10.試験の後で
七月も数日で終ろうとしている午後、私は机にかじりついて必死に帝国語の詰め込み勉強している。
窓の外には雨上がりの青空がのぞいている。窓を開けるとひどい蒸し暑さだけど、魔法仕掛けの高機能な水冷式の冷風機によって、私の部屋は快適な涼しさが保たれている。
仕込み真っ最中のこの時間にこんなことをしている理由は、明日に帝国語能力試験を控えていているから。
一応この国はかの帝国の属国。なので日本語と帝国語が公用語と定められているので、子どもの頃から皆バイリンガル。
普段の生活では充分日本語だけで済むけれど、元の世界で溢れてた英語が全て帝国語に置き換わってるようなもの、むしろそれ以上に浸透していて、日常当たり前のように目にする存在だし、帝国語を日常的に使う人も少なくないらしい。
それにしてもどうして帝国語は英語じゃなかったのよ。そりゃぁ得意ってわけじゃなかったけど……と恨みつらみを乗せた盛大な溜め息をつく。
この世界に来て、最初に気になったのは日本が日本であるならユニス帝国はなんだろうということ。
ユニスなんて国の名は聞いた事がなかったから、いったいどこの国がどうやってここまで強大な国になったのか知りたかった。
役所で受けた「流民保護制度」の説明面談で、帝国の歴史について学ぶ必要があると言われそこでその疑問を解消してくれるのねと思った帰りに、疑問のひとつが思わぬ形で解決した。
手続き帰りに向かいからやってきた背が高く彫りの深い西洋人の男性が、私を見てにっこり微笑んだ。
そういえば後日、帝国語の講習があるって言ってたなと思いながら、私は目礼しすれ違おうとしたその時だった。
その男性の口から飛び出した言葉が「ヴォン ジョールノ」。
後から分かるのだけど、彼の名はカルロ。翌週からの帝国語学習の講師となる人だった。
今でも鮮明に覚えてる、彼の華麗な巻き舌を。
どおりで随所でローマ字を見かけるのに読み取れないと思ったら、帝国語とは期待した英語ではなくイタリア語に近い言語だった。
この世界の歴史の中にもローマ帝国があった。何度も王朝が変わったり分裂や統合を繰り返したのは同じではあっても、確実に私の世界とは違う歴史を歩んでいく。
そして300年前、西ローマ帝国の副皇帝クラウディウス・ユニスが皇帝位を簒奪し、その勢力は一気に全ローマを併合し手中に治める。
そして新皇帝は多大な歴史を持ち退廃の極みにあったローマという名を捨て、新たにユニス帝国と名を変え、新時代の始まりを宣言した。
もちろん、そのユニス帝国の歩みは順調だったわけじゃない。それでも彼らは勢力の拡大を続け、かつての初期のローマ帝国がそうだったように多民族、多人種、多宗教を内包しながら拡張していったことを再び体現していくことで世界の覇者となっていった。
そんなわけで、一神教が存在しないこともあり世界地図の国境や歴史は私が知っているそれと大きく異なっていた。それでもこんな風に似た文明にいきつくんだなとひどく関心した。
関心はしたけど……それだけこの世界のことを新たに学習しないといけない私がどれだけ大変だったか察して欲しい。元の世界に帰るためという励みがなければきっと心折れてたと思う。
カルロ先生の温かくも厳しい授業のお陰でなんとか小学6年生レベルまでこぎつけた私は、例の「流民保護制度」の必要要件の一つにあった帝国語の習得の項目を、ぎりっぎり、ほんとぎりっぎりで合格した。
ちなみに帝国の正式公用語はラテン語。格式と教養の証しとされているその言葉は帝国国内の儀礼的な場面や高位の人達の間で使われ、それ以外の帝国国民は、新ラテン語と呼ばれる元は一地方の方言を一般的な帝国語として使っている。
なので日本など属国の人々が習う帝国語は、イタリア語によく似た新ラテン語だ。
イタリア語は食に関する単語や簡単なフレーズなら少しは知っていたのも、少しは学習の助けになったと思う。自信を持って覚えてた料理用語は試験に何一つ役立たなかったけど。
八坂さんやカルロ先生と合格を喜んだのも束の間、それは条件付き合格だと知らされた。1年以内に帝国日本総督府主催の帝国語能力テストを受けて、二百点以上をとらないといけない。
千点満点で二百点というのは、通常会話で最低限のコミュニケーションができるという目安。
それがクリアできれば、私は数ある支援プログラムの申請資格を得ることが出来る。
ただし蓮也くんが言うには二百点は小学生レベル。中学卒業レベルとされる四百点を超えないと、受けれる支援プログラムに制限がつき、そしてまた翌年も受験しないといけない。それでも駄目なら、支援プログラムは打ち切られてしまう。
皆さんの税金の中から支援してもらうんだもの。条件が厳しいのは当然だよね。
かくして私は、上京してから料理の修行にかまけてかろうじて小学校卒業レベルだった帝国語を、蓮也くんのスパルタ指導で一月でなんとか中学卒業レベルまで引き上げてもらった。
意外なことに「学校は昼寝をする場所」ってタイプだと思っていた蓮也くんは、そこそこまじめな生徒で教科によっては優等生だったらしい。
悔しいけど帝国語の発音がすごく上手いんだ。
大将の配慮もあって、この1月は時間があれば机にかじりつき、仕入れの道中や掃除をしている時、お客さんが店内にいない時など支障が出ない限りは蓮也くんに口頭でレッスンしてもらった。
というわけで、試験日も含めて三日間の休みをもらった私は、追い込みをかけていた。
私が抜けるかわりにかなり蓮也くんに負担をかけてしまっているけど、家庭教師をしてもらったことも含め、この大きい借りはいつか先で返すことになってる。あまりに無茶なことは言わないという条件付きでね。
蓮也くんからは焦ってミスをしない限りギリギリ合格どころか五百点はいけると太鼓判をもらっていて、今は苦手な文法のおさらいをしている。
「英里ちゃん、はい、お茶よ」
私は部屋の畳にぺたりと座り、白く塗られたちゃぶ台の上にノートやテキストをいっぱいに広げている。その一部を床におろし、そこに冷えた麦茶がたっぷり入ったグラスと花梨糖の入った小鉢を置いてもらった。
「調子はどう?」
「やれることはやってますけど、後はもう気が済むまで見直すくらいです。でも昔から試験って苦手なだから今から緊張しちゃって……」
「私達も応援してるから、頑張ってね。試験が終ったら私達に夏がくるんだから!」
「夏、ですか」
「あら、熊ちゃんから聞いてないの? 夏休みのこと。うちのお店は三年に一度、いつもお盆の後にとるお休みを八月の最初にとるのよ。つまり来週ね」
「どうして、三年に一度なんですか?」
「私の故郷でお祭りがあってね。熊ちゃんはそれをとってもたのしみにしてるのよぉ。実は、私が熊ちゃんと出会ったのもそのお祭りなのよ、うふふふ」
女将サンははじらって肩をゆすり、その上でゆるくウェーブのかかった髪が柔らかく舞う。
激流の中で鮭を捕る熊のように野性味あふれる大将と、小柄でえくぼがチャームポイントの、未だ少女のような可憐さで常連さん達のハートを鷲掴みな女将さん。二人が結ばれたお祭りってどんなものなんだろう。大将はフンドシに男神輿が似合いそうだけど、女将さんは浴衣に花火だよね。
「女将サンのご実家は確か島根県でしたよね。夏祭りってことは花火あがったりするんですか」
「うーん花火もあるけどね、もっとすごいのよ。でも詳しいことは行ってからのお楽しみね。そうそう、試験って池袋で朝からあるのよね。終ったら待ち合わせましょう、一緒にお昼ご飯を食べて水着を買いましょう」
「そんな、水着なんていいですよ」
「何を遠慮してるの。私の実家の前にはそりゃあ綺麗な海があるんですからね! 入らないともったいないわ。それに磯で自分で採って食べる雲丹、最高なんだけどなぁ……」
「雲丹! 雲丹が捕れるんですか」
思わず鼻息荒く女将さんに詰め寄ってしまう。
「ふふ、やっぱり英里ちゃんには食べ物が一番のようね。じゃあその元気で試験がんばって」
女将さんにうまく乗せられた私は、無事に全力を出しきることができた。試験の結果は一月後に郵送されるらしく、それまではただ待つしかない。
すっかり燃え尽きて試験会場を出た私は、少女にしか見えない白いワンピース姿の女将さんと落ち合って、女性に人気という帝国料理のレストランで昼食をご馳走になった。
その後、シーズン真っ盛りでごった返す水着売り場に引きずり込まれた私は、女将さんが選んだ水着をいくつも試着し、試着室を出た所でお会計が済んでいた。
どの水着を購入したかは現地に行ってからのお楽しみだといって教えてくれない。
そんな謎だらけの不安と海の幸への期待を胸に、私は夏休みを迎えた。