6.港町吉祥寺
丘スライムは、房総半島の中でも南部に特に群生している魔物。
日当たりのいい草原で日向を求めて這って移動する。
メロンソーダのようなライムグリーン色をして、液状ではなく軟体動物に近い。全長は小さいものは5cm、大型になると1mあるものもいるらしい。
表面は粘液に覆われていて、9割が水分で出来ている。
なぜ丘スライムが野菜なのかというと、光合成を行うので植物に分類されるのだそう。
ぬめりをとればそのまま食べられるけど、ある程度脱水したほうが美味しく調理もしやすいらしい。
店の勝手口外の水場で、私はスライムと格闘していた。
ここは猫の額ほどの庭とつながっていて、そこでは女将さんがハーブや薬味用の野菜を植えている畑と、店内に収納しきれない器材が入れられている物置がある。
大きな金ダライに塩を一掴み入れ、軍手をはめた右手で木箱から盥に移したスライムに、素手のままの左手でその塩をなすりつける。
苦しいのかじたばたと暴れるスライムを押さえつけ、塩を徹底的に揉み込む。
これが思った以上に大変だった。
格闘すること10分、ようやく粘液が身から離れて盥の底に溜まっていき手が滑らなくなり、そしてぬめりが落ちるほどにスライムも大人しくなっていった。
勢いに乗った私は、これでもかと追加した塩でとどめの揉み込みを施し、水道水で綺麗に洗う。
「するとどうでしょう、緑色がより鮮やかになり、表面を指でこするとキュッキュと鳴るじゃありませんか」とナレーション風につぶやきながらスライムの様子を確かめる。
すっかり弱りきって、のたうつこともなくなりぐったりしてひっぱったり振ったりしても反応はない。
そこを今度は砂糖を取り出してスライムにたっぷりまぶしつけ、サラシに巻いてしっかり縛ると、綺麗に洗い水気を切った盥に入れた。
このまま半日置いておけば適度に水分が抜けるはず。
私は盥を店の地下にある冷蔵室へと運んだ。
「ラップとかビニール袋があればもっと楽なんだけどな……」
魔法文明だけあって化石燃料のその地位は低く、また産油国からの輸送ルートがない為に、機械の手入れのオイルなど微々たる需要を国産の原油で賄っている。
なので油としては知られ使われていても、それ自体を加工して作る製品はほとんど出回ってないらしい。
目に付く素材は木や布、金属や石、陶器など天然のものから作られ、防水や軽量化、強度の調整など石油製品に依存していた利便性能は全て魔法で解決されている。
そう、魔法が使えるなら、この布も魔力で防水布に早変わり。ラップと同じように使えます。布袋だったらビニール袋、という具合に。
加熱にも強いし、魔法を解けば普通の布に戻り洗濯すれば何度でも使えちゃうし、天然繊維だから燃やしても害は無し。
そこの調理台の上の棚に立ててある薄いアルミ板も、魔力を通すことで手で簡単に形状や硬度を変えることが出来る。まさしくアルミホイル。しかも板状に戻せばお手入れもらくらく。
この冷蔵室だって、半地下にあるんだけどコンクリートで作った空間に防水防湿に保温
、そして冷却の魔法がかけてある。
ほんと、魔法の万能さには驚かされるばかり。
ただし、魔力のない私にとっては、一人江戸時代状態。
どんな高性能な布や金属でも、私にとってはただの布と金属。
コンロの火をつけたり、シャワーを浴びるのも魔力がないと始まらない。
仕事にも支障が出ちゃう。
そこで紹介するのがこれ、私の首にかかっている銀製の小さなメダルがついたペンダント。
これは病気や高齢になって魔力を放出出来なくなった人向けの商品で……老人介助用品として売られている。
以前魔力測定の時に、魔力がないと生活に支障があるからと役所での相談を勧められた。
里にいた頃は、皆があまり魔法に頼らない生活をしていたお陰でなんとかなっていたけど、こちらに来てからはさすがに切実に困ることになったので相談したら、この商品を紹介された。1つ8万円もするのだけど、私は魔力ゼロは控除条件を満たしているからと減額手続きをしてもらい、なんと一割負担で買うことが出来た。
ただ、これを持つだけでは意味がない。
このメダルに魔力を持つ人、蓮也くんや奥さん、大将に触れてもらって魔力を補充し、魔力が必要な場面で身体を触れる代わりにこれを押し当てれば普段の生活だと一週間は効果が持続する。
実際、魔力を分けてもらうのは5秒もかからず相手に身体的な負担をかけることはないのだけど、やっぱり遠慮はあるから生活に必要な時以外は節約を心がけてる。
でもひとり立ちした時、今のように人に頼るわけにはいかない。
魔力問題、本当になんとかしなきゃね。
毎日頭の隅に置いて暇があれば対策を考えているけど、答えが出ないままどんどん日が経ち焦っていた。
私の計画では、今は調理や接客の経験を積んで、あと1年でここを出て私はお店を持たなければならないから。
なぜ1年かというと、私がお世話になってる例の制度の支援プログラムにある『起業支援補助金』という助成金申請制度が関係してくる。
認定後から第一期、十五ヶ月間に申請し審査を通過すれば、半年後に事業を開始するための設備費や器具費、構築物費などの拠点費を全て出してくれ、不動産購入や賃貸の頭金の一部補助もつく。
それが第二期、第一期終了後から三年目の最終受付日となる認定日までになると、拠点費の五割を補助となる
つまり最初の一年の間なら、開業資金を最低限に抑えることが出来る。
ちょうど今日で認定を受けて3ヶ月だから、正確には1年と9ヶ月しかなくて、それまでに事業計画をたてて店舗も賃貸なら先に確保しとかないといけない。
申請してから結果が出るまでの賃料は自分持ちなんだけどね。
もちろん、この支援プログラムを利用する美味みは大きいけど、二年間はちゃんと経営を健全に維持しないといけないし、途中で辞めたら補助金は最低8割返済しないといけないし、毎年計画書を提出して、半年に一度抜き打ち視察が入る。
それでも、これが私がお店を持つ為に一番近道で一番確実な方法。
だから今は、ひたすら修行に励み少しでもお金を貯めてるところなんだ。
「はー。考えなきゃいけないことがいっぱいだよ。そのためにもそろそろアレをはっきりさせとかないと……」
青空に太陽がまぶしい午前10時。
ため息をつくなんてもったいないようないいお天気だ。
「よし、今日こそ行くぞーーー」
身体を思いっきり伸ばして空に向かって叫ぶと、三階の窓から蓮也くんがけげんそうに顔をのぞかせる。私は彼に見られる前にあわてて店の中に駆け戻った。
黒の膝上フレアスカートに、ベージュ地に紫の小花が散ったブラウスを着ると、黒いニット編みのロングベストを羽織る。
四月も終わりなのに、今年がそうなのかこの世界だからかは分からないけど、気温は低めで早朝は息が白くなる時もまだある。
それでも昼間は日があたるとしっかり暖かいのでこの格好で大丈夫なはず。
普段から化粧はしないので、唯一持ってるパールオレンジのリップを塗り、キャンパス地のショルダーバッグに仕舞う。
服や鞄は、着の身着のままでこの世界に来た私に八坂さんの妹さんや女将さんが古着をくださった。
服もやはり天然素材のものばかりだけど、デザインは見慣れたもので抵抗なく着れる。
私の好みからするとフェミニンすぎるのでそれを着るのは気恥ずかしいけど、それでもありがたく着させてもらってる。
ただ、せっかく箪笥がいっぱいなる程もらったものの、いつも店と部屋の往復ばかりで肥やしになっていたので、こうやってスカート姿で出かけるなんて上京以来初めて。
スースーして落ち着かない足元を気にしながら姿見の前で一回りして確認すると、階段を小気味良く階段を下り、玄関で続いている二階の大将宅のリビングに顔を出す。
「あら珍しい、英里ちゃんお出かけなのね」
「はい、ちょっと隣駅まで。見たいものがあって出てきます。夕方までには戻ってきますから」
「あらまあ、そうなの。一人で大丈夫?蓮也くんに声をかけてあげようか?」
「いいえ……今日は一人で行ってきたいんです」
「わかったわ。くれぐれも気をつけていってらっしゃいね」
「はいっ、行ってきます」
私は皮のショートブーツを履くと、スカートを翻し軽い足取りで外へと飛び出した。
店から徒歩10分の三鷹駅から、東京本線という魔法列車に乗る。
切符を買い人のいる改札を通るとホームへと向かった。
元の世界と東京の人口は全然違うせいか、列車を利用する人もそう多くない。
私も、東京へ出た時も、大将たちと出かける時も車移動ばかりだったので、実はこの列車に乗るのは初めて。
切符を買って改札から入ってすぐのホームで列車を待つ。
上りと下り、それぞれ20分に一本しか停車しない。快速なんて、1時間に1本だ。
幸いすぐに目的の列車が来たので乗り込み、閉まったばかりのドアにもたれ動き出した外の景色を見つめた。
吉祥寺まではたった一駅。ほんの数分の距離しかない。
私の生まれ育った同じ名前のその土地が、この世界でどうなっているのか。
それを知るのが今まで恐くて、三ヶ月間訪れる勇気が持てなかった。
よく知る三鷹ですら、駅はまるで地方の駅舎のように小さく、駅前のロータリーの上にかかる歩道橋もない簡素なそこを最初見た時、あまりのギャップに呆然とした。
もちろん駅前の銀行やビルやショッピングモールなんてものもなく、駅前の通り沿いに小さい商店が軒を連ねている。
吉祥寺だってこんな様子に違いないから、あまり驚かないようにと緊張する心をなだめた。
高架ではなく地上を走る列車の車窓には、住宅地が続いている。
家屋は元の世界とあまり変わらないように見えるけど、輸入住宅のような年季の入った洋風建築の家を沢山見かける。あと、高い建物が少ないかな。ビルも最高5階までしかないように見える。
どこか見慣れない景色に興味深く見入っていると、進行方向から駅が近づくのが見えた。
そしてその駅が予想よりは少し立派だったことより、その横に思いがけないものを見て、私は息を呑んだ。
信じられないことに、進行方向の右側、井の頭公園があったはずの場所から南東に向けて海が広がっていた。