36.作戦会議
事件があったのは、私がこの建物の存在を知る半年ほど前のこと。
中学生の少年がとある建物に不法侵入を試みた結果、中に踏み入れた途端に倒れ、謎の昏睡状態に陥るという事件の噂が広まった。
その建物がこの店で、昔から語り継がれた噂の一つ”呪いの家”の逸話は本当だったということになったらしい。
これが初ちゃんが聞いてきた噂。
驚いた私は、すぐにある人へ連絡をとった。ここの持ち主であるボースさん、ではなく彼の秘書のアレーナさんに。
この物件は本来ボースさんの所有する会社が管理しているのだけど、私が借りることになりアレーナさんが便宜を図って間に入ってくれることになった。
いつでも連絡するようにと貰った番号に夜分にと恐縮しながら連絡すると、相変わらず流暢な日本語で彼が出た。用件を伝えれば数分後には折り返し返答があった。仕事の速さにさすが敏腕秘書と舌を巻く。
少年が怪我をした件は、アレーナさんも報告を受けていた。
彼に同行し道路から見守っていた友人が警察に経緯を証言によると、建物の側を通りかかった時にふざけて塀を強引によじ登ったけれど、上に足をかけた所でバランスを崩して後ろ向きに落下。打ち所が悪く脳挫傷で意識不明になったらしい。少年の不法侵入で建物の管理に問題はなかったこと、加えて所有者が帝国貴族ということで、警察沙汰や訴訟などになることはなくこの件は穏便に片付けられたのだそう。
私はてっきり魔力漏れの影響のせいで体調を崩したのだろうと思っていたので、呪いの噂が立つのも当然だと受け止めていた。
もしかしたら塀から落ちる直接の原因に少なからず魔力漏れの影響があったかもしれないけど。
それにしても単なる事故ってほうが逆に本当の呪いっぽい気がする。
でもそれを口にすると初ちゃんが怖がってしまうので、私はアレーナさんから聞いたことだけを朱美さんと初ちゃんの二人に伝えた。
「じゃあ、きっとその仲間が吹聴した話に尾ひれ背びれがついて噂になったのよ」
「なあんだ。事故でそんな噂たてられるなんて、たまったもんじゃないな。あれ、でも噂は”呪いの家”なんだよね? じゃあなんで今”呪いの店”ってことになってんのかな」
朱美さんと初ちゃんが顔を見合わせて首をかしげる。
そう言われて見ればそうだ。いったいいつから噂の内容が”呪いの店”にすり替わったんだろう。
それに事故の後これだけ時間が経って、今更話題になる理由も分からない。
三人寄れば文殊の知恵と言うけれど、額を寄せ合い散々唸っても問題解決の糸口が見えてこなかった。
「ところで朱美さん、もう八時近いですけど時間は大丈夫ですか」
「あらやだ、夕食の支度もせずにここに来てたんだった」
青い顔をして席を立ち、慌てて店を飛び出そうとした朱美さんを私は呼び止めた。
そして厨房へ行くと、蓋付きの器に煮物やおひたしなどを適当に見繕って手早く詰めて、手提げ袋に入れる。
「よかったらこれ、今夜のおかずの足しにしてください。うちの店のために時間をとってしまって。ありがとうございました」
「あら、気を遣わなくていいのに」
「いえ、今夜もこの通りだから。でも作らないわけにもいかなくて」
私が首をすくめて見せると、朱美さんも苦笑しながら袋を受け取った。
「ありがとう、助かるわ。でも本当にあの噂はなんとかしなきゃね。英里ちゃんの料理、一度食べれば絶対好きになるもの。我が家みたいにね」
こういう一言が、今の私の胸にはすごく染み入る。
私は野田さんの時と同じように朱美さんを見送ると、彼女の後ろ姿に深く頭を下げた。
野豚野郎で修行していた時もだけど、店を始めた今も私の朝は早い。
市場まではさすがに自転車では距離があるので、大将にお願いして週に三日、早朝の市場への仕入れに便乗させてもらってる。
まだ仕入れる量は僅かだし、駅前の商店街の肉屋や魚屋、そして八百屋さんにお願いすればいいのだけど、勉強の為にね。
そしてお店で出すメインの食材である米は、群馬の八坂さんの所の氏子さんと出雲で紹介してもらった農家からの取り寄せ。
元の世界なら品種や銘柄などこだわりたいところ。
だけどツテで格安に分けて貰う立場なので、選択肢がほとんどない。というより、それなりに品種改良はされているといっても種類自体が少ない。
北の米どころ、新潟で生産される「黄金波」という品種が高級料亭ご用達米で一等米と呼ばれている。
ちなみに野豚野郎で使っているのは群馬産の二等米で、炊きあがりがもっちりして味の濃い「花露」。
うちで使うのは寒暖の差が激しい山間部に適した品種であっさりとした風味でやや大粒な「笹舟」と、西日本の定番品種で甘めで粘りのある島根産の「秋錦」。
市場ではどちらも三等米とされているけど、きちんと炊いてあげれば私でも満足の美味しさ。この二つを天気やその日のおかずの傾向から使い分けることにしている。
そうそう、花露は契約した米屋から定期的に精米したものが届いていた。でもうちは農家に直接卸してもらうから、小型だけど業務用の精米機を導入しなければならなかった。
もちろん、魔力のない私仕様にカスタムしないといけないから高くついてしまったけれど、その甲斐はあったはず。
長い目で見ると店で精米した方が安くつくし、何より勝手口の脇に設置した精米機で、毎日精米したての米が食べられる。分付きも好みで選べるし、出た糠も糠漬けなどに使えて嬉しい。
さて、お米の美味しい炊き方は基本に尽きると思う。
元の世界だと既にしっかり精米されているので混ぜるように研げばいいけど、ここのはぎゅっぎゅと米が割れない程度に力を込めて研いだほうがいい。そして何度か水を入れ替えて濁りがなくなれば終わり。
そして二十分程水に浸して二割ほど給水させたらザルにあげ、今度は四十分ほど水を切る。後は米と同量の水を入れて「始めちょろちょろ中ぱっぱ」で炊くだけ。
お米の炊き方は、幼い頃に料理の基本だと祖母にたたき込まれたし、祖母は家では羽釜で炊いていて、母は炊飯器派だったけど私が台所に立つときはお鍋や土鍋で炊いてたので、炊飯器のないこの世界でも不便はない。
大将の店では、完璧なご飯を炊いて見せた。
ところが、この店の厨房に立ってから調子が狂ってしまった。
新しい厨房で、腕慣らしにとさっそくいつもの手順でご飯を炊くと、何故かバサバサで食べれたもんじゃない。
精米したての新鮮なお米に、水は水道水を使う。炊飯に水は大切だけど、魔法で水質が完璧に保たれたこの世界の水道水は申し分なく美味しいお水。
新しいコンロで火加減に慣れていないのか、精米したてなのが問題なのか。
同時にお米だけでなく、日本茶や出汁をとる時もいつものような味や旨味がでなくてそちらでも随分悩んでいた。
そして一週間ほど試行錯誤した結果、原因は水だと気付いた。
料理教室のアシスタント時代に、生徒のセレブなお嬢さんからご飯をうまく炊けないと相談を受けた。結局、美容の為に海外から取り寄せた硬水のミネラルウォーターを使っていたのが原因だった。その時に聞いた状態に似ていることを思い出して、もしやと思った。
朱美さんにお願いして佐藤家の台所を借りると、野豚野郎と同じように炊きあがるし、美味しい出汁もとれる。コップに水を汲んで飲んでも味の違いを舌に感じられない。
同じ水道網の水なのに、どうして料理に違いが出るんだろう。
もしかして魔力漏れの影響かと思ったけど、ミカゲさんによるとそんな現象は聞いたことがないと言う。
にっちもさっちもいかなくなって大将に相談すると、聞いた話だがと前置きして教えてくれたのが「帝国レストランは、使う水の質を変えている所もある」ということだった。
本国の味を出すのに日本の水ではどうしても味が変わってしまう。それでより本格的な味を追求する店は、魔法で水の性質を変えて本国に近いものにしてしまうらしい。性質は硬水に近いけれど別物で、飲んでも違いはまず分からないんだとか。
そんなことまで魔法を使うって、なんて無駄遣……いや、食への飽くなき探求心ってすごい。
アリーナさんにお願いしてアルベルグのレストランの料理長さんに話を聞いてもらうと、昔は建設時に敷地内に引き込まれた水道管に魔法刻印を施す大がかりなもので滅多に出来ることじゃなかったけれど、今は蛇口に専用のリングをとりつけるだけ。費用はかかるけれど簡単に水の性質を変えることが出来るらしい。そして古い建物の設計図からも処置が施されていることが分かった。
このレストランの創業者でボースさんのお爺さんの料理人としてのこだわりに感心し脱帽しながらも、私は頭を抱えてしまう。
今から水道管を掘り出して取り替えることは出来ないし、ミカゲさんからも既に魔法の影響を受けた水を魔法の上掛けで変えることはかなり難しいと言われてしまったから。
そこでまたもや大将が助け船を出してくれた。
「精木石を使ってみろ。水の中に一晩浸しておくと、地上に湧き出した時の”清い水”に戻してくれる効果がある。水槽の水の浄化用が一般的だが、水場のない野外で料理をする時に水を持ち運ぶ容器に入れたりするんだ。魔法の影響も解除してしまうから使い方に注意がいるって但し書きがあったから使えるんじゃないか」
精木石というのは、太古に大木の姿に根を足のようにして歩き回っていた「精木」という魔物の死骸で、それが化石になったもの。全国の山間部で採掘されて珍しいものではなく、昔は火魔法の媒介として利用されていたけれど、帝国から伝来した現代魔法が普及してからは採掘もされなくなっていたのだとか。
それが最近になって火だけでなく水にも効果を持つことに注目が集まり、研究され色々商品化されているらしい。
さっそく観賞魚店で水槽の浄水用品として店の片隅で安く売られていたそれを買ってきて、半信半疑で使ってみると効果はてきめん。
汲み置いた水に煮沸消毒したそれを入れて一晩経ったものを使うと、理想的なご飯が炊きあがり、美味しい出汁もとれた。
手間だけれど、元の世界なら美味しい水を手に入れる為には買ったり遠出して汲んでこなきゃいけなかった。そう思えば、一晩汲み置くなんてたいした手間じゃない。
それにそのまま使えば美味しいコーヒーや紅茶が飲めるし、煮込み料理にも向いてる。
二種類の水が使えるなんてツイてる。様子を見に来てくれた大将に水晶のような透明感のある黒く角張った石を手にしてそう言うと、「調子に乗るなよ、お前は魔法のことや魔物のことを知らなすぎるんだから。自分であれこれやって考えるのも大事だが、聞いた方が早いし有効なこともあるんだからな」と拳で頭をグリグリとされた。
最近は、それが大将の照れ隠しのスキンシップだというのが分かっているので痛いけどニヤけてしまう。
「店長、吹きこぼれちゃうよ!」
「えっ」
目の前のコンロの上に乗せた鍋の蓋を蒸気が鳴らすのを見ながら考えに耽っていたら、突然後ろから声をかけられた。
あわてて振り返ると、厨房の入り口に初ちゃんが立っている。
「ああ、大丈夫。もう吹き出すほど水分がないから。ほら、くつくつと軽い音がしてるでしょう」
「ふうん。これって米を炊いてるんでしょ。麺を茹でるより面倒そうだよね」
「麺を作る所からを考えると、米を炊く方が簡単だと思うけど。今度初ちゃんも賄い用で炊いてみる?」
「あーそういうのは遠慮します。私は給仕担当です。そして店長の作る美味しいご飯を食べる担当」
「うちの店にそんな担当ありません」
軽口を言い合いながら時計を見れば、もう開店も間近の十一時過ぎ。
初ちゃんの勤務は午前十一時から午後八時までで、間に休憩が一時間。
今朝は早起きしたからと、いつもより少し早めに出勤して開店準備をしてくれていた。
彼女が背後からのぞいているのを感じながら、私は時計を見ながら私は火を止めるタイミングを計る。
コンロは魔法で火を発生させる仕組みになっていて、本来は火加減を魔力を込めた指先で微調整出来る仕組みなのだけど、うちのは点火はスイッチ、レバーの操作で火加減を調整できる仕様。
「いつ見ても、この店のにある機械って変なの。古い型ばっかで、触るだけじゃなくて押したりひねったりしないといけないし、どれも妙な線に繋がってるし」
「私仕様にしてもらうのには、旧型を使うか、一から作ってもらうしかなかったんだもの。それにその線は動かすための魔力を引いているこの店の生命線だからね。引っ張ったり切ったりしないでよ、お願いだから」
「分かってるって。店長も大変だよな。あたし、魔力を持てない生活なんて想像も出来ないや」
「私もまだ、この魔法の便利生活が馴染めないわ」
「店長、今まで本当に大変だったんだね……」
私のしみじみとした呟きに、初ちゃんから同情のこもった言葉と共にはげますように肩を叩かれてしまった。
彼女に働いてもらうに当たって、私が魔力を持っていないことは最初に伝えてある。
何しろこの建物は、しげるさんを始めとした職人さん達の手によって魔法を使わなくてもいい仕様になっているから。
今までいちいちペンダントを押し当て操作していたものが、元の世界の電化製品のように気軽に使うことが出来る。
さすがに店内のトイレはお客さんが困らないように一般的な魔法を使うものにしてあるけれど、灯りに空調、キッチンの道具に住居部分のトイレやお風呂まで、魔力変換装置から引いた魔力を使っている。
だからペンダントのお世話になることもなくてストレスフリー。
もちろん、外に出ると無力になるのでペンダントは手放せないけど、それへの魔力の補充も可能なので、誰かのお世話にならなくて良くなった。
そのぶん、我が家を訪れた人は決まって戸惑うのだけど。
初ちゃんもまだ慣れていないようで、うっかり魔力を流して「あ、間違えた」なんてつぶやいていることも少なくない。こればっかりは、申し訳ないけれど慣れてもらうしかない。
話をしながらも、鍋が無音になった後でチリチリと音がし始めたので、火力を上げる。すぐにパチパチと軽く爆ぜる音が聞こえ、そこで火を止めて蒸らしに入った。
お櫃の準備をし、初ちゃんに食器の準備をお願いする。
十分ほど経ち、そろそろ頃合いと蓋を開けると、白い湯気と香ばしく甘い香りと共に、透明感のある艶やかな白米が現れる。
しゃもじを入れてほぐし、見た目で申し分ない炊きあがりなのを確認しながらも一口味見。
今日は「秋錦」を心持ち固めに炊きあげたので、その白米は噛みしめる度にぎゅっと甘みが口に溢れる。熱々のご飯をはふはふと頬張りながら、その美味しさに思わず頬が緩み目尻が下がった。
このままお茶碗に山盛って、自家製のぬか漬けの胡瓜や茄子を乗っけて存分に頬張りたい。本日のおかずの、昨日のカレイを一夜干しにしたのと良く合いそう。
「店長、時間になったんで、開けてくるね」
誘惑に耐えて一口で我慢し、中身をお櫃に移した鍋を洗っていると、初ちゃんが店の入り口の扉の脇に「営業中」と書いた木札を下げに行った。
それが、みなと食堂の営業開始の合図。
といっても、すぐにお客さんが入ってくるわけではないのでしばらく二人きりの時間が続く。
カウンターの中で二人並んで来客を待ちながら、作戦会議が始まった。
「で、店長。例の対策はどうするの。何かいい考え思いついた?」
「庭の海側の木の塀があるでしょ。この建物って古いし煉瓦壁のせいで少し重苦しい雰囲気があるでしょう。あの木塀も自由にしていいと言われているけど、まだ傷みが少ないからそのまま残しておいたのよ。でもあれをもっと低く見通しを良くして、庭側の広い窓から店内が見えれば印象が変わるかなって。店内からも海が見えるようになるし。生け垣にしたり、低い塀にして明るい色に塗るといいと思わない?」
「それ、なんかわかる。あたしはこういう根暗っぽい建物の雰囲気って格好いいと思うし好きなんだけどさ。気軽に入れる雰囲気じゃないんだよね」
「ね、根暗……」
歯に衣着せない物言いが初ちゃんの良さで魅力。身も蓋もない言い方だけど、嫌な気は特にしない。だけどあえて頭を項垂れ肩を落として見せる。
そんな私を見て慌てて手や首を振りながら賢明にフォローを入れようとする初ちゃんの姿に、うっかり漏らしそうになった笑いを堪えた。
「ああ、ごめん店長。根暗じゃないや、陰気? ああもうっ、あたし馬鹿だからいい言葉が見つからないや。とにかくそんなかんじ。そうだ、じゃあいっそ海側にも入り口作ったらどうかな。今はそっちからだとここが店だって分からないじゃん? この海沿いの道って雰囲気良くて人がいっぱい歩いてる割に、並んでいるのは倉庫ばっかりだもん。店があるとそれなりに目立つと思うんだよ」
「なるほど、それは一理あるかも。じゃあ、こういうのはどうかしら……」
それから時計の針が十二時を指し野田さんと同僚が昼食を取りに来るまで、私達は「呪いの店」の汚名をいかに晴らすかについて熱く語り計画を練った。




