27.良薬口に苦し、そして臭し
ふう、疲れた。
そんな思いを込めた溜め息をつくと、ボコリと鼻先で気泡が弾ける。そして肺の空気が尽きかけ、息苦しさにあわてて鼻下まで湯の中に沈めていた顔を上げた。
この家のお風呂は、大将夫婦が引っ越した時に店舗だけでなく住居部分も改装したらしい。そのお陰か大将のサイズに合わせたのか足を伸ばしても余るくらいに湯船が広くて嬉しい。おまけに、まだ昼過という明るい時間にお風呂にのんびり浸かるって、ほんといつぶりだろう。
昼風呂なんてこの世界に来てからはもちろん、元の世界でもほとんどなかったから、なんだかとっても贅沢な気がする。
今日は朝から女将さんと出かけ、昼前に戻って蓮也くんの側についていると、女将さんにお風呂に入って一息つきなさいと命令された。
冬晴れのお陰で朝は気温も冷え込み、それからずっと冷たいままだった手足が湯の中でじんじんと痺れていたけど、ようやく芯まで温まってきた。
お尻をずらして顎先まで浸かると、私は眼を閉じて湯に身体を任せるよう身体の力を抜いて、朝のことを思い出した。
「それは難しいですね」
「そこをなんとか、出来るだけ早く次を決めますから」
「花沢さん、急なことで大変なのは分かりますが、この審査スケジュールでは今月十五日が締切りです。それまでの変更手続きは可能ですが、書類の提出日は変えることが出来ません。締切り後は申し込みの書類審査が行われ、不備書類は返却し再提出を求めます。これはあくまで記載ミスや資料の添付漏れが対象ですが、十日以内に再提出して頂くと、後日予備審査で追加審議されます。要件を満たしていない理由で返却したものの再提出や締切り遅れての提出になると二次申し込みとしての扱いとなります。これは前に資料でお渡ししているはずですが」
朝八時半、池袋にある通称旧都庁の扉をくぐった私は、流民課の窓口を訪れた。
まだ眠そうにあくびを噛み殺す受付の職員に指定されたブースに行き、パーテーションで仕切られた四脚の椅子と机でいっぱいのそこで座って待っていると、ほどなくして見知った担当者が現れた。
担当は、黒髪をぴっちりと七三分けにし皺一本ないシャツに濃紺のチョッキを着た、見るからに生真面目そうな山本さん。その彼が、ピカピカに磨かれたペンの先で書類の注意事項の部分を示した。
「ええ、前回説明して頂きました。それで今回困ったことになってしまって。ここは詳しい方にご相談するのが一番だと思ったのです」
ご相談という言葉に山本さんの眉尻が少し下がる。ここでもう一押しと、肩を落としたまま上目遣いで訴える。付き添いという形で私の横に座る女将さんは、心配そうに私と山本さんのやり取りを見守っていた。
「ずっと、今回の申し込みのために準備してきたのです。今から物件を探しても、すぐに開業出来る適当な店舗を見つかるかどうか……」
「ふうむ、そうですか。私の一存で可能なら時間を差し上げたいところですが、十五日で締めた書類は私から上役に提出するので、それ以降の審査に関してはどうも出来ないのですよ」
山本さんの眼が泳ぎ、ちらりちらりと女将さん掠めると口元が緩む。
華紺色のコートを脱いだ女将さんは、薄いベージュの千鳥格子柄のワンピースに白色の柔らかそうなカーディガンを羽織って、ベージュのリボンのついたカチューシャをつけ、まるで山の手のお嬢様。
こういう時はきちんとした格好をしたほうがいいのよと張り切っていたけれど、クラシックのコンサートや高級レストランに行くようなきちんと違いの格好で、明らかにこの場では浮いて特に男性職員の眼を集めていた。
ちなみに私は髪をアップにまとめ、無難に襟にレースのついた黒いシャツにグレーのパンツスーツでキャリアウーマン風。この姿で並ぶと年下に見えてしまう女将さんからは、地味すぎて可愛くないとがっかりされた。この世界でも私のほうが場に適した格好のはずなのに、周囲や山本さんの反応を見ていると女将さんの方が正しかったように思えてきて怖い。
ともかくここは使えるものは何でも使おうと、心の中で女将さんのもう一押しを期待する。すると無事通じたのか女将さんがいいことを思いついたといったふうに明るい顔で言った。
「ねえ、もし提出した契約物件が、今回みたいなやむを得ない事情で契約が取り消された場合はどうなるのかしら。とりあえずあのビルの住所を書いて、改めて契約資料を付け忘れましたってことにしたらどう。それなら時間を稼げるわっ」
女将さん、役所の人にそういう提案をするのはまずいです。
あわてる私の前で、山本さんは女将さんの笑顔に鼻の下を伸ばしかけ、我に帰ると咳払いし苦い顔で返答した。
「付き添いのお嬢さん、必要書類は、受付時に揃ってるかどうか確認しますから、契約書がない時点で受け付けられませんよ。そうですね、提出後にそういったトラブルがあった場合は審査委員会が物件所有者に問い合わせて事情を確認した上で、一ヶ月の審査保留期間を設けてその間に新しく他の物件を探していただくという事例は確かに過去にありました。ですが花沢さんの今回のケースですと、残念ながら契約を交わす前の段階だということですから適応されませんね」
「あらぁ、そうなの」
「ああでも——」
山本さんは、しょんぼりと肩を落とす女将さんを見て、慌てたように付け足した。
「締切りまでに申し込みを提出して頂くまでの経緯は、審査委員会は知り得ることが出来ません。私の方からは詳しくは申し上げられませんが、先程申した事例もあるということを覚えておいて頂ければ……とにかく、十五日までには必ず提出してくださいね」
女将さんは可愛らしく首をかしげたが、私は山本さんの言っていたことが理解できたと思う。これ以上は押しても無駄そうだし女将さんがこれ以上余計なことを口にする前にと、時間をとってもらった礼を言って席を立った。
「とにかく十五日までに何かしら物件を見つけなきゃ、かぁ」
私は湯気の立ちこめる天井を見上げてぼやいた。
今一番の問題は、今まだ物件の当てがないこと。山本さんが暗に言いたかったのは、とりあえずで良いからどこか決めて提出しろってことだと思う。変更理由はこちらではなく契約先に問い合わせがあるという忠告までしてくれた。
あまりに目的にそぐわない物件だとそもそも審査時に落とされてしまうだろうからそれなりのものを見つけないといけないとはいえ、契約優先で決めた不本意な物件のまま店を開く心配が減り心が少しだけ軽くなった。
それに私は高望みし過ぎてたのかもしれない。
せっかく店を出すのだからと、立地や建物、価格、そのどの条件をも満たすものをと、理想を形にしようとすることに夢中になりすぎてた。何を欲張っていたんだろう。
私は自分の脚の上で揺れる湯を手で掻き混ぜると、窓から差し込む光が湯面できらめく。
家賃優先で、立地が悪いなら人が来る工夫をすればいい。建物が気に食わないなら、手を入れたりコンセプトに変更を加えてもいい。今一番大事なのは、私の店を出すことなんだから。
そう考えると、私は過去に調べて条件に合わないからと除外した物件が詰まったあの帳面が急に大事な宝箱のように思えてきた。まだ、募集中のものはどれだけ残ってるだろう。
今すぐにそのリストを見直したくなった私は、勢い良く湯船から立ち上がった。
「ひっ、ひゃぁっ、大将何をする気ですか。女将さんもその笑顔怖いっすよ、それにめっちゃ臭いっす」
風呂からあがった私が濡れ髪をタオルで拭きながら階段をあがると、蓮也くんの部屋の扉が半開きになっていた。中から蓮也くんの泣きそうな声と異臭が漏れている。
中を覗くと、布団から這い出し壁際に追いつめられた蓮也くんが、壁のように立ちはだかる大将と横に並ぶ女将さんに見下ろされている。
「あの、皆さん何してるんですか?うわっ、臭いっ」
ドアの中を覗き込んだ途端一段と強烈に異臭が鼻を襲い、思わず顔をしかめ一歩下がってしまう。
そんな私に蓮也くんが助けを求めるすがりつくような目で私を見た。グレーのスエットズボンの股の間で同系色の太い尻尾が丸まっていてまるで怯える犬のよう。蓮也くんのお尻に生えた尻尾は意図して動かせるものではなく、感情と直結し勝手に動くのだそう。
「英里ちゃん、ちょうど良かったわ。今から蓮也くんにお薬を飲んでもらうのだけど手伝ってくれる?」
「いいですけど、とりあえず窓を開けましょうか」
「ううん、ご近所を騒がせてもいけないから、それはこれを飲んだ後からでいいわ」
女将さんが、ピンセットでつまんだものを私に見せた。
「それって例の薬ですか? それにしてもすごい臭いですね、それ」
「このクセェ中でよくそんな喋っ、うえっぷ。無理無理無理! そんなの口に入れるなんて無理っす」
確かに堪え難いほどの臭いだけど、それでも部屋にいられないほどじゃないと思う。
恐らく、獣相のせいで臭いにも普通の人より敏感になっているのかもしれない。蓮也くんがえずきながら涙目になって必死に顔を背けている、女将さんの持つそれは、お正月のお節に入るような丹波の黒豆に似た、大粒の黒く艶やかな丸薬だった。
そしてその丸薬は、漢方薬のような様々な生薬の臭いに加えて温泉のような硫黄臭、濡れた犬のような獣臭、腐った蜜柑の臭いといった、鼻だけでなく身体が拒否してしまいそうな臭いをこれでもかと発し、まるで森の奥の腐り澱んだ沼のほとりに立っているような気分にさせる。
この丸薬は、役所の帰りにせっかくだからと王子まで足を伸ばし、石動医師の話に出た王子稲荷で貰ってきた憑き物落としで、『獣呪解丹』という名が袋に書いてあった。
祖母に連れられて行った記憶のあるそことは違い、この世界の王子稲荷は仰々しいほどの派手な、いや壮麗な朱塗りのお社だった。
まずはお参りをして、神様への挨拶と共に蓮也くんの快癒祈願をすると、私達は脇にある社務所へと向かった。
おみくじやお守りやお札が並ぶ社務所の一画に「呪薬・呪札処方」という木札が下がり、退屈そうに座っていた目尻に朱を差した整った細面の巫女さんに石動医師からもらった処方箋を渡すと、脇にしつらえられた待合室へ通される。
すれ違う巫女さんも、奥から三方を掲げながらやってきた神主さんも、皆細面で目尻があがり気味で雰囲気が似ている。皆血縁なのかなと思いながら、女将さんと談笑する神主さんを見ていた。
この神社が祀る神は、御饌津神の眷属の白狐神で東国三十三ヶ国の狐の総代でもある王子稲荷狐なのだそう。
さすがに今回は参拝者や同じように待合室で待つ人も多く、神様と遭遇することなくすぐに獣下しを手に入れて神社を後にした。
ちなみに、袋の口は呪文のようなものが書かれた札で封じてあり、よもやこんなすごい臭いのするようなものが入っているなんて知る良しもなかった。道理で、飲ませる直前まで決して袋を開けないようにと念押しされるわけだ。
肌に触れれば、洗っても数日は臭いがとれないに違いない。
それより、、お風呂上がりなんだけど……後でもう一度シャワーを浴びるはめになったことに溜め息をつきながら、私は後手にそっと扉を閉めて異臭の被害がこれ以上広がらないようにした。
「ひっ、やっぱり、やっぱりそれ飲まなきゃいけないんっすか」
「蓮也、お前、このままずっと尻にそんなもんぶら下げておく気か。男なら根性見せろや」
大将が有無を言わせず蓮也くんを太い腕でがっちりと拘束する。
まるでプロレス技をかけられるように首から頭をがっちりと固定された蓮也くんの口元に、女将さんがピンセットの先のそれを近づけると、ずっと床に伏していてうっすら髭が浮いた蓮也くんの口元が頑固に閉ざされた。
「英里ちゃん、おねがい」
「はいっ」
女将さんの指令に私は側へ駆け寄ると、片手を蓮也くんの頬にそっと添え、おもむろに鼻をつまんだ。
「んんっ、んーーーーーーっ!ぶはぁっ! ぞんなびぎょうだ……ぐぁっ、うぐっ」
鼻をつままれ息が続かなくなった蓮也くんが、水から上げられた金魚のようにパクパクと口を開いて空気を貪り抗議の声をあげた瞬間、その口奥に女将さんが獣呪解丹を放りこむ。
阿吽の呼吸で大将が大きな手で口をふさぎ、私は暴れる蓮也くんの鼻を懸命につまみ続けた。
そしてゴクリと喉が鳴りのど仏が上下すると、女将さんの合図で私と大将は手を離した。
「うげっ、苦っ、げほっ、苦すぎる……水、水を……」
涙目でゲホゲホと咽せる蓮也君に女将サンがお水の入った大きなグラスを渡すと、あっという間に空になる。
私は興味深く薬を飲んだ蓮也くんを見守っていたけれど、水を飲み干して人心地ついたのか、薬の臭いそのものな派手なゲップを二つしただけだった。
途端に再び獣呪解丹の臭気が周囲に立ちこめ、私はたまらず急いで窓を開ける。
寒風が吹き込み、蓮也くんは慌てて布団に飛び込む。私は寒さに身をすくませながらも、新鮮な空気が嬉しくて窓から顔を出し深呼吸した。
「薬飲んだんだからもう大丈夫っすよね?この尻尾消えますよね」
布団から顔をのぞかせ未だ涙目な蓮也くんが不安げに問いかけると、大将が頼もしく頷いてみせた。
「おう、あと数日の辛抱だから長い正月休みだと思って大人しくしてな」
「うぃっす。大将、仕事休んじまって色々迷惑かけて申し訳ないっす」
「なったもんは仕方ねえよ。それをいかに早く治すかがてめぇの才覚になるんだ」
「じゃあ、蓮也くんが早く元気になるように、何か美味しいものを作らなきゃね。昨日から何も食べてないからお腹が空いたんじゃないの」
「女将さん今は無理っす。この臭いが残ってる間は何も食える気がしないっすよ……」
悲しげにつぶやく蓮也君に、私達は苦笑した。確かに自分達もこの中で食べ物のことを考えたくない。
「熊ちゃん、この部屋はしばらく換気をして、蓮也くんはその間別の部屋で寝てもらいましょうか」
「ああ、そうだな。落ち着かないかもしれないが、リビングのほうがまだましだろう」
「あの、よかったら私の部屋を使ってください。私はどうせほとんど部屋にいないし、一晩くらいリビングで寝ても平気ですから」
蓮也くんは女の部屋で寝るなんてと全力で遠慮していたけれど、大将の鶴の一声で異動先に決まった。部屋はそのまま換気して臭いのついたシーツ類や服は洗濯することになり、そして何より先に全員順番に身体についた臭いを落とす為に風呂に入った。
今日二度目の入浴の後でリビングをのぞいた私は、キッチンを思案顔でうろうろする女将さんに声をかけた。すると、悩ましげな顔で溜め息をついた。
「どうしたんですか」
「さっき蓮也くんに何が食べたいのか尋ねたら、鶏の生肉が食べたいなんて言われて困ってしまったのよ。多分獣憑きの影響なんだと思うけど、さすがに体力も落ちてる今、そんな食事はねぇ。石動先生に連絡して相談したら、ただの欲求だけだからいつも通りのものを食べさせればいいと言われたのだけど。英里ちゃん、何かいいお料理はないかしら」
「うわ、鶏肉で生っていかにも狐ですね。うーん、狐といえばやっぱり鶏……狐……。あっ、女将さん、私が蓮也くんのご飯を作ってもいいですか」
妙案を思いついた私は、女将さんに代わって台所に立った。今から準備をして、店の仕込みが終わった後に仕上げをすれば充分間に合う。
冷蔵庫の中から目当てのものがあるのを確かめると、さっそく水を張った鍋を火にかけた。




