32.交渉
部屋の中に沈黙が流れた。
シラビノス氏は、口の端を吊り上げ、深い空のような透き通った青い瞳で私を見つめる。
彼の寛大というより傲慢な言葉に面食らったけど、不思議と怒りや反発は感じなかった。
つい今まで食事し、一方的ではあったけれど会話も交わした。そこまでコミニュケーションをとった相手に侮蔑するようなことを言って、私で遊んでいるのか、試しているのかとしか思えない。
どちらにしても、私が彼の興味を引いているのは確か。
なら、と控えめに笑みを浮かべながら、言葉を選びながら口を開いた。
「シラビノス様のような高貴な方が素性の怪しい私にお会い下さっただけでも身に余る光栄で、感謝しています。そんな私がこのようなことを申し上げていいか分からないけれど……先ほどのお言葉は本心からではないと思っています」
「勿体ぶった言い方は必要ない。なんだ、何が言いたい」
目の前の厚い唇が不機嫌そうに歪むのが見えたけど、気にせず言葉を重ねる。
「先ほどのお料理、とても美味しそうに楽しんで召し上がっていました。お話くださった帝国料理についてのご高説は大変興味深く、料理への造詣が深くていらっしゃることに感服もしました。その心をお持ちなら食材に、そして料理に貴賤はないことはご存じでしょう。料理人の腕だけでなく人柄や食べる環境によってその料理の味や印象まで変わってしまうことも。私なんて先ほどはせっかくの素晴らしい料理を口にしながらも、恥ずかしながらご一緒していることが恐れ多くて緊張のあまりほとんど味わうことが出来ませんでした。つまり、私を卑しい者とお思いならテーブルにご一緒して気持ちよく食事は出来ないのではないかと思うのです」
「ふん、変な理屈をこねて、ずいぶん都合良く解釈するものだ」
鼻を鳴らし嫌みめいたことを言いながらも、シラビノス氏は私の言葉を否定しない。
「恐れ入ります。確かに私のような者がこのアルベルグにとって由緒あるあの場所に店を出させて頂くことを懸念されるからこそ、その心づもりがあるか確かめる為にそんな心にも無いことを仰ったのでしょう? 寛大なシラビノス様は気になさらなくても、不満を持つ方がいらっしゃるかもしれません。私はお爺さまのレストランテがあったあの場所を貶めるようなことをするつもりもありませんし、このアルベルグに、そして所有者のシラビノス様の顔に泥を塗るつもりもありません。私は私の作る料理を出来るだけ色んな人に食べてもらいたい。それこそ流民の人たちから街の人たち、船旅の末にこの港町を訪れた人、そしてシラビノス様のような帝国の貴族の方々まで誰でもです。だからこそ誰もが気軽に入れる食堂なんです」
私はそこまで一気に言い切ると、そっと息を吸って空になった肺に酸素を送った。
背中には冷たい汗が滲む。綱渡りをしているような気分で、今度は私が長く沈黙するシラビノス氏の言葉を待った。
彼は手の平で頬の伸び始めた髭のそり跡をざりざりと擦りながら、しばらく考え込んでいた。
「あの場所だからこそか。後付な言い訳にも思えるが、悪くはないな」
重たげに開いた口から、まだ嫌みがかっていたけれど好意的にとれる言葉が飛び出した。
それに反応して口元に喜色を浮かべそうになったけれど、机の下の手を握りしめて堪える。
「正直、ここに書いてある料理にも多少の興味がある。我が広大な帝国内にも数多の米料理があるが、東京や埼玉の名店と呼ばれる料亭でも米料理が供されたが、確かに独創的な料理だった。だが特に注目するほどのものではなかったと思うが、それとはまた違う料理のようだな」
「確かに都市部や麦作が盛んな場所では、米は珍しい高級食材として扱われています。ところが産地では、地元の人々が通常の主食として口にしていて、昔はこの国も米食が一般的だったとか。私はそんな炊いた米をパンや麺と並ぶ気軽な主食として扱いたいのです」
「なるほど、確かにそういう店は確かに目新しいな。ふうむ、新たな日本の食様式を我らが作るのか。それも悪くないな。ふふん、いいだろう、あれを米料理の食堂にすることを許そう」
まるで、メニューから料理を選ぶような気軽さでそう言うと、シラビノス氏は大仰に頷いた。
「当分事業を広げる予定はなかったが、いい機会かもしれない。あそこに新たに店を建てようではないか。せっかくだ、帝国に滞在していた学生時代に学友達と通ったオステリア(居酒屋)風が庶民的でいいかもしれない。さっそく工事業者の手配をせねば。ああ、安心したまえ君はこれから店長だ。裁量は任せるから励むがいい。そのかわりしっかり評判の店になって店舗をげてもらいたいものだ」
「えっ、ちょっと待ってください。私は私の店を持ちたいのです。あの場所を貸して頂くだけで結構です」
狙いとずれた方向への急展開に慌てる私は、言葉を取り繕うことも忘れて叫んだ。
「何を言う。私が金を出してやると言ってるんだ。何が不満だ」
「あなたに指図されることがです。あの建物をお借りして、分相応に私がやりたいようにやる。それだけです」
「無礼な奴だ。誰に物を言っている」
「申し訳ありません。遠慮をしていては話が進まないようですので。お願いします。あの建物を貸してください」
私は、立ち上がり深々と頭を下げる。
ついさっきまで上機嫌だったシラビノス氏はどんどん不愉快そうになっていく。
さすがに言い過ぎたかもしれない。だけど、もう後私が出来ることはこれしかなかった。
「日本人はすぐこれだ。頭を下げればなんでも押し通ると思っている。帝国では慎ましく礼儀正しく遠慮深い民族だと言われるが、ただの頑固な民族なのに。全く」
「それで貸して頂けますか」
「駄目だと言えばどうする」
「……それは仕方がありません。あきらめて他所を当たります」
「なんだ、頭まで下げておいて、今度は簡単に引くのか」
「でも私の店でなければ意味がありませんから。私のあの目的の為には」
私はそう言って、はっと口に手を当てた。そして心の中で臍をかむ。
私が店を持つ本当の目的なんて教える必要はない。
それに、それはこの世界の人に知られる訳にはいかなかった。
元の世界の馴染みの料理を、「同郷の人」を探すための手段にしようなんてことは。
「では最後に、その目的とやらを聞いて判断しようか」
テーブルに肘を乗せ、組んだ手の上に顎を載せたシラビノス氏は、にっこりと悪魔のようなほほえみを浮かべる。
私は取り繕うことを捨て、どすんと音を立てて椅子に座ると彼を睨んだ。
私の視線と、シラビノス氏の視線が交錯する。
口先で誤魔化そうとしても、彼は私のような若輩が誤魔化せるような人じゃない。
ここに来てから、ずっとシラビノス氏のペースで、まるで手の平の上で踊らされているような気分だった。
今の私では、彼の優位に立てる気がしない。
身分や国じゃない、生きてきた長さ、人生の経験値の大きさの違いだった。
だから私に出来るのは、やはりこう言うだけだった。
「……極めて個人的なことですから。お話出来ません」
「ボース。彼女を虐めるのはそのくらいで許してやってよ」
突然、にらみ合う私達の横手の扉が開き、見るとアレーナさんと見知った顔がそこにあった。
金糸の葡萄唐草の小紋の散る濃紫の染紬の着物を着た女性、ミカゲさんの登場に、私は驚いて言葉が出ない。
シラビノス氏は笑顔でミカゲさんにかけより、彼女の手をとると甲に口づけた。
「ミカゲ、あなたが言った通り実に面白いお嬢さんだ。私を見据えて啖呵を切る度胸はあるくせに、感情が馬鹿正直に顔に出過ぎて駆け引きは上手くない。個人的には好ましいが、腹を探り合う商売には未熟過ぎるな」
「若いんだ、すぐに成長してくれるさ。それに帝国の暴牛と呼ばれるあんたと正面から立ち向かっただけでもたいしたもんじゃないか」
「その呼び名はやめてくれ。暴牛なんて品がなさすぎて私には似合わない」
「何言ってんだ、”ボース(牛)”って名前のくせに。じゃぁ、ミノタウロスがいいかい。最近、総督府に苦情が入ってるらしいよ。高尾山麓のあんたの別荘付近で遭難者が続出してるって。あのご自慢の馬鹿でかい迷路のような庭園、全部刈り取っちまいな」
「なんて乱暴なことを!せっかく本国から庭園設計士を呼び寄せて作り上げたというのに。だから一度実際に見にくればいい。あの壮麗で芸術的な庭は、帝国内でも素晴らしいと評判なんだ」
シラビノス氏はミカゲさんの言葉に眉一つ動かすことなく、口にする内容とは裏腹に二人は穏やかな顔と声で言葉を交わす。
そして彼は優雅な足取りで彼女をエスコートし、私の横の椅子を引いて彼女を座らせた。
「ミカゲさん、どうしてここに?」
私がまだ半ば呆然としながら尋ねると、ミカゲさんは机の下で私の手を握った。
その手は温かく、私を安心させるかのようにぎゅっと力が込められる。
彼女の眼鏡越しに私を見る目は、穏やかで力強かった。
「今朝、ルリが英里に会うと言って出かけたからきっとここに来るだろうと思ってね。別件でここに用があったしアタシも付き添いで同席しようと来てたのさ。それをこの男がまず二人で会いたいって駄々をこねてね。だから一人しかここに入れなかったろ。アタシも下のゲストルームで待たされていたのさ。食事をするだけと言っていたのに、まさかこんな試すようなことをするなんて。この外道牛が」
「やっぱり私、試されていたんですか……」
私はがっくり肩を落とした。そういうこともあるだろうという考えが常に頭の隅にあったけれど、傲慢な帝国貴族という面を向けられて、つい頭に血が上ってしまって馬鹿正直に取り合ってしまった。
急に恥ずかしさと居たたまれなさがこみ上げる。
「それは誤解だよ、ミカゲ。確かに試すようなことは言ったが、それはお嬢さんの人となりを見たかっただけだよ。興に乗りすぎて、いくぶん口が過ぎてしまった。許してくれ」
「じゃあ、あの店は英里に貸してくれるんだね」
「いやでも、あの土地が使えるのなら場所が場所だけにもっと儲けになる使い道を考えたい。もちろん、お嬢さんには責任を持って適当な場所を格安で貸すよ」
私と二人きりだった時の威勢はどこへやら、シラビノス氏は、ミカゲさんの機嫌を伺うように彼女を見つめながら訴える。
「ああ、あの場所について報告しなきゃいけないことがあった。ボース、あの家の魔力漏れだが、やっぱり完全に封じるのは無理だよ」
「ミカゲの力を持ってしても、か?」
「実は呪陣で完全に封じるのは手間はかかるが難しくないんだよ。だがそれをしてしまうと、行き場を失った魔力が周囲に漏れて悪影響を与えることになるんだ」
ミカゲさんの説明に首を傾げていると、彼女が「アリの巣の入り口をふさぐと、別の穴から這い出してくるだろ」と分かりやすく言い直してくれた。
「じゃあやはりあの土地はどうしようもないということか」
「ええっ、じゃあ私が借りても使えないってことなんですか」
私とシラビノス氏が頭を抱え呻く姿に、ミカゲさんが人の悪い顔で笑う。
「ところが、これは英里には朗報でもあるんだよ」
「私に?」
「ボース、英里はね、魔力障がいを持っていて魔力を保てない身体なんだ」
「書類の中に障がい者控除証明書の写しが入っていたよ。魔力障がいだからあそこに平気で住めるということか。でもそれでは店に客が入れず本末転倒だ」
「話は最後までお聞き。魔力漏れは出口を作ってやるならコントロールは出来る。つまりその魔力をうまく活用してやればいいってことさ。私の魔法刻印だけじゃ難しいが、腕ききの職人が協力してくれるって言うんでね。そしてそれが完成すれば、英里は魔力を活用出来るってわけだ」
「ミカゲさん、腕利きの職人って、もしかしてしげるさんですか」
「そうだよ。しげちゃんが、依頼の件もこれでなんとかなりそうだって言ってたよ」
ミカゲさんは私にウィンクをひとつすると、笑みを浮かべながら続ける。
「もちろん、賢明なるミノタウロス氏はその利用できる魔力をもっと金になるものに使いたいと思うはずだ。だろう? だけど、もっと美味しい話があるんだよ。聞きたいかい?」
問われていない私まで、シラビノス氏と一緒に頷く。
「漏れ出す魔力はそのままじゃ魔法道具に使えない。その変換用の魔法刻印は昔からあるけれど、同時に大がかりな装置が必要なんだ。漏れる魔力量からすると、普通ならあの土地まるまる使っても少し足りない規模になってしまう。おまけに、変換した魔力を溜め込むと魔力暴発事故の危険もあるしね。それをその場で使うなら事故の危険も回避できる。そしてアタシらなら庶民の庭の物置程度のサイズに出来ると言ったら?」
「ミカゲ、それは本当か? もしそれが本当なら大変なことだよ。現在の魔力転換装置は、帝国技術の粋。それをこの東端の小国が超えるなんて。その技術供与はしてもらえるんだろうね」
「あんた次第だね。アタシ達は出来た後のものが皆に役立てばいいと思っている。もちろん技術を独占して不当な利益を得るようなことはしないと信じてるよ」
「もちろんだ。私だって帝国貴族の一員。その技術は日本、そして帝国の為に広く役立てさせてもらうつもりだ」
「ならよかった。それとこれはそこを借りる彼女の為にって前提だ。それに私達は彼女の為でなけりゃ興味はない。いいかい、シラビノス様」
「ああもう、貴方がそう呼ぶのは勘弁してくれ、魔女殿。わかったから。あの場所は彼女に貸す。もちろん純粋に貸すだけだ」
「シラビノス様、本当ですか?」
二人のやりとりにただただ圧倒されていた私は、彼の出した結論を聞き、思わず椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると身を乗り出した。
「お嬢さん、その呼び方はもう良いよ。私のことはミカゲと同じようにボースと呼んでくれたまえ。この魔女殿には昔から頭があがらなくてね。腹は決めたよ。お嬢さん、いや、私も英里と呼ぼうか。君とは長い付き合いになりそうだな」
シラビノス氏、ボースさんはそう言うと立ち上がって私の側に来ると片手を差し出し。
私も恐る恐る手を差し出すと、すかさず彼の手入れされた手に掴まれ、長い間固い握手を交わした。
「そういえば、お二人とも随分親しいみたいですけど、昔からのお知り合いなんですか。ルリちゃんから仕事上の付き合いだと聞いていたのですが」
いくら親しいと言っても、帝国貴族相手にさすがに聞いてる方がヒヤヒヤしてしまうミカゲさんの態度。さっきからずっと二人の関係が気になって仕方が無かった。
場が和んだ所で投げかけた私の質問に、ミカゲさんとボースさんは顔を見合わせる。
そして照れ隠しのように口を尖らせそっぽを向いたミカゲさんの代わりに、ボースさんが苦笑しながら教えてくれた。
「英里、ミカゲと私は元夫婦なのさ。二十年ほど前に数年間だけだがね。両家に反対されてね、印度まで駆け落ちして一緒になったんだ」
「余計なことまで言わないでよ。英里、このことはルリには秘密だからね。あの子が生まれる前のことだから教えてないんだよ」
まさかの二人の関係に驚きすぎて、私は目を見開いたまま何度も頷くことしか出来なかった。




