9.丘スライムと牛蒡のどて煮
店の三階の自室に帰り一息つくと、いろいろあり過ぎたせいで疲れが押し寄せてきた。
でもこれからが今私が一番やるべきことなんだからと、いつもの部屋着のグレーのシャツにハーフパンツに着替え、イチゴ柄のエプロンを締める。
このエプロンは仕事着じゃない時の台所に立つ時用にと、女将サンが縫ってくれ……凶悪に可愛らしいフリルつきのそれにおののきつつも、有り難く使わせてもらっている。
デザインはともかく、この紐をきゅっと結ぶ時のお腹に力がぐっと入る感覚が好き。
私は午前中に冷蔵室に入れておいた盥を厨房へ運び出した。
盥にたまっていた透明な水を捨て、包んでいたさらしを開けば、水分が抜けて三分の二ほどのサイズになった丘スライムが、お重ね餅のような厚みのある綺麗な円盤形になっている。それを軽く水で洗うと籠に乗せて水気をる。
まずは端っこを包丁で削ぎ切り、そのままひとつを口の中に入れてみた。
外側の薄皮は口に残るから取り除いたほうがいいみたい。匂いは微かに植物の青っぽさがあるけど、味はそれ自体の持つ仄かな塩気と甘みとタンパク質の持つ旨味がある。
植物?動物?思考の迷路に迷い込みそうになってあわててそれ以上考えないようにする。
それにしても、食感が面白い。
くにゅりと弾力がありながら、顎にさほど力を入れなくてもふつりと噛み切れる。噛み締めるとじゅわっと水分が出て来るのがいい。
見た目の印象は蒟蒻や寒天だけど、食感はアロエに似てるかな。
今度は薄切りを小鍋に湧かしたお湯にさっと潜らせる。すると加熱されたそれは白く濁った色になった。
取り出して口に入れると……固い。まるでガムのように噛んでも噛んでもなくならない。
あれ、市場で後藤商会のおじさんがおでんに入れるっていってたけど、蒟蒻みたいにぷるんとした食感を楽しむのかと思ってたら違うのか。
予想が外れ、私は腕を組み考え込む。もっと話を聞いておけばよかっと後悔しながらも、自分で色々試してみるのも初めての食材に触れる醍醐味と頭を巡らす。
次は火に炙り口に入れると、やっぱり硬くなってしまった。
ほんと筋だよね、これ。肉だと切り出し取り除くそれの塊といった所。火を入れ過ぎて硬くなるなら分かるんだけどな。
試しに厚めに切ってたたきのように外側だけ軽くあぶってみたら、歯が外側の加熱部分から中の柔らかい所まで通りません。
さすがに八方ふさがりになり今回は生の料理だけにしようかな、と思っていた時、ふとおじさんの「おでん」という言葉が頭を過った。
そういえばあったっけ、こんにゃく以外に似てるおでんの具がもうひとつ。
「ねえねえ、送ってきてくれたのはどんな子なの」
キッチンでお茶を入れていた女将さんに呼ばれて行くと、覚悟をしてたけど嬉しそうに訊ねてきた。
さすがに泣いている所を拾われたなんてことは話せない。
「子っていう歳を過ぎたお兄さんですよ。吉祥寺で海を見ていたら、犬の散歩をしていて知り合った方です。流れでおうちにお邪魔して、お姉さんやお父さん達とおまんじゅうをご馳走になりました」
「まあっ、お家にお邪魔したのねっ」
女将さんが大きい声出すとリビングのソファーにいる大将と蓮也くんが今の女将サンの声にぴくりとみじろぎしたのが見えた。絶対聞かれてますって。
「女将サン、これは大将に持っていけばいいですね」
「そんなの後でいいから!それでっ、それでっ、どんな人なの?」
私は苦笑しながら、冷めますよとお盆を手に大将と蓮也くんにお茶を運ぶ。二人とも何も聞こえないというアピールか、手元の新聞やハンドグリップで手を鍛えるのに夢中でお茶を置いても気付かないそぶりをする。
仕方なしに女将サンのもとへ戻ると、目をキラキラさせながら私の返事を待っていた。
「孝介さんですか?うーん、人の良い明るいお兄さんですよ。お家は工作所で金属の加工業をされてますけど、孝介さんは大工さんだそうです」
「ふーん、おうちの方はどうだった?」
「お姉さんの朱美さんは面白い方だったし、挨拶しか出来なかったけど旦那さんも優しそうな方でしたした。お父さんのしげるさんも素敵な方でしたよ。あ、犬のコマメも可愛かったです」
「あらあら、もうすっかり家族ぐるみのおつきあいね。英里ちゃんの東京のお母さんのつもりでいる私としては、もうお嫁に出しちゃうのは寂しくていやだわぁ」
背筋がぞくりとして振り向くと、新聞を見つめる大将から何かどす黒いオーラが立ち上っている気がする。その横でダンベルで腕を鍛えている蓮也くんからもなんとなくそれっぽいものが漂ってる。
さすが血の繋がった叔父と甥だけあって、座った時の足の広がり方とか微妙に似てる。
そのうち、蓮也くんもあんな風にもりもりゴリゴリに成長するのかな。そう感心しかけて、ここは否定するところだと気付いた。
「やだな、女将さん。私は素敵な一家だなとは思ったけどそれだけですよ。出会いのきっかけはコマメと孝介さんでしたけど、お姉さんと一番仲良くなってますし。だいたい歳が兄よりも上ですもん」
納得してもらえそうな言い訳が思いつかなかったので、クラスメイトの真紀がコイバナをしている時に連呼してた「兄さんより年上なんてアリエナーイ」という言葉を借りる。
「あら、別に心配したわけじゃないのよ。むしろそれを聞いてがっかり?」
可愛く小首をかしげる女将サンにほっとしていると、背後の威圧感もいつの間にか消えていた。
下宿中は、食事はいつも大将夫婦と一緒にとるのが決まり。
仕事中も、終ってからも始終顔を付合わせることになるけど、私はちっとも嫌じゃない。しかも期間限定となると尚更この時間を大事にしたいと思っている。
人数分の箸や取り皿を配膳していく。
蓮也くんも台所に立ち、熱心に盛りつけをしていた。
そう、休日の夕食は見習いの私達が朝に市場で買った食材を使った料理を作ることになってる。
もちろん、量や献立のバランスを考えないといけないから、作るものは予め二人で打ち合わせ住み。
私達にはそれぞれ自分が決めた課題を持っている。
蓮也くんは、苦手な包丁仕事の腕をあげること。私は色んな食材と向き合うこと。
そして休日にその課題にチャレンジしている。
今夜、蓮也くんが用意したのは、飾り切りした野菜を華やかに盛りつけた根菜の煮物。そしてヤリイカのお刺身。
私が用意したのは、大根と丘スライムのサラダの梅ドレッシング和え、そして丘スライムと牛蒡のどて煮。
後は、主食としてうどんを用意している。
うん、やっぱり和食だからご飯が欲しいけど、基本は粉もの。麺類かパンになってしまうのが未だ慣れず寂しい。
蓮也くんが皆のグラスにビールを注ぎ、明日からまた頑張りましょうの乾杯から夕食が始まった。
煮物の野菜の飾り切りはかなり時間をかけていたようで、どれも綺麗な出来映えだった。
お刺身は、多少切り方が甘いものがあったけど、鮮度も良くてとにかく美味しい。青果市場の前に寄った魚市場で、熱心に選んでいたものね。
そして、自分の料理にも箸を伸ばす。
サラダは大根と、同じサイズに細切りにして塩揉みをした丘スライムとドレッシングで和えてある。するとこりこりとした面白い食感になって、大根のサクサクとした食感となかなか合ってる、と思う。
そして今回の本命のどて煮。
牛筋のように水からじっくり炊くと、見事ぬっちりとろっとした食感になった。
ただ味自体は淡白なので、冷蔵室奥の冷凍庫からストックの牛骨スープを拝借して出汁として使ってる。牛蒡との相性もいいと思う。
麦味噌を使い麦焼酎でコクをだして、あとは黒砂糖で甘みをほどよく調整。
せっかくなのでビールの後で飲んでもらうよう、料理に使った焼酎を置いてる。
蓮也くんにあざといなと言われたけど、お酒と料理の相性も大事なのですよ。
かくして夕食が終わり、二人で片付けを終らせると、ソファーで食後のコーヒーをすする大将の向かいに並んで正座しお言葉を待った。
「あー、じゃあまず蓮也から」
「うぃっす」
「イカの選び方はいい。皮やわたの始末も合格だ。だがいじり過ぎだ。刺身ってのはもっと手早くやるもんだ」
「ありやっすっ」
「煮物は、味付けが出汁を殺してる。引き立たせることを考えろ。野菜の切り方は、合格じゃないがまともになってきてるな。だが人参だけは最低だ。分かってんだろ」
「……」
「ちっ。おい英里。お前気付いてただろ」
「えええっと、人参、ですね。あれは。味が染み込みやすく切ってあったかと」
「えらい前向きな言い方だな。兄弟子とはいえ、経験は英里のほうがあるんだからきちんと指摘してみろ」
「はい。えっと、ねじり梅の切り込みが甘くて厚さが不均等で、薄いものが煮え過ぎて花びらが千切れていたものもありました」
「蓮也。お前、人参になるとおっかなびっくりで包丁握るのはやめろ。魔物の命をもらってんだ、きっちり料理しきってやるのが料理人だ」
「でも、あの人参の歌声を聴くとどうしてもやるせないっす…」
「馬鹿野郎っ、歌のひとつやふたつにガタガタ言うんじゃない。それならそれよりでかい声で歌ってみろ。だいたい最近仕込みの人参を英里にまわしてたろ。明日からごまかさずにお前が一人で全部やれ」
「う、うぃす……」
蓮也くんは、がくりと床に手をつき俯いた。
この世界の野菜は、野菜の前に魔物。だから知っている野菜も思いがけない生態や特徴を持っていることがある。
人参もその一つ、歌うんだ。しかもヨーデルを。
蓮也くんは、その人参を食べるのも料理するのも苦手なんだそう。
親方の下にいる限りは食材として逃げられないと思うんだけどな。
「次、英里!」
「はいっ、お願いします」
大将に名を呼ばれ、慌てて顔を上げて向き合い頭を下げる。
「サラダだが歯ごたえはいい。あのドレッシング、梅は大根に合うな。隠し味のカツオ粉もうまかった」
珍しく最初からお褒めの言葉をもらい、私は心の中でガッツポーズをつくる。
「ただ、味や食感がいいだけじゃだめだ。全体のバランスに目がいっていない。スライムのあの歯ごたえが目立って大根を殺していたぞ。合わせる割合まで考えたか」
「あっ……」
指摘された通り考えが至らなかった自分に悔しくて唇を噛み締める。
「あとは煮物か。淡白さや食感ばかりに目がいくスライムが、あんなに肉の出汁との相性が良いとはな」
今度は、私は素直に喜べなかった。固唾を飲んで大将の言葉の続きを待つ。
「ん、どうした」
「いえ、それから……」
「あとは自分で考えて工夫しろ。まだまだ工夫する所はあるだろう。もっと考えを煮詰めてみろ。これよりうまいのが出来たら店に出す」
「はいっ! ありがとうございます」
店で出すというのは、今の私達にとって最大の賛辞だ。完全に合格ではないけれどそれでも嬉しい。
「そういえば、丘スライムはもう全部使ったのか」
「へ、いえまだ半分あるのでまた明日何か作ってみようかと」
「そうか、なら今度は凍らせてみろ」
「そのままですか」
「そうだ。凍らすと細胞が壊れる。それで普通に火を通しても硬くなくなる」
「えーっ、そうだったんですか」
「干して戻したものだと無理だぞ。水抜き後に更に凍らすなんて手間がかかりすぎるせいで、地元の人以外はほとんど知られてない」
蓮也くんと改めて大将に助言のお礼を言うと、私は冷蔵室にすっとんでいった。
まさか、凍らせると普通に焼けるようになるなんて想像もつかなかった。
丘スライム、焼いたらどんな食感になるんだろう。次はどんな風に料理にしようかな。
私の頭の中はあっという間にスライムのことで満たされ、束の間、望郷の念と寂しさを忘れた。