煮える黒いもの
椎菜はそのまま二年三組の教室へと向かった。
夏村のみにあることを伝えるために。
――きっとこのことを言ったら、夏村ちゃん喜ぶわ……。
半分だけ閉まっていた教室のドアを静かに開き、自分の席に座る。
そして絵を描いた。
椎菜の得意な絵で、今からやる作戦を改めて確認する。
1つ、夏村を連れ出す。
2つ、三好あん子と小波莉子を追い払う。
3つ、夏村にあのことを伝える。
4つ、夏村と一緒に下校。
――完璧だわ……。
幸い今日は早下校の日なので、昼間から夏村を連れ出せる。
――うふふ。夏村ちゃんは私のもの。誰にも渡さない。
口元がにやけそうなのをマスクで隠す。
椎菜にとってマスクは必需品だ。
風邪予防もできるし、病弱アピールもできるし、口元のにやけも隠すことができる。
一石二鳥……いや、一石三鳥というところだ。
机に描いた作戦を消し、夏村を待つ。
「あん子、痛いよ、引っ張らないで!」
夏村の声がした。
――……きた!
だが、引っ張らないでということはどういう意味だろう。
「夏村サン、莉子サンニ、ヒッツキスギ、デス!」
――夏村ちゃんが小波莉子に引っ付いてるの?!
はっとして、夏村のほうを見る。
夏村は両腕をあん子と莉子に取られ、困っていた。
――夏村ちゃんの腕をおもちゃのように扱うなんて……!
いらいらしている椎菜のもとに、さらに爆弾が投下される。
「あれ?! さっきのあだ名のくだりどこに行ったの?! ‘なっちゃん’は覚えてるよね?!」
――な、なっちゃん?!
自分の知らないところで夏村にあだ名がついている。
そのことが椎菜のいらいらを増やす。
「莉子も、痛いって!」
――な、夏村ちゃんが痛がってる! 私の夏村ちゃんが、困ってる!
椎菜はおしとやかで清楚に見えるように立ち上がり、これまたおしとやかで清楚に見えるように夏村のもとに行く。
「あ、椎菜……」
「夏村ちゃん……」
ずっと腹の中でぐつぐつと煮やしていた真っ黒い感情を押し殺し、いつもより元気を落とした声で夏村に話し掛ける。
「椎菜、さっきはごめんね?」
――夏村ちゃんが謝ってくれた……! 嬉しいわ……!
いくらマスクをしているとはいえ、なんらかの形でばれてしまうかもしれないので、口元のにやけを必死にとめる。
「ううん、私こそ、急にごめんね……。あ、あのね……」
――ここで私が可愛く見えるよう……
「夏村サン」
――なに?!
急にあん子が夏村と椎菜の会話に入ってきた。
「コレハ、ダレ、デスカ?」
――なんなのこいつ?! 私と夏村ちゃんの会話に割り込んできて! 迷惑、迷惑なのよ!
目をかっと開いて睨みそうになったが、そんなところを夏村に見られるわけにはいかないので、優しい目であん子を見る。
「この子は……」
――この子……? 夏村ちゃんに、この子って言われただなんて……。あとで夏村ちゃんノートに書いておかないと。
椎菜がいう夏村ちゃんノートというものは、とても恐ろしいものだ。
椎菜が夏村と出会った日から今日に至るまで、ノートにはびっしりと文字が書かれている。
夏村に言われて嬉しかったこと、夏村と一緒に行動して楽しかったことなど、夏村と椎菜のことが書いてある。
椎菜が現在持っている夏村ちゃんノートは13冊、写真や似顔絵がある夏村ちゃんノート(絵)は、57冊もある。
だいたい一年に一冊のペースで夏村ちゃんノートは新しくなる。
だが、夏村ちゃんノート(絵)は、キャンプや修学旅行などの行事があるたびに、隠し撮りや売り物の写真で膨らんでいくため、膨大な量になる。
「久遠椎菜っていうんだ。私の大切な幼なじみだよ」
――大切な、幼なじみ……。うふふ、うふふふふふふふ。
「ヘェ、ソウナンデスカ」
「ところで椎菜、さっきなにか言おうとしてなかった?」
「あ、うん! そうなの。覚えててくれて、嬉しいな……なんて、えへへ」
「なに言ってんの、覚えてるのは当たり前だよ」
ははっと笑う夏村に、椎菜は再びどきどきする。
――今日もどきどきが止まらないわ……。
「えっとね、夏村ちゃんとまた同じクラスになれて、とっても嬉しかったから……さっきお母さんに電話して、夏村ちゃんの大好きなあれを作ってもらったの……」
「あれって、もしかして、ロールケーキ?!」
輝く夏村の目にうっとりと見惚れそうになるが、そこは我慢してこくんと頷く。
「あ、ありがとう!!」
――夏村ちゃんが、私の手を握ってくれた! まあ、ここまでは作戦通りね。次にあのことを伝えるのよ。
「それにね、夏村ちゃんのために大きいサイズにしてもらったんだよ……? 夏村ちゃん、喜んでくれるかなって……」
「ありがとう!! 本っ当に嬉しい! 椎菜のお母さんが作るロールケーキは、世界一美味しいんだもん!」
――夏村ちゃんが抱き着いてる……。良い匂いがする……。きっとシャンプー変えたのね……。
「じゃあ、今日、一緒に帰ろう? それで、お昼も、一緒に……」
「ダメ、デス!」
「駄目だよ」
あん子と莉子にすかさず注意される。
――な、なんなのこいつら?!