って髪を切り続けた。あまりお喋りが得意でないジルに合わせてくれたのだろう。彼の察しの良さと気遣いがありがたかった。

 チェスターの提案に従い、前髪は眉毛の辺りまでバッサリ切ることにした。

「こんなもんですが、どうですか??」

 チェスターに大きめの手鏡を渡され、まじまじと鏡の中の自分を眺めてみる。いざ切ってしまえば、思ったより自分に似合っている気がする。

「思ったより、悪くない……かも」

 眉毛に掛かる厚めの前髪で眼力の強い瞳を強調させると共に、前下がりの短めのボブは柔らかい髪質でフワフワ揺れるので女っぽさもそれとなく主張されている。ちょっとしたことで随分変わるものだな、とジルは少々気恥ずかしかった。

「……ありがとうございました」

 照れ隠しで、いつも以上にそっけない口調で礼を述べるジルに苦笑しながら、チェスターは「お疲れ様でした。どういたしまして」と返す。

 カットの代金を支払う時に、お釣りの小銭が足りず、奥に取りに行ったチェスターを待っていると突然店の扉が開く。店に入ってきたのは、あのブルネットの髪の美少年だった。

「ギャラガーさん、お待たせして大変申し訳ありません……」

 奥からチェスターが戻ってきて、お釣りの小銭をジルに手渡すと「ちょっと失礼します」と言って、少年に話し掛ける。

「何だ、フレッド、店に来るなんて珍しいな。どうした??」

 少年はちらりとジルに目を向けるも、すぐにチェスターに視線を戻す。

「……別に。たまには学校帰りにちょっと覗いてみようかな、って思っただけだよ」

「……そうか。学校帰りにしては遅い気がするけどな。確か十五時に終わるはずだろ?今、十六時半近いぜ??」

「………………」

「……まぁ、大方メアリと道草でも食ってたんだろ。奥の部屋にマシューもいるから、そこで仕事終わるまで一緒に待ってろ」

 チェスターは親指で奥の部屋を差し示し、少年は黙って彼の指示に従い、店の奥へと姿を消した。

「ああ、長々と失礼しました」

「いえ……。あの子は……。」

「私の上の息子です」

「そうでしたか……」

「今、十歳なんですが、口数は少ないけれど、しっかり者で下の息子の面倒も良くみてくれる、自慢の息子です……って、親馬鹿丸出しですね」

 ハハハッと力無く笑うチェスターの表情はどことなく寂しげで、普段は快活で若々しく見えるはずなのにその時だけはひどく老けたように見えた。

 噂で聞いただけだが、上の息子はアビゲイルの連れ子でチェスターとは血の繋がりがないという。更に、その息子はアビゲイルの浮気相手の子供だとまで言われている。その噂が真実かは分からないけれど、確かにあの息子はチェスターにもアビゲイルにも全く似ても似つかない。もしかしたら、浮気相手に瓜二つなのかもしれない。

 チェスターが全てを承知の上でアビゲイルと結婚し、その息子を我が子同然に育て、妻と別れてもなお、自慢の息子だと言い切る。建前で言っている部分もあるだろうが、息子とのやり取りを垣間見た感じだと彼が息子を想う気持ちに嘘はないと思う。

「…………お人好し…………」

帰り際、店の玄関まで見送るチェスターにぽつりと呟く。

「……え??……」

「何でもないです、独り言ですから……」


 久しぶりの休みだと言うのに、ジルの心は今日の雲一つなく晴れ渡る青い空とは反対の、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした灰色の雲で覆われた空のようだった。原因は、ちょっとした荷物を引き取りに数ヶ月振りに実家に立ち寄った時の両親のやり取りに、心底げんなりさせられたのだ。

 年齢的な面と体力的な面を考慮し、父はここ数年前から仕事を減らし、家にいることが増えた。年を取ったせいか、昔と比べてすっかり性格が丸くなった父は、今まで母に辛く当たっていたことへの償いか、やたらと母を気遣うようになった。

 ところが、母は意外に根に持つ性格だったようで、不器用なりに優しくしようとする父を徹底的にはねつけ、口も利こうとしない。今日もそうだった。

 ジルが実家を訪れた時、二人はちょうど昼食を食べていて、ジルの顔を久しぶりに見た母が嬉しそうに、食事を取っていけとしきりに勧めるので、共に丸テーブルの食卓を囲んでいたら、気付いたのだ。

 ジルの席から見て、父の右隣に母が座っているのだが、母は父に背中を向け、横を向いた状態で食事をしている。

「……お母さん、ちゃんとテーブルの方を向いて食べないと床にこぼすよ……」

「うん、そうねぇ、分かったわ」

 返事はするが、母は体勢を変えようとしない。案の定、母の足元には食べこぼしたものが落ちている。

「ほら、床にいっぱいこぼれてるじゃない!」

「あとで掃除するから」

「そういう問題じゃ……」

 ふと父の顔を見るが特に気にする様子もなく、黙々と食べ続けている。そうこうしている内に一足早く食事を終えた母がそそくさと立ち上がり、自分の食器だけ洗うとさっさと別の部屋へ行ってしまい、後で食べ終わった父が自分で皿を洗っていた。

 昔の父は皿なんて絶対洗わなかったし、母があんな態度を取った日には平手打ちして怒鳴りつけたのに。

「……お父さん。お母さんって、最近いつもああなの??」

「あぁ、そうだよ」

 力無く答える父の姿が、少し哀れに見えた。

 その後も、何かと話し掛ける父に返事すら返そうとせず無視を決め込む母の姿に、ジルはただただやるせない思いを抱くことしか出来なかった。


 図書館のすぐ隣の公園で煙草を吸いながら、今日借りてきた本のページを開く。ページを一枚、また一枚とめくるごとに、ジルは物語の世界に飲み込まれていく。心を落ち着かせるにはこれが一番だ。

 どのくらいの時間が経過していただろうか。数人の子供達の騒ぎ声により、ジルは唐突に現実に引き戻される。

(……ったく、これだからガキは嫌いなのよ……)

 舌打ちしながら騒ぎ声が聞こえる場所を見ると、チェスターの息子、フレッドが数人の少年に囲まれていた。

 小柄で線の細いフレッドに対し、彼の周りを取り囲んでいる少年達はいずれも彼より背丈が高く、骨太でしっかりした体格をしている。多勢に無勢ということも含め、喧嘩となったら間違いなく負けてしまうだろう。しかし、フレッドは自分より体格が勝る少年達に囲まれていても怯む様子が一切なく、むしろ迷惑極まりないと言いたげな表情で本を抱え、そこから立ち去ろうとしていた。

「おい、待てよ、アルフレッド!」

 アルフレッドと呼ばれると、フレッドはあからさまに眉間に皴をよせて、嫌そうな顔をする。

「見たかよ今の!なっ、俺の言った通りだろ!!こいつさ、アルフレッドって呼ばれるとすっげぇ嫌な顔するんだぜ!!」

「本当だ、おもしれーー!!」

 少年達は馬鹿みたいにゲラゲラ大笑いする。その様子をフレッドは冷ややかな顔をして見ている。それに気付いた少年の一人がつかつかとフレッドに近づき、胸倉を掴む。

「何だよ、その顔は?俺達をバカにしてんのか?!」

「……だって馬鹿だろ??そんなくだらないことで笑えるなんて、むしろ羨ましいくらいだね。あと、わざわざメアリがいない時を狙って大勢で押しかけて来るとか、どんだけあいつにビビってんの??ついでに臆病者のレッテルも貼っといてやるよ」

 次の瞬間、フレッドは固い土の上に転がっていた。少年に思いっきり殴られたのだ。

「…………取り込み中悪いんだけど。いい加減静かにしてくれない??元気が有り余ってんのは分かるけど、五月蝿くて読書の邪魔なのよね」

 わざと大仰にため息をつきながら、ジルは少年達の群れの中へ入っていき、なおもフレッドを殴りつけようとする少年の腕を掴む。少年は驚くもすぐにジルの腕を振り払い、「何だよ、おばさん」と凄むが、ジルの猛禽類を思わせる鋭い目付きに明らかに怯んでいる。(ジル自身は別に睨んでいるつもりはない)

「失礼なガキね。これでも二十二歳なんだけど」

「二十歳過ぎたらババアだよ!!」

「……ったく、親にどういう躾されてんだか……。あっ、さっきお巡り呼んだから、一から躾されてきな」

 「お巡り」という言葉を出した途端、えっ、お巡り来んの??!!とさっきまでの威勢はどこへやら、少年達は脱兎のごとく退散していった。

「ほら、あんたもいつまでも座り込んでないでさっさと立ちなよ」

 フレッドが落とした本を拾い上げながら、もう片方の手を差し出すと彼は掴まりながら、よろよろと立ち上がる。

「……っっつ!…………いってぇ…………」

 フレッドの殴られた左頬は腫れ上がり、下唇も切っていたらしく、形の良い薄い唇にうっすらと血が滲んでいる。

「……あんたも馬鹿だね。下手に挑発するから殴られるのも当然よ。せっかくの綺麗な顔が台なしじゃない」

「………………」

「……まっ、気持ちは分からなくないけど……」

 反論の余地もないが釈然ともしないせいか、ムスっとして黙ったままのフレッドを見ていると、どんなに大人びていても、まだまだ十歳の少年なんだな……と、不謹慎とは思いつつもジルは微笑ましく思った。と同時に、この小さく華奢な身体に背負っている痛みはどれ程か、気にもなった。

(……私もどうかしてるな……。所詮他人事なのに)

「……ありがとうございました……、……ジル・ギャラガーさん」

 しばらくして、フレッドはようやく口を開き、頭を下げてお礼を言った。

「……あぁ、騒がしいガキが鬱陶しかっただけで、別に礼を言われるようなことじゃないわ。……って、何で私の名前を知っているの??お父さんから聞いたの??」

「……いえ……」

 唇の傷が痛むのか、フレッドはゆっくりと話す。

「……以前、父に招待されてメアリと……、あ、メアリって俺の幼なじみなんですけど。……そいつと一緒にファッションショーを観に行ったんです。その時にメアリが、ジル・ギャラガーさんってモデルさんがクールで陰のある独特な雰囲気ですごく格好良い!って騒いでて。あいつ、普段はそういうこと滅多に言わないから珍しいな、って覚えていたんです。あと、この間、店にいらしてたし……」

「……そう……。……実際はクールというより、人付き合いと煩わしいことが大嫌いなだけの偏屈人間ってだけよ。……それより、あんた一人で帰れる??送ってあげるよ」

「……大丈夫です……。俺、一応は男だし、女の人に送ってもらうのは……、さすがに……」

「……あのクソガキ共に帰り道に闇討ちに遭うかもよ??あんたチビだし、力では勝てないでしょ」

「チ、チビッ…って……」

「それに顔の怪我の説明とか。どうせ、転んだとか適当に嘘つくつもりでしょ」

「……ギャラガーさん、人の心読まないでください……」

「……ジルでいい」

「……ジルさん、気持ちは大変有り難いんですが……、俺、父さんに家族のことであいつらにちょっかい出されてること知られたくないんです。噂で知ってるかもしれませんが……、俺、母さんの連れ子で父さんの実の子じゃないんです……。なのに、母さんと別れた後も今までと変わらず、接してくれる……。あんな酷い裏切り方した女と、憎いはずの男との子供なのに……。俺、実の父と気持ち悪いぐらいそっくりなのに……。俺なんかより、父さんの方がずっとずっと傷ついてるから、これ以上苦しめたくないんです……!!」

 そこまで言うと、フレッドはハッとし、またジルに頭を下げる。

「……すみません……。今日初めて喋ったばかりのジルさんにこんなこと言ってしまって……」

「……別に構わないよ。わかった。今日のことは、あんたの父さんには言わないでおくよ。ただ、送ることだけはさせてほしいかな」

「……分かりました。いえ、こちらこそ本当にありがとうございます。あ、そう言えば……」

「……何?」

「お巡り来るの、遅すぎますね」

「……あぁ、あれは嘘だよ。ガキの喧嘩くらいで呼ばないよ」

「……へっ?!……」

鳩が豆鉄砲食らったような顔したフレッドを見て、(やっぱり、何だかんだ言って子供だね)とジルはほくそ笑むのだった。


(続く)

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