14.対話
「入っても、いいのですか」
「招いておるのはこちらだ。それとも……」
中津様が私に歯をむき出して笑った。
「怖いか」
私は肌がちりりとする空気に気圧されて思わず一歩下がってしまう。だけど畏怖ですくみ震える足を叱咤し、足を戻した。
「怖いです。怖いけど中津様に教えて頂きたいことがあるのです」
そう言って思い切った私は、緑に包まれ清涼な風が吹き抜けるその中に踏み込んだ。
侵入者の気配に驚いたのか、屋根の上を飾る千木にとまっていた鷺が、一声鳴いて薄青い翼を広げ飛び去つ。
大社造りは高床式となっている。中津様はさっさと一足飛びにその階段を登っていったが、私は登らずその二段目に腰掛けた。
「中には入らぬか。まあそれが良いだろう、あとで亜紀が煩いしな」
そう言った中津様は板戸を背に腰を降ろし、私は身体を横に向けそちらを見上げた。
「どうした、問わぬのか」
「答えていただけるのですか」
「ふふん、神を知らぬ世界の者は面白い、神が地上より去った界では無知で無作法に堕ちるのだな。神は崇める人間には対話を許す。だが神力を使うのは自らの意志でのみ。人に乞われたからとおいそれ使うことはせぬ」
「神様が人が対話、ですか」
「ああ、それも気が向けばだが。そなたは氏子ではない。だが昨夜のこともあるし今だけ特別に許そう」
「ありがとうございます。私が別の世界から来た事はご存知なんですよね。なら中津様のお力で私を元の世界に帰してもらえませんか」
「無理だな」
あまりにあっさりと答えられ、言葉に詰まる。でもここでちゃんと訊いておかないと後で絶対後悔する。白川様と会った時のように。
「なら、私はどうすれば元の世界に戻れるのでしょうか」
「お前の神は何と言った」
「白川様は、ただ、『共に戻る者を見つけよ』とだけ……宮司の八坂さんに、白川様とお会いしたらもっと詳しく聞いて欲しいとお願いはしたのですが、こちらに来ている同じ世界に戻ることを望む人を連れてくるようにとしか仰らないそうなんです。どうして一人では元の世界に戻れないんですか、あと私の中にある神様の力って何のためにあるんですか。何かすごいことが出来たりするんですか」
「まあおちつけ。白川神とは気難しい神のようだな。まあえてして神とはそういうものだが。ふむ……それにしてもその神は帰路を知っておるのか。他界への路へと繋がる聖域は少なくなく迷い人も稀におる。だがその帰路を繋ぐことは、私や兄妹神の力をもってしても出来ぬこと。……娘よ、その神は神名を名乗らなかったのだな」
私は必死に記憶を辿った。
「いえ私には名乗られませんでした。神社の縁起にも、泉をここに湧き出させた神様とだけ。お年寄りはおしら様と呼んでいましたけど。そうそう、その泉を源流とする川は神様の名をとって御白川って言うんですよ」
「白川、か。ううむ、泉というからにはそこは山なのか? 山であれば名は」
「川と同じで御白山です」
「白山……その神は男神か女神か」
「顔がよく分からなかったけど、見たままのお姿なら男神でした。けど八坂さんは夢枕に現れるのは女神だと言うのです」
腕を組んだ中津様は唸った。
その様子にこれはあまり良いことではなかったのかと私は顔を曇らせる。なんせ私の行く末がかかっていることだ。不安に胸が押しつぶされそうになり、思わず涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえた。
そんな私に気付いた中津様は、表情を和らげた。
「案ずることはない、むしろ喜べ。その神に心当たりが一人だけある。もしその神ならば、確かにお前を元の世界に戻せよう」
「本当ですか、どんな神様かご存知なのですか、ぜひ教えてください」
「名を伏せておるのなら今それを明かすわけにはいかぬな。だが先程の問いには答えるなら、界と界の間には道がある。恐らくこちらに来るには坂を転がるように瞬く間だったはずだ。だが帰りの道は険しい。まして神ではなく人の身であれば尚更だ。白川と名乗るその神は人の縁を結び界をも結ぶ、結びの神であろう。その力をもって界の道を結ぶことが出来るはずだ。だから連れが必要というなら、その為の条件なのやもしれん」
「一人では帰れないけど、二人なら……やっぱり言葉通りの意味だったんですね、ありがとうございます」
私はほっと胸を撫で下ろした。その為に今まで準備を重ねてきているのだから。
よかった、本当によかった。
帰る方法がはっきりと分かり、私は嬉しくて膝に置いた水筒に帽子を抱きしめ、足をバタバタと動かした。
「こらはしゃぐな、よろこぶのは早い。界を渡る者は昔からしばしばあるとはいえ、その数は少ないのは分かってるな。帰ることを望まぬものもおるだろうし、そなたのように神の加護を受けていなければ帰ることは出来ぬ」
中津様は立ち上がるとゆっくりと階段を降り、横に来ると身を屈めた。骨張っているけど綺麗な指が私の左胸を突く。その瞬間、そこが白く輝き、どくりと心臓が大きな鼓動を打った。
痛みはないけどその衝撃のに思わず手で胸を抑えると、光は消え元通り心臓は同じリズムを刻む。
「界を渡った時、その世界のものを口にすれば戻ることは叶わず。つまりその世界の素を身体に入れてはならぬのだ。素とは……この界では魔力と呼ぶものだ。知っておろう、地を流れ、生き物全てが内包している。もちろんそれを口にすれば異界のものでも魔力が蓄積する。その魔力は、お前の世界にはないものだろう」
私は真っ青になった。
食べてる!全力で食べてる!
この世界に来てからの楽しみといえば食べ物、それはもう積極的に色々なものを食べてる。そういえばこの世界の生き物は全て魔物だっけ。
人間が魔法力を持つように動物や植物も魔法力を持っているからそう呼ばれるのだとすると、私の中にはいったいどれだけの魔法力が溜まってることになるんだろう。
「なら私はもう、帰れないんですね……」
「落ち着け、泣くな。今はお前の話はしてはいないだろう。お前が持つ加護をなんだと思っている。神力を持つことで魔力を取り込まないようにするためだ」
「えっ」
「その証拠にお前、魔法は使えぬだろう」
「は、はい。魔力値ゼロだと言われました」
「魔力より上位の神力を身に持てば、魔力は身体に留まることが出来ぬ。それに神力は界を渡るのには妨げにはならんからな。だからこの界に来た時に神から加護をもらっている人間はお前と共に戻れるが、そうでない者は戻れぬのだ。分かったか」
「そんな……後で神様の力で魔力を取り除けないんですか」
「私の知る限り無理だな。神はそれぞれの役割のための力を持つ。魔力を浄化する力を持つ神はいるだろうが、今人の世にいるかどうかもわからぬ神を津々浦々捜すより、加護持ちの同界の人を探すほうが早かろう」
それからしばらく、私は黙って座り込んでいた。
他に何か訊けることはないかと自問するけど、今までに分かったことだけで既に許容量がいっぱいになってしまっている。
思考が止まってしまった私は、いつの間にか風で揺れる葉の触れ合う音、遠くの波の音や浜にいる人々の声、この庭に巣を持つ小鳥のさえずり、そして蝉の声、そういった音に聴き入っていた。
自然と心が落ち着いてきて、私は深く深呼吸した。
すると、中津様がようやく口を開き静かに言った。
「気負って焦り過ぎるな。お前は運を引き寄せる力がある。二神に会うなど神職の者でもめったにないことだ。それにせっかくなのだから、この界にいる間はここで生を謳歌するがいい」
その声に、ふと私は昨日から気になっていたことを思い出し口にした。
「あの、中津様が、他の神様と同じように天界に帰らなかったのはどうしてなんですか」
「ああ、海は我が身の一部ゆえ愛しく離れ難いのは当たり前だが、慕ってくる氏子たちも同じように愛しくてたまらぬ。一度多くの者達を失いこの地上での身の力も大半を失った。それでもここにいるのは未練かもしれぬ。笑ったり怒ったり泣いたりする人間を見ていたいという欲を、それを向けてくれるこの家の者達が叶えてくれる。そしてあのようにこの身を思う者たちの芽が広がり、この身に力も少しづつだが戻りつつある」
「人が、好きなんですね」
中津様は答えるかわりに、門の向うを透かし見るように目を薄めた。その口端がわずかにあがり微笑んだのが分かった。
きっとその目には、浜辺で汗をかき砂にまみれ、祭りの支度をする人々が映っているのだろう。
「色々、ありがとうございます」
「娘、いや英里だったな。迷うことはない。その願いを果たすための道を進むがよい」
「はい」
私は立ち上がると中津様に一礼すると門に向かった。そして開いたままのその隙間に身を滑り込ませる前にもうひとつ礼をし頭をあげると、そこにはもう神様の姿はなかった。
そして門を出てすぐ、振り向いた時には音もなくそれは閉じられていた。
改めて人用の門にまわり母屋に戻ると、奥が賑やかだった。
ただいま帰りましたと声をかけてそちらに行くと、台所から廊下に、野菜の詰まった段ボールに、魚の入った保冷魔法付きの木箱が所狭しと積まれている。それだけで、軽くお店の仕入れ量のを超えてる気がする。
台所を覗けばエプロン姿の女将さんに亜紀さん、そして年上の奥さん達6人が集ってお茶を飲みながら談笑していた。
その中心でコロコロ笑っている女将さんが、私を見て笑顔を向ける。
「あら、英里ちゃんおかえり。蓮也くんには会えた」
「ただいまです。ええ無事に会えました。大将も蓮也くんもお父さんもしっかり働いてらして……あの、食材すごいですね。何かお手伝いしましょうか」
「そうね、そうそうまず皆さんにご紹介するわ。私の娘——」
「あの、大将、じゃないや女将、瑞穂さんの旦那さんのお店で修行させてもらっています英里と申します。女将さんには娘のように可愛がっていただいて、こちらに連れて来ていただいてお世話になっています。微力ながらお手伝いさせてください、よろしくお願いします」
女将さんがまた周囲を凍りつかせる前に、すかさず自分から挨拶をした。すると何故か拍手が起こり、私は奥さん達に椅子とお茶をすすめられ、昼食代わりのお菓子や田舎寿司をご馳走になった。
そしていつの間にか女将さんがどこからともなく取り出した、ふんだんにフリルのついた白いエプロンを装着されていた私は、その後、段ボールの野菜を片っ端から皮を剥き指示通り切り奥様達から黄色い歓声があがった。それに気を良くした私はそのまま魚を捌いたり何品か作っていく。そして年長の奥さんが蕎麦を打ち始め、私は出雲蕎麦の配合やコツまで伝授してもらった。
中津様が言っていたこの世界を謳歌するのってこういうことかな。浜で夕方から始まった前夜祭という名の宴会が始まっても、台所で料理を作っては浜まで運ぶという裏方仕事を私は楽しんでいた。
「あら、英里ちゃんまだそこにいたの?ご苦労様。もういいわよ、せっかくなんだからあちらで一緒に楽しみましょう」
日が落ちて少し経った頃に、会場で給仕をしていた女将さんが戻ってきた。そして私は手を引かれ宴もたけなわな浜辺へ向かった。
松林の手前で振り返ると門が開き、両脇に篝火が灯っている。
私が思わず足を止めると、女将さんも止まり私に並んで振り返った。
「あれはお祭りの前夜に焚くの。それに夕方、皆で海水を汲んでこの道に添って撒いているのよ」
「海水を、ですか」
「そう、そうするとここは聖域に繋がる海になるから、中津様が好きに出入りできて一緒にお祭りを楽しめるの」
「一緒に……」
「そう。神様のためのお祭りなのにお神輿で運ばれるだけは嫌だって言うの。うちの神様、変わってるでしょう」
女将サンはそう言うと片足を引きくるりとまわって海を向き歩き出した。
「女将さん、中津様を好きですか」
私もあわてて歩きだし女将さんの後を追いかけながらそう訊ねると、驚きそして笑った。
「もちろんよ。時々意地悪な所もあるけど、私達を側で見守ってくださっているもの。私も家族も、氏子の皆さんもみんな中津様のことが好きよ」
松林を越えた私達は、楽しく飲み騒ぐ人の中にいた大将や蓮也くんと合流し、食べて呑んでその場をめいいっぱい楽しんだ。きっと中津様も一緒に楽しんでいるに違いないと思いながら。




