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ねむいねむいふたり

作者: 周防 夕


   ◆


 冷たい空気をすっても、胃は全くすっきりしない。胃袋の中で巨大な毛虫がうごめいてるようだ。馬鹿げた比喩を考えていないで走れ、と自分に活を入れる。辺りは銀世界、疲れ目にはぎらぎらしすぎている。目がくらんで僕は足を滑らした。

 道から身は投げ出され、柵を越えて落っこちる。雪がクッションになって助かった。どうせなら羽毛のが良かったけども。胃の中で毛虫がうごめく。阿呆なことを考えてないで道に戻れ、と注意される。

 午前中に済ますことが三つと、夕方までに終えるのが四つと、日付が変わるまでにやらねばならぬことが二つある。急げ、二度寝に奪われた時を取り返すために。

 雪は膝の高さまで積もっていて、運動不足には歩くだけで重労働だ。やばい。そう思った時には体から重みが逃げていた。薄情なやつらめ。全身をなでる風が気持ち悪い。どうやら落下しているらしい。雪に穴が隠されていたようだ。

 光の失せたまっくらな世界、手足をふっても固い壁にぶつかって痛むだけ。重力に抗うことを諦めて、僕は底につくのを待った。

 足の裏からおしりまで痛みがひびく。おかげさまで眠気が覚めた。けれど僕は寝転んでいる。ひどい朝だ。上を見ると、一番星のように一点だけ光が漏れていた。だいぶ落ちた。もう、どうにもならん。いっそ眠ってしまおうか。

 毒のある毛をまとった芋虫が胃をはいずり回る。時間にうるさい男と約束があっただろう。少しでも遅れれば、やつはお前をこっぴどく叱りつけるぞ。虫が叫ぶ。

 心にむちを打ち、壁を頼りに立ち上がる。痛い。こんな足じゃ登れやしない。よろよろと洞くつを歩く。どこかで外に通じているだろう。たぶん、きっと、そうだろう。

 ぼんやりとした灯りが見えた。ひらけた所に、灰色レンガの小さな家が建っている。ひとまず、助かった。

「ごめんください」

 ドアをノックする。返事はない。

「失礼します」

 ドアを開ける。鍵はかかっていない。

「どなたか、いらっしゃいませんか?」

 部屋はほのかに明るかった。テーブルの上にランタンが置かれ、辺りをオレンジに染めている。こりゃ驚いた。僕の部屋より充実しているぞ。あめ色のヌメ革ソファーに、つややかな黒毛のカーペット、小さなピアノまである。立派な本棚には革表紙の書籍が並んでいた。グレーのダウンコートが床におざなりにされているのを僕は見つけた。

「留守か」

「だれ」

 女の声が聞こえた。

「穴から落ちてきました。上へ戻る方法はないでしょうか」

「さあ。しりません」

「あの、君はどこに居るんですか?」

「ここです」

 コートからぴょこんと女の顔が出た。しだれる黒髪、生気のない白い肌。とろんとした目でこちらを見つめる。うつぶせのまま顔をひっこめてフードをかぶった。亀みたいだ。ダウンの厚みで隠れるくらい薄い女だ。

「足をひねってしまって。ソファーをお借りしてもよいですか?」

「どうぞ」

 腰を下ろし、ハンカチで足を固定する。もしかしたら、骨にひびが入っているかもしれない。こんな足では走れない。時間には間に合わない。

「外に出る方法はないんですか? 君はここで何をしてるんですか?」

「ねています。とうみんしてます」

「はあ」

 なに言ってるんだろう。こいつ。ふざけてんのか。愚図とつきあう時間はないぞ。早く早く、急げ急げ、と毛虫が暴れる。苛立ちでカロリーを消費していると、僕の腹がぐうと鳴った。

 のそのそと女が立ち上がる。子供のように小さい。本来は膝下くらいのコートなんだろうに、ひきずって歩いている。もしかしたら子供かもしれない。

「あなたは、おきゃくさんですね。ごはんつくります」

「それは、どうも。ありがとうございます」

 腹が減っては何も考えられない。食べ終えてから、女にいろいろ聞いてみよう。それが良い。そう決めた。出されたのはミートソースのスパゲッティだった。

「ごちそうさまです。美味しかったです」

 返事はない。代わりにすうすうと寝息が聞こえた。冬眠中の女はソファーにあお向けで寝そべっている。フードが外れて、黒く長い髪があらわになっていた。

 子供かと思ったけれど、顔つきから察するに若い女だ。長いまつげに、薄い唇、見れば見るほど苛立ちがごまかされてしまう。

 家を出て、足をひきずりながら、辺りを散策してみた。すぐ行き止まりにぶつかる。出口はないようだ。

 彼女の家に再びお邪魔した。先ほどよりも部屋が暑い。暖炉でめらめらと薪が燃えていた。胃の中の毛虫はパスタにからめ捕られて身動きがとれない。頭を占めていた今日すべきことたち、それら全てが熱に溶けて形を失っていく。暖かくて、うとうとして、僕は寝た。


   ◆


「足が治るまで住ませてもらえませんか?」

 その答えを聞くのに、三日くらいかかった。

「食料はどこから得ているのですか?」

 四日くらい前に聞いたけど、答えはまだもらえてない。

 彼女はすぐに寝た。だいたい寝てた。そこら中で寝てた。食べて、寝て、ご飯を作ってくれて、寝て、食べて、寝た。僕と彼女は毎日、別の時間にミートソースのスパゲッティを食べた。

 大きな黒目が見えるのはほんの一瞬で、だいたい隠されていた。いつも寝ぼけていて、話しかけても返事がくるまで数日くらいかかる。それは、冬眠しているせいだろうか。

 彼女が顔をあらわにして寝ている時は、じっとその顔を観察した。長いまつげ、まぶたに浮かぶ血管、紫がかった唇、引き込まれる死人のような美しさ。でも、それも飽きた。

 ここでは日が昇るのも見られない。僕はいつだか、ここに来て何日目なのか、今が昼なのか夜なのか分からなくなっていた。腹の音が鳴ると彼女が料理を作ってくれる。おとずれる眠気に素直にしたがう。初めの内は、その周期から日時を計算していたけれど、確証も持てなかったからめてしまった。

 暇だ。やることがない。彼女はいつも寝ている。ぼうっと辺りを見回していると、本棚の下段にトランプとボードゲームがあることに気づいた。トランプを拝借し、ソリティアをして遊ぶ。そうして、僕はだんだんと家のものを勝手に使うようになっていった。

 図々しい自覚はあったけど、キッチンをあさり、コーヒーを見つけた。ここに来てから水しか飲んでいない。久しぶりにあの苦さを味わいたくなり、豆をく。

「なんのにおい?」

「コーヒーをもらった。ごめん。まずかった?」

「わたしにもちょうだい」

 そう言って彼女はまた寝た。起きる頃にはすっかりコーヒーは冷えきっていた。

「にがいね」

「ミルクはないみたいだったから。砂糖はあるかも」

「いや。おいしい」

「そう」

 僕は立ったまま、ソファーに座る少女を見つめる。彼女は小さな手でコップをつかみ、ちびちびと口をつけている。こんなに長い間、目を開けている彼女を見るのは初めてだった。

「君はなんで冬眠してるの?」

「さあ。ああ、それ、なんだっけ?」

 彼女は僕が散らかしたカードを指差している。

「トランプだよ。君のじゃないの?」

「さあ。おぼえてない」

 いつもならこのやり取りに半月くらいかかるだろう。彼女は何も考えてなさそうな顔でカードを見つめている。

「ブラックジャックでもやろうよ」

「なにそれ」

「このカードでやる遊びだよ。教えるからさ」

 彼女の横に座ってルールを教えた。説明しきる前に彼女は寝てしまった。少女にもたれかかられて、僕はその軽さに驚く。

 この家にはベッドがないからソファーまで運んだ。その日は久しぶりに少女の顔をじっと見た。いつもより血色が良く、頬が桜のような色をしていた。

 彼女はにおいに反応した。ほかに何かないか、僕は台所を探して回った。床に扉があった。貯蔵庫だろうか。力を入れても開かない。そうやって体を使っていると、だんだん眠くなって、僕はそのまま寝てしまった。


   ◆


 彼女とトランプができるようになった。いつもブラックジャックをやった。だいたい僕が負けた。あの子は勝つと嬉しそうに目をとろんとさせた。負けると残念そうに、眠った。だから僕は頑張って負けた。

 彼女とオセロができるようになった。途中で必ずどちらかが寝た。起きてから続きをやることにした。だいたい、自分の色を忘れてたけど、どうでも良かった。彼女が楽しそうにコマをひっくり返すのを見るのが好きだった。


 久しぶりに夢をみた。おかしなエンビ服を着た男が僕をひたすら叱りつける。背広の内ポッケから取りだした懐中時計で僕の頭を何度もぶった。痛い。頭の奥までひびく痛み。

「コーヒーがのみたい」

 彼女にゆられて僕は目覚めた。驚いた。彼女に起こされるなんて初めてのことだ。そもそも、僕が寝ている間に彼女が起きているのは、なんか変な感じがする。僕はまだ夢を見ているのかな。

「ちょっと待ってね」

 お湯を沸かし、豆を挽いて、コーヒーをいれる。湯気の上がるカップを机に置いた。彼女はソファーにだらしなく腰かけ、首を力なく左に傾け、まんまるい目で僕を見つめている。一眠りしてから飲むと思っていたので、その姿を見て僕は再度驚いた。

「はい。お待たせ」

「ありがとう。……あついね」

「冷えるの待ったら?」

「ううん。たぶん、ねちゃう」

「そうかもね」

 彼女の真似をするように、僕も両手でカップを持って、少し首を右に傾けて、ブラックコーヒーをちびちび飲んだ。

「君はさ。なんでここに居るんだい?」

「とうみんしてるの」

「前も言ってたね。なんで冬眠しているの?」

「わすれた……」

 コーヒーを口にして彼女は目をつむった。眠ったのかな、と思ったけど違う。力の込められたまぶたは小刻みに震えている。

「春になったら出るの?」

「ううん。でたくなったらでる」

「そっか」

「それまでねむる。そとがよくなったらでる。わるいところに、いくひつようない」

「そうだね」

「あなたは、なんでここにいるの?」

 どきりとした。答えがすぐに思いつかなかったから。

「僕は……怪我をしたんだ。それで、上に戻れない。治るまでここに居るんだと思う」

「どこにけが?」

「どこだっただろう? 忘れた。もう治ったのかもしれない」

「そう。じゃあ、いくの?」

 服はずっと変わらずグレーのダウンコート、流れる黒髪、その下の大きな瞳が、すがるように僕を見つめる。そこにうつる男は、どうにも情けない顔をしてそうだ。

 その後、僕はおそらくだいぶ寝た。寝過ぎて疲れるくらいには寝た。目が覚めても、立ち上がる気力も、考える力も抜けきっていた。

 腹が鳴った。彼女が立ち上がるのを半目で見つめる。パスタを作っているようだ。いつもと違う匂いがした。なんだ。ミートソースじゃないぞ。

 冬眠明けの亀のようなのろまな動きで僕は食卓に着く。皿の上には、白いカルボナーラが乗っていた。美味しかった。とても、おいしかった。

「おいしい?」

 僕をじっと見つめながら彼女はそう聞いた。料理を作った後なのに寝てなかった。僕はうなずいた。彼女は嬉しそうに、寂しそうに微笑んで、眠りについた。


   ◆


 ここに落ちてからどれくらい経っただろう。一ヶ月かもしれないし、一年かもしれない。もしくは、もっと長いのかもしれない。

 いろいろ、やらねばならぬ事があった気がする。いろんな人と約束をしていた気がする。みんなは困っていないかな。困っていたら悪いな。

 暮らし慣れた家から出て、洞くつを歩き、一点の光を目にする。目をこらせば、光に続く岩肌がでこぼこしていて登れそうだと分かる。試しに手をかける。どこも体は痛くない。少し登って、下りる。そんなことを何度もやった。

 彼女の睡眠時間はだいぶ短くなった。僕の睡眠時間はだいぶ長くなった。いずれ、同じ周期になりそうだ。そうしたら、僕はあの家から出る気がなくなるかもしれない。それも良い生活だ。だけれど、誰かが、何かが、この上で僕を呼んでいる気がする。

 家へ戻ると彼女は起きていた。火のついていない暖炉をじっと見つめている。言いづらかったけど、僕は告げた。

「今まで、ありがとう。僕はここを出ることにした」

「……そう」

 のたのたとソファーまで歩き、彼女は横になった。僕は知ってる。それが嘘寝ってこと。彼女が寝るのはもうちょっと後の時間だ。

「ありがとう。じゃあね」

 返事はなかった。僕はドアを開けて、あの光の下まで進んだ。岩に手をやる。足を動かし、壁をはって上へ向かう。

 息が切れて、汗がだらだらと出る。登るほど光の点は大きくなっていく。来たところを振り向きはしない。光へ向かう。銀色の輝く世界へ戻るんだ。

 久しぶりの出番に筋肉が悲鳴を上げる。ねむたげな暮らしを続けていれば、いつしか登れなくなっていただろう。横腹が痛んでも登るんだ。やらなきゃいけない事が沢山あるんだ。

 明るく清い光は僕の全身を照らす。もう少し、あと少し、上へ向かえば、いろんなことが待っている。光を浴びるほど、肌はかゆくなり、なぜだか胃がむかむかし出した。

 早く戻らないとみんなを困らせるぞ。だから痛んでも、辛くても、くじけず頑張れ。胃の中から語りかける物がいる。教えておくれ。そこには良いことが待っているのかな。これだけ疲れる思いをして、悪いことが待っていたら嫌だ。

 彼女との寝ぼけた日々はなんもなかったな。悪いこともなかった。そうだ。みんなが困ったからって、僕が困るわけではないんだな。

 気づいたら下を見ていた。二つ、きらりと光るものが見えた。驚いて僕は手を離す。やばい。そう思った頃には体から重みが去っていた。親切なやつらだ。全身をなでる風が気持ちよい。どうやら落下しているらしい。

 光の失せたまっくらな世界、重力とじゃれあってる内に底へついた。足の裏からふとももまで痛みがひびく。

 そこにはダウンをひきずる少女が居た。尻もちをついている僕と目が合う。こっちを見て、驚いたように、不思議そうに、目をまんまるにしている。

「どうしたのさ、こんな場所で?」

 僕が言った。

「どうしたの? 落ちてきて」

 彼女が言った。

 上を見ると、一番星のように一点だけ光が漏れていた。だいぶ落ちた。けれど、なんだか気が晴れている。具合を確かめるふりをして僕は足へ手を当てる。

「足をひねったみたいだ。君の家で休ませてくれないか」

「どうぞ」

 二人並んでよろよろ歩く。何も言葉は交わさなかったし、暗くて表情も見えなかった。

 灰色レンガの小さな家につき、ドアを開ける。暖炉で薪が燃えていて、部屋はとても暖かかった。なんだか、懐かしくて、安心して、うとうとして、僕はすぐ横になった。彼女が僕の頭を抱えて、膝の上におく。ふわふわしたダウンは良い枕だ。

「いつまで、居るの?」

 彼女の黒い髪が頬に触れてくすぐったい。不安そうに彼女はこちらを見る。僕は疲れて、眠くて、目がとろんとしてきた。

「でたくなるまで、いる」

 そう言って僕は目をつむる。彼女が「おやすみ」と言ったのが聞こえたような気がした。寝て、食べて、寝て、食べて、そんな眠い眠い二人の日が続いていくように願いながら、僕はながい眠りについた。

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