24.報せ
一月四日。この世界で迎える三度目のお正月も終え、この世界の私の故郷ということになっている群馬から東京に戻ってきた。
身元引き受け人で、もうすっかり親代わりの白川神社の八坂宅への帰省は、八坂夫婦と過ごすのが目的だけど、一年で最も忙しくなる神社の手伝いをする為に、のんびり実家気分を楽しむどころではなかったりする。
巫女装束を着て、神事の手伝いと氏子さんへの接待が主だけど、社務所に詰めている地元のアルバイト巫女さんの手が足りないとそちらも手伝って目が回る忙しさ。
その中で、今年こそはと期待し願っていた白川様との再会は、前年同様叶えられなかった。
ただ今日の明け方、市場に仕入れに行く時間に目を覚ました私の枕元に、水が並々と注がれ白椿の花弁が浮いた高杯が置いてあった。やはり日頃から早起きで既に台所に立つ奥さんに、どういうことか尋ねても首をかしげるばかり。そこに、連日の疲れがまだ抜けきれない顔であくびを噛み殺しながら八坂さんが起きて来て、その答えをくれた。
私が用意してきたお神酒を白川様が気に入ったようで、八坂さんの夢枕に立ち、出雲で飲むより粗野な味だがと言いながらも瓶子を手放さなかったとか。八坂さんは、ここぞとぜひ私と話をして欲しいと懇願してくれ、白川様はその要求を拒みながらも授けものをしておいたと告げられたんだそう。
授けものよりも、一目でも会って、一言でも言葉を交わし、一つでも尋ねたかったのに。そう恨みがましく思いながらも、白川様から私へのアクションがあったこの僅かな進展に、避けられてはいても嫌われているわけではないみたいと期待が持てたのが嬉しかった。
白川様から贈られたその杯に思い切って口をつけると、まるで汲みたての湧き水のように冷たく清々しい水が口を潤す。そして一気にぐいと飲み干せば、その水が身体に染み渡り、全身どころか心まで清められた気がする。
もちろんそれだけでなく、飲んだと同時に私の身体が一瞬淡く白い光に包まれ、見守っていた八坂さんは驚きの声をあげた。私はあわてて自分の身に異常がないか確認すると、こちらに来てから出来た指先のアカギレや包丁の傷跡などが綺麗に癒され、連日の疲れで出来た額のニキビも消えていた。
そして理解した。これはあの時の聖域の泉の水なんだと。
中津様が私に教えてくださった神様の加護の力を改めて目の当たりにし、このお陰でいつか私は帰ることが出来るのだよねと気持ちを奮い立たせることが出来た。
なんといっても、今年はお店を開く特別な年なんだから。
そして、気分も新たに東京に戻った私に待っていたのは、普段の休日よりももう少し気が緩んだ様子の、大将と女将さん、そして蓮也くんだった。
蓮也くんもお正月の間茨城の実家に帰省していたのだけど同じく今日戻ってきて、私へのお土産にはこのほうがいいだろうと二キロ分も蓮根をくれた。
野菜をお土産にって、彼の中で私ってどういう印象なんだろうと疑問に思いながらも、新鮮な蓮根を嬉しく受け取った。
店の営業は五日から。
だから今日は各自好きなことをしてゆっくり過ごしましょうという女将さんの言葉に頷きながら、のんびり昼酒を飲み始めた大将の肴にとさっそく蓮根を一本洗って、酢の物と芥子蓮根を作る。
芥子蓮根は祖父の好物だったので慣れたもの。大将が今飲んでる麦焼酎との相性もいい。
食感を残す程度に湯がいた蓮根の穴に、白みそと粉芥子と砂糖と塩を練ったものを詰め込む。
本当は一晩寝かせたい所だけど、今日はそのまま衣をつけて揚げてしまおう。この衣は、卵黄に少し水を加えたもので黄色くする。そして揚がったら、スライスして盛りつけ。
熊本の有名な郷土料理だったけど、こちらにもあるのかなと思って尋ねると大将達は知らないと言ってた。
酢の物は箸休めにつまむ程度なのに、芥子蓮根は大将と蓮也くんが奪い合うように食べ、結局私は更に二本追加で作らされるはめに。
おからやパン粉で芥子味噌を固くしないので、穴に詰めるのが面倒なんだけど。でもその甲斐あって、ほろ酔いで上機嫌な大将からお店メニューに採用決定を言い渡された。
ガッツポーズで喜んでた私を、女将さんが浮かない顔で廊下から呼び出した。なんでも、不動産屋の健さんが来ているという。
何事かと私が玄関へ出ると、そこにはいつものスーツ姿ではなく家から直行したのだろう、ジャージにコートでつっかけ履きな健さんが青い顔で立ってた。
「明けましておめでとうございます。健さん、新年そうそうどうしたんですか」
「英里ちゃん、えらいこっちゃ! あの社長さんが亡くなったんだわ」
「ええっ、社長さんてどこの……もしかして借りるお店のビルのオーナーの?」
「そうそう。なんでも先月の終わりに心臓の発作で倒れてその晩にぽっくり逝ったってさ。三十日に葬儀があったのを知ってたかと、タバコを買いに出たらヤスさんとばったり合って聞いてさ。あわてて連絡して確認とって、そんでここに来たってわけ」
「そんな、お会いした時お元気そうだったのに……」
つい数週間前に契約の件で会ったのに、こんなにいきなり亡くなるなんて。
私は鼈甲縁の眼鏡をかけ矍鑠としてよく笑っていた老紳士を思いだした。その雰囲気も死に様も、祖父を思い起こされて視界が涙で歪む。
「残念なことだけど、社長さんを悼んでる場合じゃないんだよ、英里ちゃん」
「どういうことですか」
「連絡してほれ、社長秘書のおばちゃんがいただろ。あの人に聞いたら、どうやら店の件がご破算になるらしい」
「ご破算って、どうして」
「跡取り息子の専務がいるんだが、今日の仕事始めの新年の挨拶でぶちあげたらしい、会社が大手に吸収合併されるってね。もともと世代交替がここ2、3年だろうと囁かれていたんだがまさか会社を売り飛ばすなんてな。古参社員ばかりだから内部は大混乱なんだと。その秘書のおばちゃんも来月いっぱいで退職するって言ってたよ」
「そんないきなりな話。じゃああのビルは……」
「ぶっ壊してから新しく建て替えて、若者向けのファッションビルにするんだとか。そんなわけで貸す貸さないをしぶってるなら交渉の余地もあるんだろうが、これはさすがにお手上げだ。どうする、英里ちゃん。役所の件もあるだろ」
私は唇を噛み締めた。必要な器材の購入や工事はまだ見積もりの段階だからキャンセルも変更も出来る。
だけど補助金の審査のために、今月十五日に店舗の契約書類を合わせて提出しなくちゃいけない。この土壇場になって、と悔しい気持ちと恨めしいが胸を苛む。
とにかくなんとかしなければ。
「私、他の物件を探します」
「そうか、わかった。うちも色々当たってみるよ。だけど英里ちゃん、焦って変なものをつかまされないようにな。時間がないのは分かるけど、契約前に俺に連絡してくれよ」
「ええ、もちろんです。お手数をおかけしてすみません。これからもどうぞよろしくお願いします」
「がってんだ。じゃあ熊さん、一応秀さんにはこっちから顛末を耳に入れとくからな」
健さんの言葉に私が驚いて振り向くと、リビングの入り口に大将が立っていて、健さんの言葉に黙って頷いていた。
「色々ありがとうな、健」
「よしてくれよ、更水臭い。契約に噛ませてもらうんだからこれくらいするさ」
健さんが帰った後、頭がパニックになり呆然と立ち尽くす私を女将さんはリビングに連れ戻しお茶を入れ直してくれた。
だけどお茶の味も熱さも分からないほど、動揺と焦りで頭が真っ白になっている。
「ああっ、こんなことしてられない。すぐに探しにいかなきゃ」
我に返った私は、湯のみを置くと立ち上がり、部屋へコートを取りに戻ろうとした。
ところが行く手を、部屋の入り口の前に大将が立ちはだかった。
「どこへ行く」
「だから、次の物件を探しにです。もう時間もないし、明日からお店があるし……」
「今日は家にいろ。外には出るな」
「どうして、どうして邪魔するんですか」
私は大将の言動が理解できず、ヒステリックな声をあげてしまう。頭に血が上り、目尻から涙までこぼれ落ちた。
「そんな状態で外をほっつき歩くな。これは命令だ、今日は家にいて頭を冷やせ」
「でも、時間がないんですよっ」
「もう三時じゃないか、今から出かけてもやれることはたかが知れてる」
「大将……」
「その代わり、明日から仕入れと仕込みは出なくていい。分かったら、大人しくしておけ」
「はい」
私の返事を聞いてようやくドアの前から退いた大将は、席に戻ると苦い顔で飲み直し始めた。
私はとにかく一人になりたくて、部屋に戻ろうと廊下に出ると女将さんが追いかけてきた。
「英里ちゃん、熊ちゃんはただあなたのことが心配なのよ。そのまま外に出たら事故にでも遭いかねないってね。私達もお店探しに協力するわ。それに、いざとなったらもう半年でも一年でもずーっとでもうちにいてくれていいんだからね」
「女将さん、ありがとうございます。でもこれ以上ご好意に甘えられません。もう今までも充分過ぎるほど皆さんに良くしていただいてますから」
「そう? でも無理はしないでね。私達は英里ちゃんの親代わりのつもりなんだから。熊ちゃんもそんな気持ちでああ言ったのは分かってあげてね」
女将さんの言葉に私は無言で頷くと、部屋への階段を昇っていった。
部屋に戻り、部屋の隅の壁にもたれて座った私は箪笥の上に置いていた都内の地図本をとると床に広げた。
旧都心と呼ばれる方が多い東京都の地図は、私の知る半分ほどの面積しかなく、本屋に並ぶ他県に比べるとページ数はかなり少ない。その地図本の青いしおりを挟んだページを開くと、そこは吉祥寺の地図だった。
赤い印をつけた、私のお店になるはずだったビルの場所。
この2ヶ月と少しの間、毎晩のようにこれを見てイメージをしてきた。この道を歩く人々、その中で私の店に来てくれるのはどんな人か、どんな料理が喜ばれるか。ライバルになるだろうお店や、どうすれば私が求めるお客さんがここに導くことが出来るか。
本の後ろに挟んである小さな帳面には、そういった思いつきを書き留めていた。だけど店の件が白紙に戻ったからには、これに囚われている暇はない。
私は帳面を箪笥の引き出しにしまうと、そこから別の帳面を取り出した。以前休みの度に、街を歩いた時に見かけた空き店舗や建物をメモしておいたものだ。
住所と特徴を走り書きした横には、連絡して断られたバッテンだの、連絡先が不明だったり、自分から見て難有りだと思った理由などが書いてある。
明日から不動産屋さんをあたりながら、もう一度これを当たっていって……。
色々と考え込んでいたところで、名前を呼ばれた。
驚いて顔をあげると、ドアが開いて蓮也くんが憮然とした表情で立っていた。
「おい、何度もドアを叩いたし呼んだんだぜ。心配になって開けた」
「ごめん、考え事をしてて聞こえていなかったみたい」
いつの間にか窓からは夕陽が差し込み、部屋だけでなく私も入り口に立つ蓮也くんも茜色に染まっていた。




