15.龍の雨
砂浜に縦に八人、八列の締め込み姿の男達が整列している。
夏の日差しの下で褐色の肌に映える白いそれが眩しい。
その老若入り交じった男達前に海を背にして立つのは、女将さんのお兄さんの健一さん。
会って2日。穏やかで笑顔が耐えない紳士のイメージだった健一さんが、豹変していた。
肩にひっかけた法被を海風にたなびかせ、締め込み姿で腕を組んで仁王立ち。
その形相は……鬼だった。
そして、その前に並ぶ男達は獣だった。
「おうっ、おまえら準備はええかあっ」
「おうっ」
健一さんのドスの効いたかけ声が続き、それに呼応する返事もだんだんと言葉にならぬ咆哮になっていく。
始まる前に、二日酔だと砂浜に転がっていた人も少なくないのに、皆気合い充分だ。
そしてそこに、白い神主装束で裸足の女将さんのお父さんと巫女装束の亜紀さんが続く。
一同は一斉に海を向くと、その視線の先をお父さんが亜紀さんを従えゆっくりと波打ち際から海の中へ二歩三歩と入っていく。
膝まで海の中へと入ると、手にした榊を両手で掲げ祝詞を詠唱を始めた。
その声は海風に乗って沖へと流され、浜で見守る人々にはかすかにしか届かないが、皆黙って見守っていた。
祝詞が終ると、亜紀さんが手にした桶で海水をすくい、二人は並んでる人達の前に戻った。そしてお父さんが桶の海水に手にした榊をひたすと、一人一人に雫を振りかけていく。
ようやく少し場が和み、参加している男の人達の家族が応援の声をかけたり冷やかしたりする。
私は昨夜の手伝いで顔見知りになった奥さん達に声をかけてもらい、見物客が並ぶ人垣の中ではなく、運営委員のテント横の婦人会のテントの中からお祭りを見せてもらっている。
もちろん、祭りが始まる前に皆さんに揃いの手ぬぐいを配ったり、賓客だという地元出身の議員さんにお茶を出したりと手伝わされた。それでもこの席は充分その価値があった。だって真正面にばっちり親方達が見えるから。
昨日の準備で少し焼けたけどさすがに周囲の漁師さん達に比べると色白。だけど普段特に鍛えていないのに筋肉が隆と浮き上がり胸板も厚くい。また胸や腕、脚を覆う体毛は濃いめでより男らしさを強調して、大将の締め込み姿は本当に決まっていた。 ただ、こっちに来る当日に髭を綺麗に切りそろえたので、あれがいつも通りの無精髭だったら最高だった。
何気なく横を見れば、並んで見物している女将サンがうっとりと目にハートマークを浮かべている。
昨日の夜の宴会で聞いたところによると、健一さんが学生時代、友人の大将を祭りに誘って一緒に帰省し、そこで二人が出会ったのだそう。そこで大将に一目惚れした女将さんのアタックもあって、3度目の祭りでゴールインしたらしい。そんな二人は今もこの通りラブラブで、見ていて少し羨ましくなってくる。
そして大将の後に立つのは蓮也くん。うん、親方と同じように色白で周囲から浮いてはいるものの、現代の若者らしい手足が長いスタイルの良さに日頃の趣味の筋トレの成果かそれなりにいい身体をしている。
それを見ている私の周囲の奥さん達から、さっきからずっと黄色い声が飛び交っていた。
その声に連られこちらをちらりとみた蓮也くんは、私と目が合うと頬を染めてあわてて顔をそむける。
それを見た奥様から更に「かわいい!」などと嬌声があがる。
うん、分かるよ分かる。奥さん達も自分達の旦那さん達に声をかけてあげればいいのに、一人だけ声援をもらってすっかり周囲の男性陣からは睨まれ針のむしろだものね。
私は空気を読んで黙って見ているから、頑張って!
そう心の中で声をかけていると、急にその場がどよめき、男の人達の声があがった。
「いらしたぞ! 中津様だ!」
私は息を飲んだ。
皆の視線の先、入江の向うの大海原から何かがやってくる。
目を凝らすと、近づくにつれそれはだんだん大きくなっていく。
「蛇?」
私がぽそりと漏らした言葉は周囲の歓声に飲み込まれて誰の耳にも届かない。
最初は遠目に見える鎌首をもたげたような姿にそう思った。だけどだんだんとその姿形がはっきり分かるようになり、全く違う存在だと分かる。
「龍、龍だわっ」
私は叫んだ。目の前には絵でしか見た事のないそれと同じ姿の巨大なものが海を渡ってきていた。鈍青色の鱗に、獅子に似た頭に金色の鬣、そして鹿のような角。手足を持ち蛇のように長い身体を波間に見せながら悠々と近づいてくる。
その姿は綺麗だけど恐ろしくて、ぎょろりとした目を見て恐怖を感じた私は、ここから逃げなきゃと思った。熱狂の中で詰め寄る人に挟まれ逃げることも出来ずパニックになっていると、私の様子に気付いた女将さんが私の手を握った。
「英里ちゃん、大丈夫よ。あれは海神様の龍よ。怖いことは何もないから。ほらよく見てごらん、あそこに中津様が乗っていらっしゃるでしょう」
女将さんの指す先、入江の外まで接近した所でぴたりと停まった龍の頭の上には、中津様がその角に捕まり立っていた。
そして私達に向けて手をあげると、それに呼応するように龍が天に向かって飛び上がった。
鈍青の巨躯が上昇する勢いで強い海風が吹き、高い波が最前線に並ぶ男達を飲み込もうとする。
それを男達は全身に力を入れ思い思いのポーズで受け止めて見せる。
そして、頭上を旋回する龍の尻尾が私達にまで海水の雨をまき散らすと、観客は皆よろこんで服が濡れるのも構わずそれを身体や顔で受け止めた。
私も女将さんや奥さん達にテントの外に引っ張り出され、龍の雨の洗礼を受ける。
「女将さん、すごいです。こんなお祭りだったなんて!」
興奮してはしゃぎまわる私に、女将さんは追いかけてきて私の腕をつかむと海側へと身体を向ける。
「今のは中津様の開会宣言のようなものよ。本番はこれから、ほら船が出て来たでしょ。これからは海の上が舞台になるのよ」
女将さんの言う通り、入江の左右から漁船が十叟以上海の上を走ってきた。
そして大波を耐えた男達は思い思いに叫びながら、海に飛び込んでいった。
少し先、入江の中程には、いつの間にか昨日用意されていた新造の船が浮かんでいて、漁船はその近くに集まる。よくみれば漁船を動かしている人達も、締め込み姿で揃いの法被を着ている。
「あの船には中津様の加護を受けた銛が乗っているの。一番早く泳ぎ突いて赤いのを取った人が一番に挑む栄誉を得るってわけ」
「何に挑むんですか。もしかして、さっきの龍ですか?」
「あはは、英里ちゃんったら。海神様の龍にそんなことしたら罰があたるわよ。そっちじゃなくてあっち。ほら、これでもう少し沖の方を見て御覧なさい」
私は言われるままに、手渡された双眼鏡を目にあてる。
どこを見て良いかわからず、海上に目を走らせていくと、早くも5人の男を乗せた船が走り出した。皆手に柄を白く塗った銛を持っているけど、確かに1人だけ赤いのを持っている人がいた。
「女将さん!大将です!大将が赤い銛を持って、ほらあそこ」
そう言った途端に、私の手の中の双眼鏡がむしり取られてしまい、女将さんの嬉しそうな悲鳴があがる。
私は他の見物人と同じように懸命に目を凝らした。人の顔まではよく見えないけど、それでも船に何が起こってるかは分かる。
入江の出口まで進んだ漁船が不規則にふらふら横に揺れたかと思うと、いきなり大人の胴よりも太く長い黒ずんだ触手のようなものが海中から伸びて船に巻き付こうとした。それを、乗員が銛で果敢に撃退する。
すると今度は追いついた他の船に別方向から突き出された他の触手が鞭のように打ち降ろされ、やはりそれをいくつもの銛が払いのけた。
船を襲い海上を暴れる触手は十本にも及ぶ。その何かの巨大生物と戦う男達の姿に、私は茫然としながら訊ねる。
「女将さん、あれは、あれは何ですか」
「クラーケンよ。あれを今から皆で倒すのよ!」
頬をバラ色に染め目を潤ませ興奮を抑えきれない声で答えた女将さんは、船の上で果敢に赤い銛を振り上げる大将に腕を振り回して大声で声援を送った。そしてこの浜にいる人達全員が、海の巨大魔物に挑む男達に向けて熱い声援を送っていた。