19.契約
「それについては、初対面の方には答えたくありません」
私は、眼鏡越しの冷たく射るような緑の瞳を見つめながら、きっぱりと言い切った。そしてそれに対する返答のように、ミカゲさんの右眉があがる。
私はへの字に結んだ口で拒絶を示し、二人は無言で睨み合った。
そして長い間、といっても実際は二、三分程度沈黙が続いた後、二人の口から声が漏れた。
「ふっ、くっくくくっ…あはははは」
「ふふふふっ、あははっ」
笑い始めたのはどちらからなのか、とにかくほぼ同時に私達は忍び笑いから、部屋中に響く明るい笑い声をたてる。
「そうか、答えたくないならそれもいいだろう。それにしても、そんな必死にならなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい、妙に構えてしまって。色々事情があってお話できないんです」
「まあそうだろうね。アタシも強引過ぎた。悪いね、魔力を持たない人間は初めて見たから余計に気になって。探究心は魔法使いの性って言うけど、つい好奇心がうずいてねぇ」
「えっ、大貫さんは持ってる魔力が分かるんですか」
「ミカゲでいいよ。近所の連中からは月影荘の大家って呼ばれることのほうが多いんだけどね。魔法刻印師をやってる。この道が長いせいか魔力の匂いっていうのかね、気配で大きさを感じれるんだよ」
「気配、ですか」
「まあ、そのへんも事情がありそうだ。いつか気が向いたら話しておくれ」
「はい。でも私も驚きました。この家、よくみたら英語の本でいっぱいじゃないですか」
私が部屋を見渡すと、窓のついていない壁は全てぎっしり詰め込まれた本棚が並んでよくこの年季の入ったアパートが傾げないのか関心する。
「これは全部私の父が残したものさ。私の父は英国と縁がある人でね。英国は魔法先進国だから古い本とはいえ貴重なものばかりさ」
関心しながら見渡していて、私はあることに気付いた。
部屋が広い。
外観からして、せいぜい1Kで八畳あればよさそうな小さなアパートなのに、片隅にキッチンのあるこの部屋だけで十畳ありそう。そして左に扉があって……。
そんな私の視線に気付いたのか、ミカゲさんは一階は全室つなげて自室にし、上の階を貸しているのだと教えてくれた。
「なんせ、年をとると階段は出来るだけ使いたくないからね。さて、ちょうどお茶の時間だし紅茶でも飲みながら仕事の話をしよう。砂糖はいくつかい、ミルクは」
「ひとつでお願いします。ミルクは無しで」
ミカゲさんは片目をつむって立ち上がると、お店のと同じ魔法式のコンロに置かれたヤカンに何か呟くだけで湯気をあげさせ、優雅な手つきで紅茶を淹れてくれた。
あれ、普通コンロを使うとああはならないよね、今のが、もしかして魔法?……初めて目にしたそれに驚いて大口を開けて固まる私の前を見てミカゲさんが悪戯っ子のような顔をする。
ほんと面白い反応をする子だねと笑われながら、私に青いカップが差し出された。
内側の白い磁器肌に映える赤みの強い琥珀色の液体から立ち上る白い湯気に包まれた香りを、私は胸いっぱいに吸い込んだ。ああ、これはアールグレイだ。
そういえばこの世界に来て、お茶といえば日本茶ばかりだったなと久しぶりの紅茶の香りを懐かしんでいると、この味も知ってるようだねと呆れられてしまった。
帝国と蜃が睨み合ってた時代、その中間にあった諸国の一つ、私が知るインドを、当時帝国と同盟関係にあった英国が一足先に乗り込み占有権を主張した。
だけど蜃の激しい攻撃に耐えきれず帝国に譲り、現在も当時と変わらず帝国と同盟関係にある英国は、その地に関する利権や交易商品の関税を特別優遇されているらしい。
そのお陰でイギリスに紅茶文化が浸透し、帝国内でも紅茶が広まった。ただ、日本はもともと自国のお茶の文化がある為に関税で馬鹿高い帝国商品の紅茶は浸透せず、贅沢な嗜好品なんだとか。
うん、確かにそのへんのお店で見たことがないわけだ。
ちなみに、コーヒーはばっちり普及していて、豆の種類も豊富で価格も安価なものから高級なものまで様々な豆やコーヒー製品が簡単に手に入り、小さな食料品店のようなお店でさえなかなかの品揃え。
コーヒーも好きだけどやっぱり、繊細な焼き菓子やサンドイッチは紅茶で食べたい時もある。
よく見ると、外観も内部も日本の古式ゆかしい木造アパートだけど、家具や雑貨、特に食器類は決して古くないものまで英国風だった。
そんな不思議に居心地の良い部屋で、私はミカゲさんにしげるさんに依頼した箱でやりたい事、欲しい機能について細かく説明した。
魔法刻印師というのは、魔法の発動と効果の維持の呪文を紋章化するお仕事。そして名前の通りそれを刻み込むんだそう。
私達が日頃手にする魔法仕掛けの道具の数々は大量生産の廉価版で、各企業に所属する魔法刻印師の作った紋章を機械で打刻してしまうらしい。
そしてミカゲさんはオーダーメイド専門で、一点ものから小ロットのものまでしか受けないんだそう。
魔法と製造の関係を安易に考えていた私は、予想していた金額よりはるかに高くついてしまうんじゃないかと内心冷や汗をかいていると、魔法の種類と組み合わせる数によって価格が決まり、個人でも手が出ないわけじゃないことを説明してくれ、その値段表を見て胸を撫で下ろした。
ただ、私の希望だと細かい温度調整の所が複雑な為に、しげるさんに依頼した箱の費用にプラス魔法刻印代で四万円ほどはかかる。ただし、提案に乗ればそこをタダにしてもいいと言う。
タダより高いものはない、というけれど、今の私は節約できるものならそうしたい。
「ミカゲさん、本当にそれでいいんですか。少しは払わせてください」
「いいんだよ、叶わないことだと思っていたから渡りに船だ。それにあんたの労力を考えるとそっちのほうが負担かもしれないだろ」
「いいえ、そんなことないですよ。私にとってもこれはメリットがありますから」
「じゃあ契約成立だ。これがその本だよ」
ミカゲさんが机の中から愛おしそうに差し出したのは、一冊の薄い本だった。
本棚に並ぶ本に比べれば最近のものだろうけど、紙は黄ばみモノクロでそれなりに古いものなのが分かる。
両手で受け取り中を開けば、片面にイラストが、そして図解と共に英語の文字が並んでいた。それはレシピ本だった。
ミカゲさんの依頼とは、この中から四つを選んで毎月1つ作って欲しいとのこと。
英和辞典はないから多少の不安はあるけど、英語レシピを参考にした経験は何度かあるので材料の英語名や料理用語ならだいたい分かるし、図解もついてる。それにイギリス料理も一般的なものは知ってるからなんとかなるはず。
ただ、問題はここの食材が魔物だってことなんだけど。
キワモノ食材が登場しないことを祈りつつ私はその依頼を受けた。
もちろん手に入らない食材は日本のものに置き換えると断りを入れ、私は受け取った本を丁重にバッグに入れた。
「まさかこういう機会が来るなんてね。アタシは子どもの頃に寝物語に父から英国の話を聞いて憧れててたんだよ。特に菓子をねぇ。何度かやってみようとしたけど、料理が苦手なのもあってすぐに諦めてね」
「そうなんですか。じゃあ紅茶に合うお菓子を多めに選びますね」
「ああ、よろしく頼むよ。アタシも腕によりをかけて作らせてもらうからね」
話し込んでるうちに時計の針が四時を指し、私はそろそろと暇乞いをして帰り支度を始めた。
その時、玄関の扉が勢いよく開くと、少女が中に駆け込んで来た。
中学生くらいの小柄な子で、ミカゲさんとお揃いのおかっぱ頭の黒髪を乱し、息を切らせている。
裾にレースの縁取りがついたロイヤルブルーのタータンチェックのミニスカートに、涼しげな丸襟の白い半袖ブラウス、その涼やかな姿を台無しにするかのように丈の短い黒いマントをつけ同色のとんがり帽を被っている。
その異様な出で立ちにぎょっとしていると、少女は私に構わずミカゲさんに抱きついた。
「お師匠様! ただ今帰りました」
「ルリ、お客様がいらしてるんだよ。行儀よくおし」
ミカゲさんの言葉に、汗で髪がいくぶん頬に張り付かせながらどことなくミカゲさんに似た彫りの深い整った顔がこちらを向く。
文句無しの美少女、なのだけどマントと帽子が色々と台無しにしている。
「あら、気付かず失礼しました。ようこそいらっしゃいました。魔女見習いの大貫ルリと申します。ルリはお師匠様の一番弟子ですの。どうぞお見知りおきを」
「花沢英里です。今日はミカゲさんにお仕事の依頼に来ました」
「まぁまぁそうですの! それはよくいらっしゃいました。うちのお師匠様を選ばれるとはお目が高い。うちのお師匠様は全国の魔法使いでもトッむぐぐぐ」
目をキラキラさせて語り始めたルリちゃんの口を塞ぎながら、ミカゲさんは猫の子をそうするように襟首をつかんで彼女を引き寄せた。
「驚かせて悪いね、ルリは私の姪で、両親が仕事で帝国に赴任している間うちで預かってるんだよ」
「ルリは一人前の魔女になる為にお師匠様に弟子入りしたんですの。ですから姪ではなく弟子とお呼びくださいと何度言えば……」
「私、魔法使いに会ったのはミカゲさんが初めてなので何も知らなくて、この姿が魔法使いの弟子の制服みたいなものなんですか」
「あはは。いや、特に決まった格好などないよ。専門によっては薬草や薬品を扱うから白衣を着るが。あとは所属団体によってはあるかもしれないね。両親の帝国行きでこの子のビザが下りなくて、アタシと日本に残ることを受け入れるかわりに弟子にしろと迫られてこの通りさ。魔法の筋はいいのだけど、この通り魔法使いに少し思い入れが強い子でね。小さい頃からここに出入りして本を読み漁っていたせいか、こんな風にちょっと変わった子に育ってしまって。よかったらこの子と友達になってやってくれないかい」
つまり、魔女帽子にマントはただのコスプレで、一般的ではないらしい。
概ね元の世界と変わらない服飾文化の中で、この魔女コスチューム、しかも真夏にその姿で出歩くなんて……。
ミカゲさんの苦さを漂わせる口調から、「少し」や「ちょっと」が「かなり」という言葉をオブラートで包んでいることが分かる。
でも魔法使いと仲良くなるのは、この世界で生活するのに役立つかもしれないし、魔法使いに興味もある。
それにミカゲさんはいい人みたいだし、しげるさんと親しい人なら信頼もできそう。ルリちゃんも、変わってるけど悪い子じゃなさそうだし。
戸惑いながらもミカゲさんの懇願するような視線に背中を押され、好奇心と打算を胸に魔女見習いのルリちゃんと握手を交わした。
その握手が悪魔との契約だったと知るのに、そう時間はかからなかった。