12.居座り神様
「我が地に断りなく入りおって。何者ぞ」
旅の疲れで最初の晩は素朴な当地の家庭料理に舌鼓を打ち、お風呂をもらって早々用意された布団に潜り込んだ。
気持ち良く深い眠りについていたはずの深夜、私は夢うつつの中でそんな声が頭の中に響いたかと思うと、いきなり胸を押しつぶすような圧迫感に襲われた。
「ぐっ、はぐっ」
それは胸を、骨や内臓を粉々にすり潰してしまうんじゃないかというくらい重く、私を床に押さえつける。
手足をばたつかせようとしても、まるでガリバーが小人に地面に縫い付けられてしまったようにちっとも動かせない。苦しさの中私は必死に抗おうとした。
すると今度は動けない私の周囲を、ひたひたと水が床からせりあがってくる。
身体は硬直し口も目も開いたまま一切の抵抗を封じられ、恐怖で喉がひゅうひゅう鳴り心臓が割れ鐘のように打ち鳴らされる。だけどどうすることもできないまま、全身がゆっくりと水に浸食されていく。
耳の中にそれが流れ込む不快感に心の中で顔をゆがめる。そしてそれはどんどん量を増し、鼻に口まで流れ込む。口の中にそれが入り込んだ時に舌に受けた刺激で海水だと知る。だけどその意味を考える暇もないまま水の底に没した。
天井まで海水に満たされる中、布団ごと床に貼付けられ沈んだままの私は、水の中で海藻のように漂う自分の黒く長い髪越しに、そしてその間を様々な魚が身を翻しながら泳ぐのを目にし、身体の上を蟹やヤドカリ達が這い回るのを感じる。既に肺がねじ切れるような溺れる苦しみは消え、穏やかな海の底でその一部になっていた。
時々コポリと肺に残った微かな気体が口からこぼれ泡沫となって昇っていく。
まるで羊水をたゆたっているようで、この異変への抵抗の意志が次第に薄れていく。そしていつまでも全ての悩みや苦しみから解き放たれたゆたっていたいと心から願いかけたその時、パンッと柏手の音が響き海の水を揺らした。
「かはっ、ああっ、ひゅうっ」
私はいきなり海中から解き放たれ、身体をくの字に曲げて自分の胸をかきむしりながら、涙を零しながら必死に空気を求めた。
息を吸いすぎて咽せ、喉が痛い。
悶える私の背中を、温かい手がやさしく撫でてくれた。
顔をあげれば、パジャマ姿の亜紀さんが心配そうに私を抱き起こし覗き込んでいる。
「英里さんもう大丈夫だから、落ち着きんさい」
私はその腕の中に身体を委ね、しばらく呼吸をすることだけで必死だった。
「す、すみません。疲れてたのかな、なんだか怖い夢をみた、みたい」
無理に笑顔を作り自分で身体を起こそうとして、全身が濡れていることに気付く。
あわてて周囲を見渡すと、私に割り当てられた6畳の座敷の一室で、茶棚も掛け軸や生けられた花も荷物にも変化はない。
ただ、布団の中の私の身体だけが濡れていた。
寝間着として着ていたTシャツにハーフパンツし、下着までぐっしょりと濡れ布団に染み出し濡らしている。
当然、私を抱いている亜紀さんの服も濡らしてしていた。
これは汗、汗だよね? と首まで真っ赤になった私はこれ以上被害を広げないよう起きようとし、ぐらりと身体が傾き布団に崩れ落ちた。
「ああ駄目よ、急に動かんどいて」
「す、すみません、汚してしまって……」
パニックで涙があふれる私に亜紀さんは戸惑った顔を見せ、そして事情が飲み込めたのか私の濡れた頭を優しく撫でてくれた。
「英里さんが謝ることはなんもないよ。むしろ謝らんといけないんはこっちのほう。苦しい思いをしたんでしょ。とにかく詳しいことは後にして着替えんと。歩けそう?」
「はい」
私は立ち上がろうとした所ですぐによろめき、亜紀さんに抱きとめられた。
「無理みたいじゃね。待っといて」
亜紀さんが部屋の襖を開けると、灯りのついた続きの座敷で何人かがぼそぼそと話をするのが聞こえる。
状況がよくわからないまま、私は前髪から顔を伝い落ちるそれを手の甲でぬぐい、ふとその拭った手をぺろりと舐めた。
明らかに汗とは違う濃厚な塩気。全身がそれに覆われていて感覚が鈍っていたのか、味が分かるとそれが持つ潮の香りまで感じることが出来る。
あれは夢じゃない、私は本当に海の中にいた?
その時、襖が開き再び亜紀さんが入ってくると、女将さんと大将も一緒に入ってきた。
私があわてて二人に迷惑をかけてしまったことを詫びようとすると、女将さんは安心させるように私の頬を優しく撫で、大将が私の身体を軽々と抱き上げた。
「たっ、大将、濡れますよ」
逞しく温かい腕は躊躇なく私を抱きかかえ、そのまま部屋の外の廊下をしばらく歩き、風呂場まで連れていかれた。
そこは夕食の後で案内された明るいユニットバスではなく、オレンジ色の暗い灯りが揺れる、手入れが行き届いた年季の入った石の床に檜の浴槽の風呂。
大将はその浴室の椅子に私を座らせると、さっさと外に出ていった。
中には女将さんが残り、腰が抜けて動けない私の入浴を手伝ってくれた。
恥ずかしいけど、そのままでいるわけにはいかず背に腹は変えられない。
前にもこういうことあったっけと既観感の中、木の香りが清々しい広い湯船の中で芯からあたたまっていると身体に力が戻ってきた。
足もとはまだ少しおぼつかないながらも一人で湯からあがり、用意されていた寝間着用の浴衣に着替えると、手渡された水を飲む。
海水を飲んでしまった後のような喉の奥の焼け付くようないがらっぽさが洗い流され、ようやく夢の残滓から解放された。
「英里ちゃん、ゆっくり休ませてあげたいのだけど、少しだけ付合ってちょうだい」
すまなさそうに言う女将さんに手を引かれ、私は屋敷の奥へ奥へと導かれた。
夏の夜とは思えないほどひんやりと澄み切った空気が満ちる中を進むと、小さな玄関があり草履が2つ用意されている。
真新しそうな白い鼻緒が夜目にまぶしいそれを足にひっかけ薄暗い庭に出ると、そこには月明かりに照らされて石の鳥居が建っていた。
「おうちに神社があるんですか?」
「そう、ちょっと変わってるでしょ。英里ちゃん、神無月って分かる?」
「ええ。私の故郷でもありました。十月に神様が出雲へ集うから他の土地では留守になると聞いてます。そして出雲は神様がいらっしゃるから神在月だって。こっちでもそうなんですか」
大将と女将さんは私の素性を知っているけど、面倒なので元の世界ではなく故郷という表現を使っている。
「そう、そこまで知ってるなら話は早いわね。この神社は神在月の間、中津綿津見命という海の神様が滞在する御旅社なの」
「じゃあここも、聖域なんですか」
「そう、神様がいらっしゃる間だけという限定のね」
「じゃあ今は八月だからお留守なんですね」
私の言葉に女将さんは苦笑した。
「それがいらっしゃるのよね、九十年前からずっと」
九十年前というと、例の蜃との戦争があった頃だ。その戦争で東京南部や神奈川、北海道や九州の一部などは大魔法の攻撃を受け海になってしまった。
そのことに関係があるのかと訊ねると、女さんは首を縦に振った。
「日本は聖域が多いでしょう。神様は人間同士の争いには不可侵だけど、神様のいる聖域を攻撃すれば相応の報いを受けることになる。だから蜃は神無月を狙って日本を攻撃をしたわ。そして戻るべき聖域を失った神様は高天原へと戻っていかれたのよ。だけどそのまま地上に留まっておられる神様もいらしてね。中津様は祀られていたのが福岡の神社で、聖地を失われた今、ちょうど滞在していた御旅社のここにそのまま居座っているのよ」
近代に建て替えられたのか、比較的新しく小規模な大社造りの社殿で、神職姿のお父さんと巫女装束の亜紀さん、パジャマから白いTシャツと綿のズボンに着替えた大将が祭壇を前に座っていた。
そして二人の間に挟まれるように祭壇の前にもうひとり、黒いタンクトップに迷彩柄の短パン姿の、浅黒い肌に黒髪を肩まで長めに伸ばした青年があぐらをかいて座っている。
中に入った私をちらりと見た神様は、きまり悪げにふいっと顔を背ける。
亜紀さんに勧められた部屋の真ん中に置かれたイグサの座布団に正座し、向かいに座る青年は誰だろうと思っていると、横に座った女将さんが教えてくれた。
「英里ちゃん紹介するわ。こちらが中津綿津見命様よ」
「中津様、どうぞお言葉を」
お父さんが慇懃な口調で告げると、神様、中津様はしぶしぶ口を開いた。
「人の娘、さっきは無体なことをした。許せ」
「……あなたは本当に神様なんですか」
私の知る神様、白川様は白い装束姿で、もっととりとめのない不思議な神秘的な存在だった。
でも、今ここにいる神様はあの時の白川様と同じ威圧感というか畏怖を感じる存在ではあるのに、眉が太くつり上がった野性味ある目元に通った鼻筋に端をつり上げた厚めの唇と格好も含めてとても印象に残る風采をしている。
しかも私の疑問に、中津様は呆れた顔をし面倒そうに舌打ちをした。
「お前、既に神の手付きの分際で何をとぼけたことを言うのだ」
私は、その言葉に顔が真っ赤になった。
「手、手付きって言い方なんですか。私、白川様にお会いしたけど何もされてませんっ」
裸は見られたけどあれは不可抗力だもの。いきなり何を言い出すんだ、この神様。
私の剣幕に一同は唖然としていたが、やがて私の勘違いを理解した中津様はニヤニヤと意地悪そうな笑いを浮かべた。
「思い違いをするな。娘よ、お前は神域に入り神の加護を受けたはずだ。固有の神の加護を受けたものは、他神の聖域に踏み込むにはそれなりの手順が必要になる。なんだ、その神は何も教えなかったのか。最近の若い神は無責任な者が多くていかん」
「白川様は、む、無口な方でしたから……でも何か授かった記憶はないけど。しいて言えば泉で身体の怪我を癒していただいたことくらいで……ああっ、そういえばその泉の水を飲むようにと言われて飲んだっけ」
「聖域の泉といえば特に水の神であれば神体の一部でもある。それを口にしたなら、加護を授かったのに間違いないな。ここまで無知で自覚がないとはあきれるが、確かに熊が言う通りこの娘の落ち度ではなさそうだ」
憮然とした中津様の言葉に、先にその場の三人はほうっと安堵の息を漏らした。
改めて亜紀さんがしてくれた説明によると、白川様の加護を持つ私が挨拶なく中津様の聖域であるこの家に踏み込み、しかもそのまま日付をまたいでしまったことで怒らせてしまったらしい。
ついさっき死にそうな辛く苦しい仕打ちを受けたにも関わらず、それがやや理不尽なものだと分かっても目の前の中津様に対し負の感情は浮かんでこない。それが神様というものなのかな。
無知が神様の怒りを招いて起こったことに納得はしたものの、身体はまだあの苦しさをおぼえていて、私は無意識に喉をさすった。
それを見た中津様は多少悪いと思っているのか私から目を反らすと、大将を軽く睨んだ。
「まったく瑞穂がすぐに挨拶に来ていれば私も問いただすなり出来たのだぞ。それをその熊にかまけて後回しにしおって……」
「あれ、中津様も大将のことを熊って呼ぶんですね。仲良しなんですか」
「止せ、仲良しなどおぞましい。瑞穂はもともと私の巫女だったのをこの熊がかすめ取っていったのだ。この泥棒熊がっ。三年に一度と言わず毎年連れてこぬか。いや、もうこのまま置いて帰るがいい」
「私の熊ちゃんにいじわる言わないでっていつもお願いしているのに。中津様ったらひどい! 私は熊ちゃんから一生離れるつもりはないんですからね」
「中津様、巫女がこの亜紀ではご不満なのですか。こうして誠心誠意愛情たっぷりに終生お仕えすると誓いましたのに、哀しい……」
何だろう、この四角関係、そして妙に人間臭い神様は。
私は余計なことを訊いてしまったと後悔した。
お父さんは諦め顔で、いち早く傍観者に徹している。
そしてこの場で一番大柄で普段なら存在感たっぷりな大将が、借りて来た猫のように居心地悪げに小さくなっているのを見て、蓮也くんの言っていた結婚に反対されたというのは主にこの神様にだったのねと納得し、大将に同情した。