2.噛み付かれて
体を引くと地面からすっぽ抜けてもなお私の手から離れないそれを、無事な左手でたたき落とした。
「いたいなっ、うわぁ血が出てるし。なんなのこれ、松茸じゃないのかな」
パニックな中でひとりごちて心をなだめ、私はポケットからハンカチを出して止血する。
「毒を持ってなきゃいいけど。どうして松茸が咬むんだろ、信じらんない。って、動いてる!」
見れば、赤松の根元を囲むように点々と生えていた松茸が、にょっこりと背伸びをするように揺れて、地面から飛び出した。
それはぴょんぴょん跳ね回りながら私を包囲する。
そしてその松茸の傘には、ぱっくりと口が開き鋭い歯が並んでいた。
「キノコに口? しかも傘にとか構造おかしくない? ありえないでしょ」
疑問を口にしながらも、頭の中はフル回転でここから逃げ出すことだけを考える。
とにかくここを逃げなくちゃと振り返って、私は呆然と立ちすくんでしまった。
つい先程抜けて来た朽ち果てたお社でなく、そこにはまだ木の香りが匂い立つような真新しい白木のお堂が建っていた。
夢か現か幻か。
混乱している間にも、近の木陰からもキノコ達が現れすっかり取り囲まれてしまった。
仕方なく、神社に入る前にリュックに収納していたアルミの折りたたみトレッキングステッキを取り出し、伸ばして構える。
やがて一匹が飛びかかるのを合図に、一斉にキノコ達が飛びかかってきた。
私は夢中でステッキを振り回すが、細い杖身をキノコに当てることが出来ない。
「やっ、くるなぁ! いったっ、くるなってば」
あっという間に頭突きするように飛びかかってきたそれに、服の上から次々噛み付かれてしまった。
私はステッキを投げ捨てて必死でキノコを掴み引きはがし投げることしか出来ない。
なんとか顔に噛み付かれるのは手ではたき落とし防げているけど、それも時間の問題だった。次第に手足が重たくなり動きが鈍くなっていく。
嫌だけど、このまま死んじゃうのかな。
熱いものが目からこぼれ、鼻の奥がつんとする。
肌が穿たれる痛みに思考も感覚も麻痺し自暴自棄になりかけた時、異変が起きた。
ぽろり。と、噛み付いていたキノコが一つ、触れてもいないのに手首から落ちる。
そしてまたひとつ、ひとつと次々落下していく。
あっという間に全てが落ち、足もとがきのこだらけになった。
私はいつキノコがまた飛びかかってくるかと恐れおののき、祖母の教育からキノコを足蹴にすることに若干の後ろめたさを感じながらも蹴散らし踏みつけようと右足をふりあげた。
「神域で殺生はならん」
厳しい声が背後から発せられ、私はびくりと身体を振るわせた。
同時に足もとのキノコ達も動揺したかのように身体を揺らす。
そして真新しい社殿の裏の扉が開き、白い衣の男が現れると、キノコ達は蜘蛛の子を散らすように走り去り、私は片足をあげたまま身体がすくんでしまった。
自分を見る男の冷たい視線に我にかえると、私は念のため足もとをもう一度見て、何もないそこにそっと足を降ろした。
「あの、宮司さんですか。その、勝手に入ってごめんなさい。でも、松下さんからお山の松茸とりの許可を貰っていて……」
「お前は――の者か」
「は?」
服のあちこちが破れ血を滲ませる私は、思わずすっとぼけた声を出し首を傾けた。
「――より迷い来た者か」
頭のなんらかの名詞らしい言葉が聞き取れない。
目の前の男、着物というより作務衣に近い作りの白い衣装の彼は、顎に手を当て険しい顔をした。
その顔の造作は平凡だ。若くもなければ老人でも中年でもない。
パーツを見れば整っているに違いないのに無個性な顔とはこの事を言うのだろうか。
注意をしなければ存在を見失ってしまいそうだ。
私は現状を把握させてくれそうな唯一の存在を必死で睨みつけた。
「いったい、なにがどうなってるんですか。どうしてキノコが動いて噛み付くんです。それにこのお社、こんなに綺麗だったはずがないんです」
通り過ぎる時、この手で柱に触れ、シロアリの喰った跡の木粉が手につき払ったのを確かに覚えている。
「こっちに来なさい」
男はそう言うとスタスタと木々の間を歩き始めた。
振り返りもせずどんどん進む男の姿に、私は足もとのステッキを拾うと慌てて駆け出した。
足首に紐を飾りのように巻いただけの素足が踏みしめる落ち葉や枯れ枝は、音を立てない。
まるでガラスの上を歩くようにひたひたと進む男の後を、私は再びあのキノコが出てきやしないかと身をすくませてついていった。
そしてふいに男が立ち止まり、私はその背中に顔をぶつけてしまった。
やわらかいひやりとした感触に、鼻先をネズの葉のような香りがくすぐる。
もしかしたら幻か幽霊かと疑っていたが、実態があることを感じられて嬉しかった。
「そこの泉で身体を清めるが良い。泥臭くてたまらぬ。そのみじめな怪我も癒えよう」
キノコのせいなのにとひどい言われようにむっとしながらも、男の指した先にある泉に目を奪われた。
手を広げた幅ほどしかない窪みに、白い砂を巻き上げながら美しい清水がこんこんと湧き出し、そこから横の斜面にごく小さな沢となって水が溢れ流れ落ちていく。
ここを私の血で汚すことが憚られ躊躇していると、男は私を冷たい目で見下ろしせかした。
「うそっ、何これ」
恐る恐る傷ついた右手のハンカチを外しそこに浸すと、目の前でえぐれたピンクの肉が盛り上がっていく。そして薄ピンクのものに覆われたかと思うと損傷した肌が再生した。
見れば、昔包丁で傷つけた指の古傷すら跡形も無くなっている。
傷ひとつない自分の手に見入ってると、男が早く入れと苛立った声をあげた。
だけど、男自身は腕を組み見下ろしたままそこから動く気配がない。
この男に私の珠肌を晒せと?
抗議声をあげようとすると、男は冷たい声で言った。
「今すぐ入って傷を癒すのだ。あの――は毒があるのだ。心に染みた毒はこの泉でも癒せぬぞ」
毒と聞き、私は咄嗟に男に従うことを決めた。
蛇や毒虫に咬まれた時は、迷いが命とりになると教えられていたから。
私は観念してリュックを地面に降ろした。
その上に、帽子、ウィンドブレーカー、シャツと脱いだものを乗せていく。
きっとこの男は特殊な宮司さんなのだろう。俗っぽさは皆無、怖いほど神聖な雰囲気に気圧され、更にあれはお医者さんみたいなものだと頭の中で念じて羞恥心を押し殺す。
さっきは痛い目に合い死にそうになったんだ。それに比べればと温泉の脱衣所でのように威勢良く服を脱ぐと泉に飛び込んだ。
あまりに綺麗な水の心臓麻痺を起こしそうなほどの冷たさに、一気に肌が粟立ち身がすくむが、すぐに飛び出したいのをぐっとこらえ腹の底に力を込めて肩まで浸かる。
「なんとはしたない。神聖な――に入るのに無作法にもほどがある」
そしてやっぱり怒られた。
男は私の肌を見ても全く表情を変える事なく私を見守っていた。
居心地の悪さを感じながらも、光を翻す水面の中へ目を凝らせば、先程のように体中についた傷が癒えていく。
感嘆の声をあげ夢中で見入っていたら、腕を掴まれ泉から引き上げられてしまった。
外は暖かい、と思ったのも束の間、吹き付けた秋風に身をすくませあわてて荷物からタオルを取り出して水気を拭く。そして虫食いのように点々と穴があいてしまった服を再び身に付けた。
ふと男を見れば、泉にかがみ込み中に手を浸けて何かを唱えていた。
「あなたも、怪我をしたんですか」
「違う、そなたが穢した水を浄化したのだ。この水を口に含むがいい。穢れを払い恵みを与えよう」
腹立たしげに口にする男に色々と思うところはあるけれど、言われた通りに泉の水を口に含み、というか飲んで喉の乾きを癒し、身支度を整えた私は改まって訊ねた。
「すみません、教えてもらえますか。いったい私はどうなってるんでしょうか。さっき教えてくださったけれど言葉がよくわからなくて」
男は黒い、どこかに引きずり込まれそうなほど深く黒い瞳で私をじっと見つめると、今度は言葉を選びしながら話してくれた。
「そなたは禁を犯し神域に踏み込んだ。だが、そなたの界の神が不在だったお陰でこちらの界に迷い来たようだ」
「かい……」
「我らの言葉で――と言うが恐らく聞き取れぬだろう。せかい、という言葉なら分かるか。大神はこの世に界をいくつも作られた。それは同じ時に生まれ同じ成りをし同じ時が流れている。だが、そこに住まわされた神は違う。だから同じものだが違う、それが界だ」
男の言うことがよく理解できずに困惑しながらも、これだけは分かった。私はあの群馬のお山ではなく違う場所にいるらしい。
周囲を見回す限り、同じ地形の秋の山の中にいるというのに、違うのはあのお社にこの男、そしてあの凶暴キノコだけ。
「なに、すぐにこのことは理解するだろう、運の無い娘よ」
「ちょっと待ってくださいよ。運がないってどういう……私、帰れるんですよね?元の界に、私の家に」
「わからぬ」
「分からないって、詳しい人なんじゃないですか、偉い人なんじゃないですか、あなたは誰なんですか」
すがるように矢継ぎ早に問いかける私に、男は一言告げると、そっとその瞳を閉じた。
「待って! 置いていかないで!」
私は男に手を伸ばしその腕をつかもうとしたがその手
すると男の存在はまるで霞のように薄くなり、かき消えた後にはあのネズの香りがほんのりと漂っていた。