23.〆はカレーうどんで
「秀さん、金の話じゃないから安心してくれ。それはこの子が自分でなんとか算段はつけてる。ただ、知っての通り若くてこの街に来たばかりだ。金がふんだんにあるわけじゃないしツテもない。だから皆に頼みたいことがあるんだ」
「分かった、物件だな」
秀さんがニヤリと笑って、大将の言葉を遮った。
この人は白髪に柔和な顔と普段は声をあらげることはないに違いないという好々爺そのものなのに、笑うといきなり悪人顔になる。裏金をばら蒔き善良な人々を陥れる悪徳商人といった邪悪な凄みのある笑いを見た時、随分笑顔で損する人だと思ったっけ。
もちろん本人は思慮深く清廉潔白な人で、皆からの信頼も篤くいつも皆の中心にいて物事を取り仕切っている。
「そうだ。年内に決めなきゃいけないんだが見つかってなくてな。俺も手伝ってやりたいが、ここを決めるのにも大変だったから役に立てそうにない。吉祥寺の出物でいい話を聞いたら紹介してくれないか。噂でもいいから教えてくれ」
「あー、そういえば熊がこの街に来た時、健の奴が騒いでたな。ヤー公が来たって。断りたいのに相手が引かないって秀さんに泣きついてたアレだろ」
「もう八年も前の話じゃないかよ。それにあの時は熊がスーツだったんだぞ、黒スーツ。この顔でスーツでサングラスは絶対カタギには見えねぇって」
「そういうことなら仕方ないよな。熊が出てって英里ちゃんが妙に誤解されてもいけないしな。でも英里ちゃん、なんで吉祥寺なんだ?この近所ならほれ、夜逃げして空いてる飲み屋とかいくつか心あたりあるけど」
「あそこが私の故郷に似ていて好きな場所なんです。それに港が近いから色んなお客さんも来てくれそうだから。是非吉祥寺でお店がやりたいんです」
「そういえば英里ちゃん、休みになると吉祥寺に行ってるって言ってたな。若い女の子の好きなお店があるしてっきり遊びに行ってるんだと思ってたけど、店探しをしていたのか」
カウンターやテーブル席で応酬されるやり取りの中、私は投げかけられた言葉にこくんと頷く。
吉祥寺に通う中で、人の流れや付近のお店、流行ってる飲食店とリサーチはしてきたし、それでお店のコンセプトや出すメニューも練ってきた。それでも肝心の条件に合う物件がなくて手詰まりになってた。
そんな中、まさか大将がこんなアシストをしてくれるなんて。
私はようやく大将の意図を理解し、感謝を込めた笑顔で大将を見上げた。
「よし、じゃぁこの旦那会、熊公の話に乗ろうじゃないか。お前ら、次の会までにあのへんのお得物件をみつけてこい。熊公が褒美をくれるってさ」
「げっ、熊の……」
「なんか熊さんのってつくと微妙だよな……」
「なんだ、太田に金井。不満かい」
「秀さん、俺達はどっちかというと英里ちゃんのご褒美のほうがやる気がでるというか」
「そうそう、やっぱり女の子のご褒美のほうが響きがいいじゃないですか」
「だとよ、嬢ちゃん。どうするかい」
工務店と電気店の主人達が唱えた異論を受けて、秀さんが人の悪い笑顔を向けてきた。
「そうですね、ご褒美ですか。うーん、皆さんに喜んでいただけるもので私が出来る事ってあるかな——」
「それは是非ほっぺにチューで!」
「いや、俺は一日付き合ってくれるのが—―」
「太田さん、金井の旦那、今、何か言いましたか」
「く、熊さん、冗談、冗談だよ」
「そうだよ。本気でそんなこと言うわけないよ、なぁ」
「た、大将っ、ダメですよ。包丁は料理の為のものですよ」
大将が横で威圧感を垂れ流し始め、調理台の上に伸びたごつい手が包丁を手にしたのを見た私が焦ると、それが私に手渡された。
「大将、なんですかこれ」
「野郎共、褒美は今前払いしてやる。この後は店のおごりだ、英里が作る料理を堪能してくれ」
大将の言葉に店内には一瞬の沈黙が落ち、その後に建物を振るわせるような歓声が沸いた。
「なんでも使っていいぞ。普段店で出さないものでも作ってやれ。手伝いは蓮也を使えばいい」
「ええっ、じゃあ大将は……」
「皆と飲むから、頼んだぞ」
「お、女将さぁん」
私が女将さんにすがるような目を向けて助けを求めると、胸の前で手を組み睫毛の長い大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ頑張って!と合図を送って来た。
「蓮也くん……」
「仕方ねぇなぁ。手伝ってやっから感謝しろよなっ」
微かな望みで助け舟を期待し視線を送った蓮也くんは、嬉々として厨房に入ると制服の作務衣の上に前掛けを締め、手を洗っている。
私は溜め息を一つ吐くと、改めて前掛けの紐を閉め直した。
そして冷蔵室と厨房の食料庫をのぞき、頭の中で算段しながら手を洗う。
既に机の上が空いているので、すぐに出せるものから始める。
蓮也くんにキャベツの千切りを急ぎで頼み、キャベツたっぷりの豚平焼きを量産する。ソースをかけた上にマヨネーズをかけて、その上に鰹節をたっぷりと。
次に用意するのは、大将特製の唐辛子味噌を使った和風麻婆豆腐。
中華料理は手早く作れるのが魅力的。
ただ残念なことに、その中華料理に該当するものがほとんどない。
この世界の日本では和食と共に帝国料理も深く根付いている。人種の坩堝の帝国伝来の料理は、西欧料理が古典と呼ばれ、中東や北欧東欧、東はインドあたりまでの味がとりこまれ幅広い。
その更に東の中国とロシアにあたる位置にあった蜃は、帝国が日本にやってくる前までは細々と国交があったもののその後は敵対国になった為、文化の影響もそこまでになってしまっている。戦後は日本のように属国ではなく完全に帝国に取り込まれ、国内でも特に規制が厳しく色々制限のある特区になってるとか。
一時期蜃国に侵略されたことのある東南アジアの諸国料理に混じってそれらしい料理があるのを本で見かけたけど、一般的にはほとんど知られていない。
なので、中華系の調味料が手に入れ難く、何を作るにしても和風という冠がついてしまう。
そういえば最近、新聞に戦後100年に向けて蜃特区が徐々に規制緩和されることになったと報じられた。日本は戦争で深刻かつ甚大な被害を受けたこともあり、彼らに渡航許可が降りれば特権を持つ帝国民と同等に扱い受け入れなければならないという懸念に国内世論が大きく揺れている。
それでも、この日本の食卓にも中華料理が並ぶ日もそう遠くないかもしれないな。
そんなことを考えながらも、私はフライパンの中のイカと大根のワタ炒めを皿に盛る。ちなみにイカのゲソは横で蓮也くんに竜田揚げにしてもらってるんだけど、腰が引けて身体がくの字になり、時々破裂音と共に油が跳ねる度に小さく驚いた声をあげている。
その様子をカウンターのお客さんが酒の肴にしながらニヤニヤ見守り、秘蔵の麦焼酎を持ち出し秀さんの隣で飲んでいる大将の鋭い視線が注がれてるのに、気付いていない。
私がさりげなく代わるから次の料理の野菜を用意して欲しいと頼むと、すごく悲しそうな表情を見せた。
普段私達が任せてもらえるのは下拵えまでだものね。めったにない機会だからもっと揚げさせてあげたいけれど大将の視線が……。
さすがに皆の箸の進みも落ちてきたので、叩き胡瓜の梅肉和えに秋刀魚の蒲焼を出したら、〆を用意することにした。
もちろん店のおごりなので、米でなく麺類で。
蓮也くんにはうどんの準備をお願いすることにした。今日は通常営業ではないので冷蔵庫から寝かせてあったうどんの生地を伸ばして切るところから取りかからないといけない。
この世界の日本でパンと共に主食の一翼を担ううどんは、子どもでも打つことが出来るほど馴染みの国民食。
だから蓮也くんも慣れたもの手際がいい。まるで製麺機にかけたようにうどんが小気味よく等間隔に切られていくのを見て感嘆しながら、私はかけ汁の準備をした。
「おい英里ちゃん、これは何のうどんだ。慣れん匂いがする」
それぞれの前には、小さめの丼が置かれていた。
玉葱に揚げに人参に椎茸に豚肉が浮かぶとろみのある出汁は、赤身がかった醤油色。その中に沈む太めのうどんが黄色く染まっている。上にはたっぷり乗せた小口切りのネギが彩りを添えていた。そして湯気と共に立ち上るのはスパイスと出汁の入り混じった香り。
私は、秀さんのけげんそうな声に笑顔で答える。
「カレーうどん、です。かなり熱いのと汁が跳ね易いので気をつけてくださいね」
「おい、カレーってなんだ」
「俺、知ってるぞ。先月雑誌で紹介されてた池袋の帝国印度料理の店で食べたけど、シチューみたいな濃厚な汁がやたら辛いんだ。そのときは平たいパンか米が添えてあったぞ。でもこれはまた雰囲気が違うなぁ」
「そうです、そのカレーをうどんに合う味付けにしたもので、辛さも控えめにしていますよ。物足りない方はぜひ一味唐辛子を振ってくださいね」
金井さんの言っているのが私も恐らく同じ雑誌で見かけた話題の帝国カレー、インド料理そのままのカレーのことだと気付き、もっと日本人に合う味なのだと説明する。
カレー粉は売ってないけれど、店頭に置いてあるスパイスにハーブは驚くほど充実している。お陰で色々なタイプのカレーを手軽に作れて嬉しい。
ちなみに今回は出汁の香りを邪魔しないようナツメグとシナモンは極少量にし、癖のない組み合わせにしている。私の言葉に皆恐る恐る箸を付け初めた。最初は探るようにゆっくりと静かに、次第に威勢良くうどんを啜る音が響き、私は口元をほころばせた。
そんな中、金井さんは同じテーブルの二人からカレーうどんそっちのけで詰問されていた。
「金井がそんなシャレた店に行くなんて似合わねぇな。おい、誰と行ったんだ」
「いいじゃないか、キャバレー梓の美鈴ちゃんがどうしても行ってみたいってねだるんだからさ」
「なんだと、美鈴と逢引か? 抜け駆けだ、ずるいぞ」
「お前も狙ってたのか。悪いな、来月一緒にケセランパサラン園に行くことになってんだ」
「あそこって、確か新潟じゃ……ということは泊まりかよ」
「食い物の次は可愛い魔物で釣るなんて、卑怯だぞ」
「ふん、負け犬はいくらでも吼えるがいいさ」
「おいお前ら、そのうどん食う気がないなら儂がもらうぞ。冷めるともったいねぇ」
呆れ顔の郷原さんが隣席で騒ぐ太田さん達に声をかけた。
既に皆丼は空で、手付かずで残ってるのは三人だけ。
「お、おう、今食うって。おっちゃんも皆もそんなに見るなよ。俺のは誰にもやらないからな」
店内が野太い笑いに包まれる中、三人は慌てて、まだかすかに湯気をたてるそれを啜った。
その月の最後の週末、私は旦那会の皆が集めた物件巡りに、仲介人に任命された横山不動産の健さんと見届け人だという秀さんに連れ出された。
皆が探してくれた噂から広告に載ってた募集物件まで実に20を超える情報が集まり、その中で健さんが問い合わせて情報を精査してくれた。そして残った8件を案内してもらった。
一番三鷹から近い場所にある駅前通り沿いの倒産した寿司屋の居抜き物件や、商店街の雀荘の二階、五年後に取り壊しが決まってる古い雑居ビルの地下、一応年明けに完成予定のはずだけど工事がストップしている新築マンション一階の店舗物件など、実にバラエティに富んだラインナップ。秀さんが「ろくなもんがねぇな」とぼそりと呟いていたけど、健さんも私も聞かなかったことに。
そして三つに絞った候補を一週間かけて悩み選んだのは、鰻屋丸一のヤスさんが紹介してくれた物件だった。
店の昔なじみの小さな海運会社の社長さんの自社ビルの一階で、喫茶店を営んでいた老夫婦が年が明けた頃に隠居して店を畳むことが決まり困るとぼやいてたのを聞き込み、私の話をしてくれたらしい。
その社長さんも美味しいコーヒーを出してくれる食堂なら理想的だと乗り気らしく、港のすぐ側で人通りも多く立地条件もいい。
ブルーグレーのシックなタイル張りの外壁に。通りに面した側にある生垣付きの広い窓のお陰で、カウンター付きで18席の狭い店内は充分明るく、モスグリーンを基調にしたクラシックな内装に陰気さはない。
地味だけど、落ち着いた佇まいと居心地の良さは他の物件に比べ群を抜いていた。
改装はしてもしなくても良いし、テーブルや椅子もそのまま使っていいというのも理想的。
健さんに希望を伝えて手続きをお願いして、本契約は年が明けてからだけど、店舗の問題が解決したことでようやく次に進めると私は心から安堵した。
実際にここが私の店にと思うと、それからあれこれとイメージが広がっていく。
そんな胸の高鳴が抑えきれないまま、私の大将の許で残り少なくなった日々は、修行と出店準備に追われて過ぎていった。




