表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

プロローグ

「プロローグ」


 あれは、フレッドが十歳になったばかりのことだった。

 学校が終わり、いつもならば幼馴染のメアリと共に真っ直ぐ家に帰るか、家には帰らずに図書館に直接向かうかするところだったのを、その日に限っては「たまには、父さんと母さんの店に顔を出そうか」と、父チェスターと母アビゲイルが営む美容院へと足を向けたのだった。

 店まであと少し、この十字路を左に曲がり、一番奥の白い屋根の建物まで行けばーー、と、やや小走りになりながら曲がった時、角のすぐ先で見慣れた栗毛の長い髪が風になびいてるのが目に入った。フレッドは、僅かばかり声を弾ませて呼び掛ける。

「母さんっ」

 しかし、いつものようにアビゲイルからの返事が返ってこない。聞こえなかったのだろうか、と思い、角を曲がり切った瞬間、フレッドは母が返事を返さなかった理由を瞬時にして悟った。

 アビゲイルが知らない男に肩を抱かれながら、フレッドがやって来た道とは真逆の方向へと歩みを進めていたのだ。店に行くことばかり考えていて気が付かなかったが、母と男が進むその先には立派な黒い馬車が止まっている。

「……母さん、何処へ行こうとしてるの?!その人は誰なんだよ?!」

 フレッドの叫び声が聞こえている筈なのに、アビゲイルは返事をしないどころか振り向きもしない。

(――まさか、そんな……。どうして今頃になって……)

 それはフレッドが物心つく頃からずっと不安に感じていたことーー、母の言うところの「あの人」が現れて自分の前から去っていってしまうことが、とうとう現実に起きてしまった。ショックの余り、放心状態でその場で立ち竦む以外成す術を失くしてしまったフレッドなど、まるでそこに存在していないかのように母と男は馬車の元までどんどん近づいていく。

 一度だけ、男の方が後ろを振り返った。

 男はフレッドの姿を見た瞬間、明らかに動揺した表情を浮かべ、フレッドも呆然としつつも男の顔をはっきりと目にした。癖のない真っ直ぐなブルネットの髪、切れ長の薄いグレーの瞳、酷薄そうな薄い唇、形の良いすっきりとした高い鼻――、少し冷たい印象の美しいその顔立ちは、彼と自分との間に同じ血が流れているということをまざまざと思い知らされるには充分すぎる程充分であった。

 その後、当初の予定通り店に向かったのか、店には行かずに家に戻ったのか、フレッドはよく覚えていない。ただ、その日からフレッドは、本名である「アルフレッド」と呼ばれると言い知れぬ嫌悪感を感じるようになり、アビゲイルのことを「あの人」呼ばわりするようになったのだったーー。



「……もういい加減にしてくれよ……」

「その日」の夢をまた見てしまった。

 頭が割れそうに痛い。両手で顔を覆い、眩暈と吐き気を必死に堪える。知らず知らずの内に汗も掻いていたようで、酷く寒気がする。

時刻は、まだ午前三時半。起床時間までには三時間以上ある。

以前に比べたら、随分頻度は減ったものの、この夢を見ると必ずうなされて目が覚めるのだ。一時期は毎日のようにこの夢を見ていたため、不眠症になりかかり、寝る前にウイスキーやバーボンを睡眠導入剤代わりにして飲んでいたこともある。もう二十年以上前の子供の頃の話だと言うのに、情けないものだ。

徐々に落ち着きを取り戻しつつあったフレッドだったが、すぐ隣にあるべきはずの気配を感じないことに気付くと、とてつもない不安感に襲われ、再び正気を失くしそうになった時だった。

「……起きたの??」

手にしたカンテラの薄明かりと共に、隣にあるべきはずの気配の主ーー、共に暮らしている彼の恋人、スカーレットが部屋に戻ってきた。もう片方の手にカップを持ちながら。

「ひどくうなされていたから、おそらく目を覚ましてしまうと思って……、ハーブ酒を温めていたの。この後、楽に眠れるように…」

スカーレットがベッドサイドのテーブルにカンテラとカップを置き、ベッドに腰掛けたと同時に背後から抱きすくめた。思いの外、力が入りすぎたため、彼女は苦しそうに顔を歪める。しかし、力を緩めるどころか逆に力が入るばかり。

「…………あんたは何処にも行かないでくれ…………」

相当息苦しいだろうに、スカーレットは嫌がりもせず、フレッドに身を委ねる。

「……私は何処にも行かないよ。アルフレッドの傍にずっといるから」

その言葉に少し安心できたのか、腕の力を緩める。後ろを向いていたスカーレットは、フレッドの方へ身体を向ける。彼女と目が合うと、フレッドは彼女の肩に自分の顎を乗せて背中に手を回し、柔らかな赤毛の長い髪に顔を埋めながら、再び抱きしめた。抱きしめられながら、スカーレットは優しい手つきで彼の背中を撫でる。

「……また、お母さんの夢を見たの??」

「……ああ……」

「……そっか……」

 まるで母親に甘える幼い子供みたいだと、心の中で自嘲する。スカーレットの方が、自分よりも少し年下なのに。

 しばらくの間、抱き合ったままでスカーレットはフレッドの背中を撫で続けていたが、身体が冷えてきたのか、くしゅん、と小さくくしゃみをした。

「……すまない。寒くなってきただろう。俺はもう大丈夫だ、ありがとう」

 そう言うと、フレッドは身体を離し、彼女を解放する。それでもまだ彼が心配なのか、スカーレットはひどく不安げな様子で見つめる。

「……あんたがそんな顔する必要ないって」

 心配性な恋人にフレッドは思わず苦笑する。つられてスカーレットも、困ったような、はにかんだ微笑みを浮かべた。彼女は笑うと少女のようにあどけない表情になる。

 整ってはいるが決して美人ではなく、どちらかと言えば地味で小作りな顔立ちといい、少し小柄な体格といい、スカーレットはどことなく「あの人」と似ていた。ただし、幾つになっても、外見も性格も十代の少女のようにふわふわとして頼りなげだった「あの人」にはいつも不安を覚えてばかりいたのに対し、スカーレットは妖艶な女の色気と純粋で可愛らしい少女性という両極性を持ち合わせている上に、自分にとてつもなく深い安らぎを与えてくれる。

 そんな彼女の寝間着の中に隠れている二の腕や腕、内股にはーー、もうほとんど消えかかっていて目をよく凝らさない限り気づかないが、無数の切り傷の跡が残っている。

「……若気の至りよ。今はこんな馬鹿なこと、もうしていないわ」

 と、今でこそバツが悪そうに笑うし、何があったのかは話そうとしないし、話したくないのなら敢えて聞いたりはしないが、常に誰かに庇護され続けてきた「あの人」と決定的に違うのは、彼女は色々な種類の痛みを知っていて、誰よりも繊細で傷つきやすい。だからこそ、他人の心の痛みにも寄り添うことができるし、逆に彼女の心の痛みにも寄り添いたいとも願う。

 フレッドはスカーレットの顔をじっと見つめる。不思議そうな顔で、彼女も彼を見つめ返す。スカーレットのつぶらな瞳の色は左右それぞれ違い、左目は鮮やかなエメラルドグリーン、右目は彼と同じ薄いグレーをしていて、まるで猫のようだとフレッドは思う。

「何?どうしたの??」

 あまりに長い間見つめられて恥ずかしくなったのか、スカーレットは顔を伏せるが、フレッドはすぐに両手を彼女の頬に添え、上向かせると彼女の唇に優しく口づけた。

「……!!……」

 湯気が沸くのではと思うほど、顔や耳を真っ赤にさせたスカーレットに再び苦笑する。今まで散々抱いているにも関わらず、いつまで経っても些細なことで初な反応を見せる彼女が可愛らしくて、心底愛おしかった。

「……もぅっ!そんなことできるだけの元気が戻ったなら、さっさとこれ飲んで寝なよっ!」

 スカーレットはテーブルに置いてあったカップを押し付けるように、フレッドに手渡す。フレッドはすっかり冷めてしまったハーブ酒を口に含む。

「あんたも飲むか??」

 差し出されたカップを受け取ると、彼女も同じように口に含む。そしてまた、彼に手渡す。そんなことを繰り返しながら、一つのカップで二人で分け合うようにしてハーブ酒を飲む。

 やがて空になったカップをテーブルの上に戻す。今度は悪夢を見ないようにと、二人は手を繋いだまま、枕を並べて眠りに就いたのだった。


(終)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ