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みなと食堂へようこそ  作者: 庭野はな
開店準備編 第5章:尻尾といなり寿司
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26.オサキギツネ

 私と同じ六畳に押し入れのついた部屋には、オーディオセットや何の用途のものか知らない機材が並んでいる。そしてその横には料理だけでなくバイクやグラビア雑誌が部屋の隅に無造作に積み上げられている。

 そんな男の子らしい部屋の真ん中に敷かれた布団の中で、大将の手でパジャマに着替えさせられた蓮也君は丸まって寝込んでいた。


 四十度近い高熱があるにもかかわらず、寒そうに歯の根を鳴らし震えている。

 どうにかしてあげたいけど、熱があがりきるまではどうしようもない。

 枕元に座った私は、少しでも楽になればと店からとってきた氷の塊の浮かぶ盥でタオルを搾り、こまめに取り替える。

 替えついでに紅潮した頬にそっと触れてみると、冷水で冷えた手には燃えるように熱く、ぎょっとして手を離してしまった。

 その熱さはさっき自分を抱きしめてきた蓮也くんの身体の熱さを思い出させ、私の顔まで火照ってくる。

 さっきのあれはなんだったのだろう、まるで箍が外れたみたいだった。あのいいかけた言葉の先は……もしかして蓮也くんは私のことを?


 薄灯りの下でこちらを向いた苦悶する寝顔を見ながら逡巡していると、胸が甘く小さく疼く。

 そんな私の前で、苦しいのか唸りをあげると身をよじり、ずれ落ちてしまったタオルを戻した。

 

 そうしてるうちに、往診にきた呪科医の石動医師が、女将さんに案内されて部屋にやってきた。

 石動医師は背が低くてずんぐりしていて、赤いダウンコートを着ているとまるでダルマのように見える。そんなごま塩頭の中年医師は、横に張り付いて看病してる私を見て眉をひそめた。


「なんて無防備な。憑き物が出た時は興奮状態になって奇行の症状が出ますからな。ちゃんと処置をする前に、側に年頃のお嬢さんを置くのは気を付けたほうがよろしい」


「すみません、先生。私達身内が憑かれたのは初めてだったものですから……それにこの高熱ですから誰かが側にいなくてはと思って」


 女将さんが苦笑しながら頭を下げる。

 その横から私が口を出すのはと躊躇しながらも、尋ねずにはいられなかった。


「奇行ってどういうことなんですか」


「ああ、妄言に不道徳な行為、大食からはじまって悪食、他にも本人が普段絶対しなさそうな突拍子のないことをするのが獣憑きなんですよ。主な症状は、高熱に興奮状態からの奇行、そして体中に獣相が広がっていきます。ひどくなると治りも遅い。お嬢さん、もし彼に何か言われたりされたりしたのならすぐに忘れてあげなさい。憑き物は本人の意識を乗っ取って、でたらめに身体を操るんですよ。それは内面心理や潜在意識とは関係ない行為だと研究で立証されとります」


「本人の意志とは関係ない……そう、なんですか」


「もういいかね。さあどれ診てみようか、ちょっと失礼するよ」


 コートを脱ぎながら私の質問にさらりと答えた石動医師は、席を譲った私のかわりに布団の横に座ると、勢い良く上掛けを毛布ごとめくった。

 外気に晒された蓮也くんの身体に、鳥肌が浮くのが見える。

 女将さんが、せめて足だけも冷えないようにと布団を戻そうとすると、短い指のついた手が止めた。


「少しの間ですからそのままに。全身を確認して獣相の度合いを診察しないといかんのですよ。失礼だが女性は後を向くか外に出ておいてください。あんた達が平気でも、この子は見られたくないかもしれんからな」


 もっともな言葉に私達は顔を見合わせ、終わったらすぐに呼んでくださいねと大将を残して部屋を出て廊下で待った。

 そして、内から呼ばれ再び部屋に呼ばれた時には、五分ほど経っていた。


 石動医師はカルテに色々と書き込んでいる最中で、先程と同じ部屋の端に座っている大将の表情は少し柔らかくなっている。


「先生、蓮也くんはどうですの」


「奥さん安心なさい。今熊さんにも説明したが、どうやらまだ尾の発現と爪が少し伸びた程度。これならここですぐに処置をして、治りも早いでしょう」


「ほんとですか、まぁ良かった」


 朗報に、私と女将さんは安堵の息を漏らす。


「もっと獣化が進行していれば、すぐに大きい病院への入院を薦めますがこれなら必要ないでしょう。おっと、まだ診察は全部終わっとらんのです。肝心なのはこの子が何に憑かれているかということですが、皆さんは何か変わったことに遭遇したとか聞いてはおりませんでしたか」


 私と大将は揃って首を横に振り、女将さんが、お昼に茨城の実家から戻ってきたと伝えた。


「茨城……そしてこの獣相ですか。ははぁ、だいたい分かりましたぞ。だが念のため調べますがな」


 口端を引きあげた石動医師は鞄から風呂敷包みを取り出すと、それを開き両手のひらほどの大きさの桐の箱を横に置いた。箱を開けると中から銅鏡を取り出した。

 背に尻尾を加えた大蛇のような文様が見えたと思った所でそれは返された。磨き抜かれた鏡面が上を向くと、天井灯の光を返し眩しい。


 石動医師は、蓮也くんに鏡面を向けると何事かをつぶやき、持ち直した鏡面を覗き込むとうんうんと頷いた。

 私たちは中腰になって首を伸ばし、石動医師の肩越しにそれを覗き込む。すると先ほどは鮮明に映していた鏡面の中がどんよりと霧のようなもので覆われ、その上に濃くすった墨の字で、象形文字のような三つの図が並んでいた。


「それは魔法ですか」


 好奇心が押えきれず私は尋ねるが、石動医師は待ちなさいと言って、手元のカルテにそれを写し取る。

 そしてペンを置くと私の方へ向き直り、小粒の白い歯を見せて笑った。


「お嬢さん、私は医者で魔法使いじゃないからね。帝国式の現代医療の時代になって医師になる者が行うヒポクラテスの誓約は有名だが、我ら呪科医は昔ながらの古医術の流れを汲み大穴牟遅神(おおなむじのかみ) に誓いを立てる。残念だが世間ではあまり知られていないからよく勘違いされるんだ。崇敬者というより神職の一つという位置づけなんだ。我々には、患者の診察や処置の為に神の力の一抹をお借りすることが許されていてね、これは照魔鏡といって憑き物の正体を知る事が出来るんだ。正体といってもこの鏡では通名がせいぜい。力のある鏡だと真名を知り対象物を操る事まで出来るんだが、町医者の私にはこれで充分でね」


 そう言って、石動医師は鏡に浮かび上がったものをよく見えるようにこちらに向ける。名というからにはやはり文字なのだろうけど、日本語とも帝国語とも違う私にはさっぱり読めない文字だった。

 それを横にいた女将さんが真剣な顔でそれを覗き込むと、読み上げた。


「これは……おさき……ですよね」


「これは驚いた! 奥さん、神代文字が読めるのですか」


「ええ、結婚前に巫女をしていましたので、出雲文字なら少し嗜みがあるんです」


「なんと、美人妻というだけでけしからんのに巫女さんとは、なんてなんて羨ましい妬ましい……」


 一番近くにいた私は、石動医師が宙を見つめながら口の中で小さくつぶやく内容が聞こえてしまった。

 幸い女将さんにはその声は聞こえなかったようで、未だ不思議そうに文字の浮かぶ鏡を覗き込んでいる。


「でも読み方は分かってもそれが何かは分からないのよね。教えてくださるかしら」


 石動医師は自分の突き出た腹を叩いて気を取り直すと、私達に説明を始めた。

 

「オサキというのは関東地方の山中に出没する小型の妖狐でオサキギツネのことです。ほらこの獣相の尾をごらんなさい、よく見ると先が二股に裂けたように別れてるでしょう。オサキは普段は人を嫌い静かな所で暮らしてるんですよ。だから性質に害はないんですがね、驚くと防衛本能で相手に取り憑いくといったやっかいな習性があるんです。群馬や山梨はともかく、人口の多い埼玉、茨城、千葉の三県では個体数はかなり減少してるそうですよ。しかも、都内でこの症例にお目にかかるとはほんと珍しい」


「都内で憑かれているのがどうして珍しいんですか」


 私は首を傾げながら質問した。

 山中に出没というけれど、この世界はビルが立ち並ぶ都会でも、街路樹が豊富で、木々の生い茂った雑木林や公園が至る所にある。

 野生の鳥や狸やイタチなどをよく見かけるほど自然に富んだ環境なだけに、周辺地域にいる魔物なら東京にいてもおかしくなさそうだけど。


「お嬢さん、魔物たちにも縄張りや格というものがあってね。特に狐や蛇などは上級のものになれば神にもなる。この東京の北区には、関八州稲荷の頭領の王子稲荷があるでしょう。東京が首都だった頃の名残でそこが睨みをきかせてくれているお陰で、災厄の種にしからなないオサキは入ってこれんのですよ。ただし、既に人に憑いていると別でね」


「憑いていれば自由に都内に入れるってことですか」


「そう。ただし自由というわけではないよ。東京にいる宿主の外には出られなくなって、逃げ出すことも、他の人間に乗り換えることも出来なくなる」


 この世界に来て魔法や魔物、や神様と不思議なものに大分慣れたとは思っていながらも、やはり初めての事象に出会うと頭が受け入れるのに時間がかかってしまう。

 だけど、目の前の蓮也くんを見ていると、ただ頷くしかなかった。


「さて、診断はこれで終わり。とりあえず今日のところはオサキを封じておきましょう。それで意識は戻るし熱もすぐに下がるはずです。明日にでもこの処方箋を最寄りの神社に持って行って、憑き物落としを貰って下さい。出来ればお稲荷さんがいいですな、狐憑きには特に効果が強い」


 まるで最寄りの薬局で処方薬を貰ってくださいという気軽な言い方で、石動医師は女将さんにペンを走らせた白い薄紙を渡す。

 次に糸巻きに巻かれた朱の糸を取り出すと、蓮也くんの両手首と両足首、そして首元に一重に結びつけ、柏手を四度叩いて祝詞のようなものを唱えた。

 途端に蓮也くんは苦悶するように寄せられていた眉根を更に深く寄せ、少しすると強引にまぶたをこじ開けられたようにかっと眼を開く。


「んぐっ、げほっ、くふっ」


 糸はゆるく結ばれて締まってはいないのに苦しそうに首元を押え数度咽せた後、顔をあげて涙を滲ませ熱っぽい眼で私達の方を見た。

 蓮也くんの意識が戻ったことに、私と女将さんは思わず手を取り合って喜ぶ。

 その前で石動医師は、冷静に瞳孔を調べ脈をとると、静かに語りかけた。


「君、蓮也くんといったな。私は医師の石動だ。君はオサキという小さな狐の魔物に取り憑かれとる。封じたからもう大丈夫だ。まだ熱があって苦しいだろうが少しの間だから問診に答えたまえ。終わって寝ればすっかり楽になるよ」


 蓮也君が微かに頷くと、カルテを手にした石動医師の質問が始まった。


「茨城に帰省している間に魔物と遭遇したかね。症状からみて、元旦あたりだと思うが」


「……初詣の後で、地元の仲間と……ツーリングに……峠でイタチみたいな小さな魔物の群れが横切った。友達が避けようとして転んだから、バイクを止めて助け起こそうとして。……道路を渡りそこねた一匹が飛びかかってきて……驚いて目を閉じたら、そのまま姿が消えたからそのまま逃げたのだと……」


「なるほど。それなら他に憑かれた人はいなさそうだが念のため確認せねばいかんのだ。その仲間の名前と連絡先は」


「河合と佐鳴と代々木と四谷……そこの棚の住所録に」


「ご苦労さん。しばらくゆっくり休みなさい。次に起きた時は熱も下がって随分楽になってるはずだよ」


「奥さん、お手数をかけるがその子達に今すぐ連絡してもらえるかね。無事ならいいが、もし同じ獣憑きが集団発生していれば、保健所にそう届け出ねばならんので」


 石動医師が荷物をまとめていると、連絡をとり終えた女将さんが戻ってきて、皆問題はないようで元気だと伝える。


「なら、保健所へは通常の発生報告だけで良さそうだ。そうそう、熱が下がれば昼間は普段通りに生活して結構ですが、日が落ちた夜は大人しくしておくように。封じているとはいえ、オサキの活動時間の夜は体力を消耗し易いのですよ。憑き物落としを飲ませて三日経ったら連絡をください、糸を外しましょう。もし外したがっても無理だと伝えてください、これは私にしか解けんものですから」


 石動医師は、窮屈そうに再び赤いダウンコートを着込むと、大将と女将さんに見送られ去って行った。

 蓮也くんは、さっきより随分楽になったようで穏やかな顔で眠っている。

 まだ熱は高いけれど呼吸も安らかで、身体の力も抜けていた。

 私はほっとしながら頬にそっと触れ、石動医師の言葉を思い出した。


「そうか、そうよね。先生の言う通りオサキっていう魔物のせいだったんだね。まさか蓮也くんが私にあんなことをするなんてありえないもんね」


 眠ったままの蓮也くんに話しかけるようにそう呟き、どこか残念な気もしながらも懸念がぬぐい去られすっきりした私は、額のタオルを変えて盥の水を変える為にそっと部屋を後にした。

 その背後で蓮也君がうっすら眼を開いたことに、私は気付かなかった。

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