25.暴走
「大丈夫なのか」
「さすがに困ったけど、本契約の前だし、先方のお家事情だから仕方がないことだもの。今なんとか立ち直ろうとしてる所。くよくよしてる暇はないし」
この家の三階には三部屋あって、一部屋が物置に、そして残りの廊下を挟んで向かい合う二部屋に私と蓮也くんが寝泊りしている。
店でもリビングでも顔を合わせているので、お互いの部屋への行き来はほとんどない。あってもノックをして呼び出す程度。
私は兄や妹ともそんなかんじだったけど、一人っ子の蓮也くんが気を使ってくれているのはなんとなく察していた。
そもそも、お年頃な男女が同じ屋根の下で暮らしているのに、大将や女将さんから直接的にもそれとなくも注意を受けたことはない。
もしかしたら蓮也くんは大将に何か釘を刺されているのかもしれないけど、それなら私に何か一言あってもいいのに。あの女将さんなら、きっと若い子を誘惑しちゃだめよとかなんとか、冗談めかしながら言ってきそうなのになかった。
最初は少し気になったりもしたけど共に修行中の身だもの、お互い頭の中は料理のことでいっぱいで、更に私は店のこともあり恋愛どころじゃない状況に身を置いてる。だからこの状況に不満も不安もなく、気にすることを忘れていた。
とにかくお互いの部屋のドアを勝手に開けない入らないという暗黙のルールを破らせるくらい、蓮也くんに心配かけてしまったみたいで申し訳ない。これ以上心配かけないようにと明るい口調で言う。
「心配してくれてありがと。とりあえず明日役所に行って事情話して、後はもう一度片っ端からあたってみる」
「そっか。……なあ、どうしても店を持たなきゃいけないのか」
「どうしたの、今頃。だって私はその為にここに来て修行してるのよ」
蓮也くんは、部屋の入り口でうつむいたまま、躊躇いながら言葉を続けた。
「うん、目的があって店を出すんだよな。それって、この店じゃ出来ないことなのか。今じゃないと駄目なのかよ。来年や再来年、もっと後じゃ駄目なのか。そんなにここを出ていきたいのかよ」
「蓮也……くん?」
私は、何を言いいだすのかと問うように首をかしげる。するとそれを見た蓮也くんはそのまま後ろ手にドアを閉めてこちらにつかつかと歩み寄って来た。
その迷いのない足取りに私は本能的に後ずさろうとして、壁を背にしていることに気付いた。
あわてて左右を見渡している時には、もう目の前に彼の長い足がある。
「ねえ、どうしたの。蓮也くん」
身体を横にずらして逃げようとするのを押さえ込むように腕が肩をつかんで引き寄せた蓮也くんは、そのまま覆いかぶさるように屈みながら抱き締めた。
あわてて引き離そうとするけど、暇さえあれば筋肉増強に邁進しているその腕は鋼のようで、私の力では微動だにしない。そしてそのままぐいと背中を抱き寄せられ、首筋に熱い息がかかる。
くすぐったさに身をよじりながら、私は届かないのが分かっていても手を振り回した。
「蓮也くん、ちょっと痛いってば。離してよ」
強く抱きしめられたまま横へずれ落ちるように押し倒され、蓮也くんの熱い体が上に乗り押し付けられる。
お互いにセーター越しなのに、こんなに相手の体温が感じられるなんて。
そしてその間も私の耳元や首筋に容赦なくかかる息はどんどん荒くなっていく。
「ここにいろよ。頼むからもっと一緒にいてくれ。俺、英里と……」
一方的に囁きかけられる中で名前を呼ばれドキリとした。いつも「おい」とか「お前」ばかりで、蓮也くんに名前を呼ばれたことが珍しく新鮮だった。こんな状況に何をそんな悠長なと自分に突っ込みつつ、途切れた言葉の先を待っていたけど続きはなかった。
私はなんとか状況を変えようと、蓮也くんの背中の後ろで自由になる手を賢明に動かし、叩いたり揺すったり抓ったり撫でたりと、なんとか正気に戻そうとする。
そして私の指先は、ありえないものに触れてしまった。
引き締まった腰のあたりでセーターのすそがまくれあがっていて熱い肌に触れたかと思うと、手の甲にフサっとした毛足の長い何かが当った。
「へっ」
思わず手探ると太い毛束があり、握ると手に収まらないほどの太さがある。と、その途端蓮也くんが身震いしたかと思うと、猛烈に身体を押し付けてくる。
「ちょっと、やだっ、おちつきなさいよ」
階下に助けを呼ぼうと思いながら最後の警告のつもりで出来ること、手の中のソレを思いきり引っ張った。
「ギャン」
途端に鋭い犬の悲鳴のような声が響き、私の身体の上から蓮也くんが転がるように退いたかと思うとそのままぐったりと横たわってしまった。
恐る恐る身体を起こして様子を伺うけど、陽が沈み部屋は紺色に染まって暗く、身体を丸めて荒い息をつき、苦しそうに唸っているのしか分からない。
私は、手探りに壁のスイッチを探り、実を屈めてそこにペンダントを押し付ける。
そしてすぐに煌々と白熱灯に照らし出されたその姿を見て、思わず悲鳴をあげた。
蓮也くんは全身を朱に染め、珠のような汗を浮かべている。
荒い息を吐く半開きになった口元は涎すらも垂れ流し苦悶の表情を浮かべ、かすれたうなりをあげていた。
そして驚くべきことに、さっき私がひっぱったそれは茶と灰の斑色の毛で覆われた太い尻尾で、ずり上がったセーターと腰履きのスエットの間からのぞく。それは蓮也くんの尾てい骨の所から生えている。
驚きすぎて腰が抜けてしまった私は、その場にへたりこみ茫然とその姿を見つめていた。
と、そこに私の悲鳴を聞きつけたのか、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
そして勢い良くそこに現れたのは、大将と女将さんを引き連れたルリちゃんだった。
あまりに意外な人物の登場に私が別の意味で声を失っていると、なにやら指揮者が持つタクトのようなものを振りまわしている。
「この下郎! よくも英里さんにふらちな真似を! このルリが許しませんのよ! さぁかかってきなさい、成敗してさしあげますわっ」
「る、ルリちゃんどうしてここに……」
「英里さんのピンチに、親友のルリが助けにきましたの。それから早く離れてください。それはとっても危険なものですわ。今すぐルリがええと、痴漢撃退用の雷魔法でっ、きゃっ、やだやめて放してっ」
ルリちゃんが、大将に襟首を掴まれ廊下へ放り出された。部屋の外で声高なルリちゃんとそれをなだめる女将さんの声がする。
大将は、私を抱き起こすと蓮也くんを見下ろした。
「英里、何があった」
「大将、その、蓮也くんが心配して来てくれて、話をしてたらいきなり様子がおかしくなって……あの、この尻尾なんなんですか。大将、蓮也くんて人間じゃなかったんですかっ」
最後の方は、半ば悲鳴に近かったと思う。それだけ、今日はいろんなことが有り過ぎて私の中はいっぱいいっぱいだった。
そんな私の頭に大将の拳骨と怒声が落ちた。
「馬鹿なことを言ってんじゃない。頭を冷やせ」
鈍い重さのある拳は加減されたのかほとんど痛くはないけれど、子どもの頃以来の拳骨に驚いて私は少し冷静に戻れた。
「大将、蓮也くんは大丈夫なんですか」
「そうか、英里は知らなかったんだな。これは獣憑きってやつだ」
「犬憑きとか?」
なんとなしに聞いた事のある言葉に、私は眉を寄せて記憶の底から似た言葉を引っ張り出した。
「それも獣憑きのひとつだな。素人には何の獣かは分からないが、妖類の魔物に取り憑かれただけだ。とりあえず高熱に獣相が出てるのは典型的な症状だから、そんな顔をするな。ちゃんと医者に見せて処置をしてもらえば治るんだから」
「え、お医者さんですか? 祈祷師とか霊媒師や魔法使いじゃなく?」
「なんでそこで魔法使いが出てくるんだ。それにれいばい? そんなのは聞いた事ないな。医者の専門の一つに呪科ってのがあるんだ。魔物から受けた特殊な異常状態が専門だ。最近は患者の数が減ってきたとかで専門の医院はだいぶ減ったらしいが、総合病院に行けば必ず専門医がいるしな」
「そうそう、魔法は病気を直すなんて出来ませんわ」
病院で呪いが治る? 大将の言うことがよくわからずに茫然としていると、落ち着いた様子のルリちゃんが女将さんを伴って部屋に入ってきた。
「魔法って、なんでも出来るのかと思ってた」
私の言葉にとんでもないと、くわっと目を見開きつつも、ルリちゃんは丁寧に私の疑問に答えてくれる。
「魔力は、四大と言われる空気・火・土・水の魔素を持つと言われています。その力を引き出す技術が魔法で、その技能を持つのが魔法使いなのですよ。各国それぞれに独自の魔法文化を持っていて五大、六大という所もありますけど、この四大の魔素は変わりませんの。その中の子系統のものが主要魔素のひとつに加わるだけなのですわ。最近流行の若者向け幻想文学で、人間の身体能力を向上させたり癒しや時を司る魔法使いが登場しますけど、それは神様の領分で人はそんなこと出来ません。お陰で最近そう勘違いする人も増えて嘆かわしいですの」
ルリちゃんが肩の上の艶やかな黒髪をかきむしる真似をして遺憾さを伝える。
その説明を聞いてようやく色々合点がいった。魔法文化とはいえ仰天世界じゃなく元の世界と似ているのは、魔法が万能ではないからなのかも。
エネルギーと活用する技術方法が違うだけで、魔法と科学ってどこか似てるかもしれない。
そう納得しかけて、私ははたと首をかしげた。
「なるほど、じゃあこうしてルリちゃんがかけつけてきたのは、どんな魔法を使ったの」
私の問いかけに、ルリちゃんの動きが止まる。
「前にも、私の居場所を見つけてたよね。それって、四大のどの魔素の魔法を使うの」
ルリちゃんはぱくぱくと口を動かしたけど言葉にならず、どうしようと困ったように、私の顔色を伺う。
「お前達、話し込むのは後にしろ。今から総合病院に連れて行っても夜間診察の時間か。とりあえず蓮也を部屋に寝かせて、石動医院の先生に往診に来てもらおう。英里は店からでかい方の氷をとってこい。この熱だ、頭を冷やせば少しは楽になるかもしれん。ああ、そういえばそこの帽子の。魔女見習いなんだってな、低温か氷関係の魔法は使えるのか」
大将の言葉に、ルリちゃんは名前を覚えてくれないなんてひどいと抗議の声をあげながらも首を横に振り、大将の大げさな舌打ちと同時に私は氷を取りに行くために立ち上がった。
ついでにルリちゃんを強制的に同行させて、厨房に明日のための生きたナマコがあったので、それを使って口を割らせた。
ルリちゃんが私のことを知ることが出来たのは、空気の魔素と相性が良い彼女が、まだ早いと師匠で叔母のミカゲさんに止められているのに隠れて覚え使えるようになった魔法でとのこと。
この家を突き止めたのは、超音波のような空気を振るわせる波動を出す魔法を、私の靴にしかけておいたのだとか。そして今回はあの友達の証の黒猫のぬいぐるみに、振動や温度の変化で異変を感知する魔法を施していたらしい。
まるで発信器に感知器みたいねと感心しながらも、氷を運んだ後に私の部屋でぬいぐるみに仕込んだ魔法を解除させた。
私が静かだけど厳しい口調でこれはやりすぎだと叱ると、さすがにまずいことをしたと理解したルリちゃんは泣きながら友達を辞めないでとすがりつく。
私はミカゲさんに魔法を使ったことは内緒にしておくし友達を辞めないと伝えながらも、女将さんにお願いして借りた友情をテーマにしたぶ厚い小説本をルリちゃんに手渡し、じっくり読んで感想文を書いて持ってくるまでは会わないよと言い渡し、帰らせた。
本当は驚きのほうが大きくそれほど怒っていなかったのだけど、どう考えても立派にストーキング行為。今後エスカレートしても困るから、そうしておいたほうがいいと思って。
そしてまるで小さい台風のようなルリちゃんが去り、家の中に静けさが戻った。
だけどそれは灯が消えたような静けさだった。




