13.浜辺にて
前夜色々あったせいで……ううん、言い訳はやめておく。
私はすっかり寝過ごしてしまった。
人の家で寝坊するのは、咎められるわけではないけどなんだか決まりが悪い。
はたと目を覚ませば、障子に庭の木々の生い茂った葉の揺れる陰がくっきりと映っている。
午前十時をまわり、既に女将さんと千代さんを除いて皆出かけていた。
そして私は今、台所の片隅で恐縮しながら遅めの朝食をいただいている。
その朝食は、実に素晴らしかった。
豆腐のお味噌汁に、家の水田で収穫されたお米を羽釜で炊いたご飯、山菜の佃煮と焼き海苔、そしてまさかの生卵がひとつ添えられていた。
帝国の影響で米文化の発達が止まっているのこの世界で、米料理のバリエーションはあまり多くない。価格の高さもあって、手軽な食材ではないから。
普通に炊き上げた白いご飯におむすび、味ご飯にお寿司にお粥、そしてピラフやリゾットと一応一通りはある。
だけれど通り一遍のものばかりでもっと個人の好みに添った食べ方や創作的な料理は大将に訊ねても首を横に振られ、レシピ本にも載っていない。
そして、卵かけごはんもそうだった。食べたことがあるかと蓮也くんに訊ねれば、卵を生のまま? と不思議そうな顔をされてしまった。
そんな私の前に出された、江澄家のお隣の農家の庭を走り回る鶏のとれたて卵。
鶏といっても羽の色が青色をしているんだけど、烏骨鶏の親戚と思えばそこは気にならない。
女将さんの「生って抵抗あるかもしれないけどぉ、絶対美味しいんだから食べてみてっ!」という熱の籠った言葉すら右から左に流し、私はその白い卵をまるで宝石を持つように恭しく手にとった。
机の上にカチンと卵をぶつけると、お椀に割り入れる。あまり混ぜすぎないよう箸で白身を切りながら混ぜ、途中で醤油をひとたらし。
そして艶のあるご飯の上から一気にかけ、卵とご飯を軽く混ぜ合わせて完成。
私は卵を纏った黄金色のたまごかけご飯を、夢中で頬張った。
その滑らかで濃厚な滋味あふれる味に、心が癒されていく。
何よりその味が嬉しくて、思わず笑みがこぼれてしまう。
食べ終わって、ほうっと溜め息をつき余韻に浸る私を、横でお茶を注いでくれていた女将さんが微笑みながら見守っていた。
「英里ちゃん、具合はどう?」
「はい、よく寝させてもらいましたし美味しいご飯で元気百倍です」
「そう、でもあまり無理をしないでね。今日はみんな明日の準備で忙しいし、泳ぎに行くのも明日のお祭りの前にしましょう。今夜は明日のお祭りの前夜祭だから、私達も午後から少し忙しくなりそうだしね」
「はい。そういえば大将達は朝から浜のほうにいるんですよね、今から海を見て来てもいいですか」
「そうそう、浜で皆が明日の準備をしているのよ」
「道理で、さっきから外が賑やかだなと思っていたんですよ」
「うふふ、でしょうでしょう。きっともう櫓を組んでるはずだから。でも、もうすごく日差しが強いから、外に出る時はちゃんと帽子を被るのよ。辛かったらすぐ帰ってくるのよ」
「はい。後でお手伝いに入りますけど、それまでにも何か出来ることがあればいつでも声をかけてくださいね」
「分かったわ。そういえば蓮也くんには夜中に体調を崩したって言ってあるから、元気な顔を見せてあげてね」
蝉がわんわんと鳴き、青空の下で焦げつくような暑さの中に立っていると、まるで昨夜のこと全てが夢のように思える。
上を見上げれば日差しの強さに立ちくらみがし、あわてて女将さんに言われた通りに手にした麦わら帽子を被った。
江澄家を出た私は横の勝手口を出ると白壁伝いに進み、裏手に広がる浜辺へと向かう。
舗装されていない私道を歩くこと数分、目隠しのように海沿いに立ち並ぶ防風林の松林にたどりついた。目の前には白い砂浜に広い海と空の層が広がっている。
その砂浜では二十人ほどの男性陣が汗だくになって働いていた。
鳶姿の男の人がほぼ完成した櫓の上でロープを結わえたり、紅白の幕を張っている。
その周囲でも、町内会や婦人会の名前の入ったテントが張られ、女将さんのお父さんも頭にタオルを巻き、白い大きな紙を手にその場の男性達に指示を出している。
そしてトラックでこの浜まで運んできたらしい真新しい白木の船が、丸太を並べた上を8人がかりでゆっくりと滑らせ砂浜に運んでいた。そこに大将と蓮也くんの姿を見つけた。
二人とも頭にタオルを巻き、シャツを脱いだ胸や背中は日に焼けて既に真っ赤になっている。
私は皆の邪魔にならないよう、浜の隅に積んである防波ブロックに座ってその様子を眺めていた。
格式のある家にあまりラフ過ぎる格好もどうかと、今日は紺地に白の水玉が散るノースリーブのワンピース姿にしたけど、潮風の強さにスカートが舞い上がり、膝に帽子に押えないといけないのが忙しい。明日はやっぱり楽なパンツにしよう。
そんなことを考えていると、ようやく船が白い砂浜が一段色が濃くなる場所まで到達した。
歓声や拍手があがり、作業が一段落したのが分かる。
その時、ふいに大将が首を巡らせこちらを見た。
手を振ると、大将が何か言ったのか横にいた蓮也くんもこちらを見た。と思ったら、ものすごい勢いでこちらに走り出した。
途中何度か砂に足をとられ転びそうになりながらもなんとか堪え、私の所にたどりついた。
「お、おい、ぜぃぜぃ、お前、ぜぃ、大丈夫なのか、ぜぃぜぃ」
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから。それより、蓮也くんこそ大丈夫?」
「ああ、大将が行ってお前の様子をみて来いって、言ってくれてさ」
私は女将さんに渡されていた水筒から麦茶をカップに注いで渡す。それは一気に飲み干され、すかさずおかわりをついだ。
「ふう、このあちーのに、あのおっさんら人使い荒過ぎ。若い人手が欲しかったって休み無しだぜ。そのくせに、都会もんはなまっちょろいだの、使えないだの、大将のほうが役に立つだの、言いたい放題なんだよ。地元の若いやつら、これが分かってて今日は皆留守にするんだってさ。ずりぃよな」
「まぁまぁ、ご苦労様。」
私の隣のブロックに座った蓮也くんは、頭のタオルをとると、顔や身体の汗を拭った。私は被っていた麦わら帽をとり、その広いつばで団扇のようにあおいで風を送ってあげる。
「ところでさ、明日のお祭りって何をするの? 女将さんに訊いても教えてくれなくてさ」
「なんだ、まだ教えてもらってないのか」
「ええっ、じゃあ蓮也くんはもう知ってるわけ?」
「そりゃあな。俺は強制参加だって言われてさ。聞いてねえよこんなことするなんて……」
顔をゆがめ、本気で嫌がるその様子を見ると、それ以上聞く事が出来なかった。それなら明日、心してじっくり見せてもらおう。
「じゃあ、何するのか知らないけど、明日は応援するから頑張って。私は夕方からの前夜祭の手伝いを頑張るよ」
「お前、本当に大丈夫なのか? よく知らねーけど、昨日の夜中に親方とかばたばたしてたからさ。よっぽどだったんだろ、こんな日差しのきつい時にふらふらするのはよくないって。ほれ、ちゃんとかぶっとけ」
蓮也くんは、私の手から帽子を奪うと、強引に私の頭に被せた。
すると、私達の様子を見ていたのか、浜の向うからおじさん達の囃し立てる声が聞こえる。
「ちっ、うるせーな。とにかく、無理すんなよな」
私にそう言うと首にかけていたタオルを頭に被り、再び大将のいる方へと走り去っていった。
日の下で生き生きとして見える蓮也くんがまぶしくて、私は目を細めてその後ろ姿を見送った。
結局、砂浜を歩いたり磯をのぞいたりするつもりだったけれど、皆が忙しそうにしている中ぶらぶらするのも憚られ、私はひとまず家に戻ることにした。
来た道を戻り松林を抜けた少し小高い所から、道が江澄家の屋敷の真裏に向かってまっすぐに伸びている。
裏側から見ても大きいその屋敷は、裏門も立派だった。大きさにほとんど違いはないけれど、裏門の方が造りが細かく風格がある。
どうしてこちらのほうが……そう浮かんだ謎はすぐに解けた。
白壁に囲まれた門の向うは緑が深く茂り、その間から社の檜皮葺の屋根がちらりと見えた。
きっと本当はその門が屋敷の表門で神様を迎え送り出す為のものなんだろうな。そう推理を楽しんでいると好奇心がむくむくと顔を出し、私は軽い足取りでその門の所まで歩いた。
決まった時しか開閉しないのだろうそれに試しに触れてみたものの、やはり門は固くぴったりと閉ざされている。
「やっぱり駄目かぁ。中津様にもう一度お会いしてみたかったんだけどな」
自重気味にひとりごちると、私は片足を引いてくるりと方向転換し、反対側にある門へ向かって歩き出した。
「ならば入るがいい」
突然背後から男の声がかけられ、私は驚いて振り返る。
だけどそこには誰もおらず、ただいつの間にか人が一人通れるほど門が開かれているのが見えた。まさかと思いながら数歩後ずさって門の中をのぞく。するとそこには昨夜と同じ姿の中津様が立っていた。