21.恋の記憶
何がどうしてこうなったんだろう。私は、髪をまとめあげてることも忘れてかきむしる。
朝の通勤通学の車や人達が行き交う賑やかな通りを引き戸一枚で挟んだ店内は、しんと静けさが満ちる中、調理台の上に置かれた洗浄したばかりの箱や器具から滴る雫の音が響く。
ノートに記したメモを、私はペン先で指しながら一つづつ確認していった。
一晩吸水させたお米を、朝起きて水切りしておいた。そしてお昼に一時間かけて芯まが柔らかくなるまで蒸した。
そして木桶に広げて混ぜ冷まし、四十度台の手で触れるようになったら、うぐいす色の胞子の粉末を振り入れ混ぜる。
よく混ざったら温度が下がらないうちに、さらし布に包んで箱の中へ入れて三十二度で十二時間ほど置いておいた。
ここで包みを開いたら白い菌糸に覆われているはずなのに、ほとんど様子が変わらない。
もう少し、もう少しと粘ってみたけど、結局うまく菌が育ってくれなかった。
駄目でもともとと思っていたのに、こうあっさり失敗してしまうなんて。三合ほどのお米で試したのだけど、それが少な過ぎたのか種麹の量が少なかったのか。
手順は間違えていないはずなんだけどなどと嘆きながら、私は無人の店のカウンターにつっぷした。
もどかしさからくる苛立ちを押え、必死で記憶をたどる。
あの時、あの人は何て言ってたっけ。内容だけじゃなくて具体的な言葉まで思い出したい。
そう、その時のことを思い出すんだ。二人でよく会ってたカフェで、私に語ってくれた熱のこもる口調、紙ナプキンに絵を描いて説明してくれた時のペンを持つ少しあかぎれのある指。
そこまで思い出すと、ふいに懐かしい顔が記憶に蘇った。眼鏡が似合う朴訥とした大人しい穏やかな風貌。皮肉屋のように口の端をゆがめるけど実際は困った時の癖だということ。
彼、佐山さんは、高校生の私を祖父がよく連れて行った懇意にしている蔵元の新米杜氏さんだった。
大人達が話し込む間、作業場の入り口から大きな樽が並ぶそこをのぞいていた私に声をかけたのが彼で、それからここで一番歳が近いからねとよく一緒にいてくれた。
ただし、会話の内容な専門用語ばかりの酒造りのことばかり。でもその熱のこもった彼の話に私も興味を持って熱心に聞いた。
そして私が関心を見せると心から喜ぶ彼の笑顔に、私は恋をした。
受験生だったにもかかわらず心配する祖父を説得し、佐山さん会いたさに連れて行ってもらった。その度に私はまだ飲めないお酒のことに詳しくなり、私の恋心も育っていった。
そして私が大学に入学した頃にはメールをやりとりし、時には映画を見たりお茶をしたりと外でも会うようにもなった。
もちろん、二人きりの時も彼の口から出るのはお酒の話ばっかりだったけど、私は嬉しかったし楽しかった。
私自身、幼い頃からの食べ物や料理への情熱が、彼のそれと重なるのもあって、一番の理解者のつもりだった。
「英里ちゃんが二十歳になったら、僕が造ったお酒をプレゼントするからね」
ようやく、来年は一人で任せてもらえることになりそうだと嬉しそうに報告してきた時にしてくれたその約束に、私の心は舞い上がった。それが彼が私に示した好意だと思ったから。
なら、私はその時に彼に気持ちを打ち明けよう。私は心の奥に恋心を大事に仕舞い込んだ。
大学生になって祖母の料理教室を手伝うようになった頃、私は生徒の中に知った顔があるのに気付いた。
佐山さんの勤め先の社長令嬢で、お嬢様学校で有名な短大を卒業し、お稽古ごとに精を出す花嫁修業グループの一人。
彼女は家業に関心がないのか、私が祖父とよく顔を出していた蔵の行事でも見かけることがなく、数度同じ敷地にある家から出入りするのを何度か見かけたことがある程度。
その時の私は彼女が佐山さんの知り合いというだけで嬉しくて、つい気軽に声をかけてしまった。
「あら、あなた父を知ってるの」
「はい、祖父に連れられてよくお邪魔していて、社長さんには昔からよくしていただいてます」
「そういうことだったのね。花沢先生の教室って人気だけど入会が難しいでしょう、特に雑誌に紹介されたこの入門講座なんて予約が一年待ちですもの。父に相談したらツテがあるって言ってたけど本当にここに入れて驚いたのよ。お爺様にぜひよろしくお伝えしてちょうだい。この教室に通えて鼻が高いし、素敵なお友達も沢山出来たのよ」
「そうなんですか……うちの教室がお役にたって良かったです。そうそう、和食のクラスで、お宅のお酒を使ってるんですよ。特に先月は生搾りの純米酒がとても人気で——」
「悪いけど私は日本酒のことはからっきしで興味はないのよ。あの味も苦手だし、地味で暗くておじさんばかり集まるあの雰囲気が小さい頃から嫌でね。それよりワインの方がいいわ、オシャレだしお友達も皆好きだし。そうそう、今度ここで知り合った方々とワイン会をするからいらっしゃる? 先生のお孫さんが来てくださるなら皆大歓迎だわ」
「ここでは私はただのアシスタントですから、そういうお誘いをいただいてもお断りするように祖母、いえ先生に申し付けられているので。それにまだ未成年ですから」
「あらそうなの? 残念だわ。ふふふ、私も蔵元の娘というと日本酒が好きだとか詳しいとか思われて困るのよね。私の婚約者なんていつもそんな話ばっかりでつまらないったら」
「婚約者がいらっしゃるんですか」
「ええ、来年三月に挙式予定なの」
「そうなんですか、おめでとうございます。じゃあそろそろ準備でお忙しいのでは」
「ありがとう。張り切ってる親に任せて私は好きにさせてもらってるのよ。相手も昔からの付き合いの幼馴染みだから気が入らないというのかしら」
「じゃあ長いお付き合いの末にゴールインなんですね」
「それが理想的なんだけどね。私は一人娘だから婿をとらなくちゃいけなかったの。うちに遊びに来ていたのがきっかけでアルバイトに来て、そのままその道に進んだ人でね、父が跡継ぎにはこいつしかいないって入れこんで成り行きで? 彼のことは嫌いじゃないし、他に好きな人も今はいないし。優しい人で私が何をしても許してくれるの。結婚しても好きにしていいって」
愚痴めいたことを言いながらも幸せそうに微笑んだ彼女は、そろそろ彼が迎えにくるのでと言うと去って行った。
私は、会ったことのある人かなと思いながら、つい野次馬根性で教室の二階の窓から下を見下ろす。少しして建物から女が現れ左右を見渡し、栗色に染め緩く巻いた髪と千鳥柄のスーツ姿で彼女だと分かった。
すると彼女が手を振り、彼女の視線の先にある、歩道に添って並んで停車している車の一台から、男が降りた。
上からで顔の一部しか見えなかったけど、私にはそれが誰だかすぐに分かった。
いつもの髪型に眼鏡、見覚えのある薄い水色のダンガリーシャツ。私が佐山さんを見間違えることはない。
軽やかに駆け寄る彼女から、今日の授業で作ったキッシュが入った教室のロゴ入り紙袋を受け取り、空いた腕に彼女が抱きつくままにさせて車へと戻っていく。
見てはいけないものを見てしまった気がして、あわてて窓辺を離れてフロアのトイレへ駆け込んだ。
個室に入ってすぐに涙がぽろぽろと落ちる。
私達二人の関係は、私の気持ちがどうあれ、友人としての付き合いでしかなかった。
親友に相談すると、それは明らかにデートだし、だからこそはっきりどういうつもりか訊くなり告白するなりすべきだと忠告されたにもかかわらず、私はその関係が心地よ過ぎた。
変化が怖くて恋愛や結婚についての話題を避けてきた。
勝手に好きになって、勝手に浮かれて……。
気持ちを伝える前に失恋した私は、祖母のアシスタントが楽しくて専念したいと、その後祖父に誘われてもその蔵元へついて行かなくなった。佐山さんには、忙しくなったのでもう連絡は出来ないことだけメールし、何度か返信が来たけど、私はそれを開いて見ることはなかった。
そして翌年三月の最初の日曜日に、佐山さんとお嬢さんは結婚した。
披露宴式に呼ばれた祖父は、帰ってくると引き出物の袋の中に入っていた赤い紙袋を私に手渡した。
中には白い薄紙に包まれた瓶が入っていた。私がそれを剥がすと、中から綺麗な青いボトルが現れた。
桜を思わせるほんのりピンク色のムラがかかった和紙のラベルに、薄墨で「英」という文字が一字優しい筆跡で書かれていた。
「これは、佐山くんが初めて自分の手で造ったお酒で、はなぶさというんだよ。最近の若い杜氏はインパクトを求めるが、これは実になめらかで優しい味わいで会場でも目出たい席に似合いの酒だと好評だったよ。売り出すのは来週からだそうで、披露宴で特別にと振る舞われたんだ。彼からこれを英里に渡してくれと頼まれてね。最初に詰めた一本だそうだよ」
私はそれを持ったまま自分の部屋に戻ると、視界を滲ませながら瓶を見つめた。
ふと裏にもラベルが貼ってあることに気付き瓶をまわすと、そこに現れたのは印刷されていない白いラベルが貼られ、油性ペンで書かれた手書きのメッセージがあった。
『英里ちゃんをイメージしてこの酒を造りました。ありがとう。そして少し早いけど、二十歳のお誕生日おめでとう』
その数日後の誕生日の夜、家族に祝ってもらった夜に一人部屋で瓶の封を切った。
味見という名目で「お酒の味」は数々経験させられていたけど、初めてお酒として呑み酔うことになったお酒。それはかすかなほろ苦さの上にほんのりと軽やかな酸味と柔らかなお米の甘さが花がほころぶように広がって、私には優し過ぎる味だった。まるでそう、佐山さんのように。
その後、友達の紹介や知り合った人と付き合ってはみたけれど、彼のように何かに情熱を傾けてるような人はいなくて——
うっかり、お酒の製法ではなく、無理矢理記憶の底に封じていた「私にお酒を教えてくれた人」のことを思い出してしまい、動揺した。懐かしい、と言うにはまだ時間が足りない初恋の思い出。
「な、なんで余計なことまで思い出しちゃうのよ」
目頭が熱くなっていることに気付きこのままじゃだめだとひとりごちながら顔をあげると、目の前、カウンターの向こうに蓮也くんが立っていた。
「こ、ここで何してるの」
驚き焦って思わず声がひっくりかえってしまう。蓮也くんもそんな私を見て驚いた顔をした。
「何って、そろそろ大将が仕入れから戻ってくるから準備をしにきたんだよ。女将さんが明け方から厨房に籠ってたって言ってたからてっきり疲れて寝てるのかと思ってたけど……泣いてたのか?」
「なっ、なっ、なんでもっ。ちょっと失敗して落ち込んでただけよ」
気付かないうちに涙が溢れてしまっていたみたいで、あわてて手の甲でぐしぐしと目の下を拭う。
「なんだよ、つまんねーな。そんな泣くことかよ。大将も言ってるだろ『挑戦するなら、慎重に思慮深く挑め。だけど失敗に怯むな。それは次へ進む標だから』って男の哲学。ほんと大将、かっけーよなぁ」
一応励ましてくれてるんだよね?
私は、気恥ずかしさをごまかすようにさっさと席を立つと、記録用のノートを片付け、隣の椅子の背にかけていた店の揃いの前掛けをつける。
「よし、失敗上等。このままどんどん失敗して間違い探しをして、正しい方法を見つけてやる!」
「なんだかすげー地道だな。俺なら山勘で勝負に出るけど」
「……大将の男の哲学はどうしたの。慎重に思慮深く挑めって言ったじゃない」
「失敗に怯むなってことが言いたかっただけだ」
「はいはい、ありがと。蓮也くんのお陰で色々元気でた! さあ今日も一日頑張りますか」
結局、その後も何度か苦い思いをしながら記憶を辿ってみたけど、この段階でのヒントになるものはあまりなかった。
仕方なく、分量や温度など何パターンも試して試行錯誤することになった。
その後も、なんとか酒の仕込みに入っても発酵が上手く進まずといった問題を乗り越え、ようやく満足いくものが出来たのは、暑さも和らぎいくぶん空が高くなった九月に入った頃だった。