永劫の刹那
永劫の刹那
⸺気が付けばそこは、薄暗い小部屋だった。
背中を預けている壁は固く冷たく、周りを見ればそれが濃い灰色の石であるのだとわかる。目の前には開いたまま放置されている扉があり、その向こうにはこの部屋の壁と同じ重たい石が壁を形作り廊下をなしていた。廊下には定間隔に松明がたかれており、赤い炎で暗闇を退けていた。
「っ……」
回らない頭⸺重いのではない、まるで新しく産まれ変わったかのように回し慣れない頭を抱え、今の自分の状態と、状況と、すべきことを思い出す。
⸺即ち、座っている状態から腰を上げ、立ち上がること。
無論最終目的ではなく、まず最初にするべきことにすぎない。
己の使命を、すべきことを、細かなステップに区切って、そこに何か目新しさを探そうとする。しかし幾十幾百、あるいは幾千幾万と繰り返したこの行程にそんなものが残っているはずもなく、男は嘆息して重い腰を上げた。
出口をくぐり、橙の光が照らす廊下を歩く。
歩きながら壁を撫でたり、あるいは強く床を踏んでみたり、逆に足音をたてないようにそっと歩んでみたりすることはしなかった。最早そのような感触はこの永劫の退屈を紛らわしはしないと男は知っていた。腹をこじ開けられ、心臓を貫かれるような痛みにすらも、男は慣れ切ってしまっているのだ。変わらぬ世界でできる暇つぶしなどとうになかった。
短い廊下の先には黒い扉があった。その先を思うとつい心が踊ってしまう。そこには数少ない男の退屈を紛らわしうる存在が居るからだ。逸る心を抑えながら、どこか慎重に扉を開けると、眼にはこれまでの炎の灯りとは異なる青い光が飛び込んでくる。
「……おはよう、ございます」
それは女の形をしていた。
扉の先の部屋の中央には、どこか神聖で静謐を思わせる光を纏う、美しい容姿の化け物が居た。
「……よう」
脳と同じように口もまた使い慣れず、言葉を発するのに一瞬とはいえ意味もなく顎を開閉させてしまった。エサを求める鳥のヒナのようだ。
「前回お眠りになってから、11年と7ヶ月と10日が経ちました」
「知ってる。目覚めたってことはそうだからな」
「……仕事ですので」
化け物は毎回、男と前会ってからどのくらい経ったのかを伝えてくる。計算され尽くした、隙のないシステムの一部として組み立てられたスケジュールの中に男は生きているので、その数字が変化することは永遠に無い。しかしシステムの管理者であり見届け人である彼女もまた、そのシステムの一部として数字を告げる。
まるで絡繰人形みたいだ⸺そう思って、思わず苦笑する。絡繰人形どころか、自分たちは絡繰の中の歯車の一つに過ぎないのだ。役割を果たすべき時のみに動き、そうでない時は沈黙する。それこそが自分たちで、在りたいと望んだ姿だ。
「……弟君の方も、健康等に問題は無く」
「そりゃそうだ。そうでなきゃ俺はここに居ない」
化け物の言葉を受け流す。決まった言葉を喋った後でないと、彼女は口を聞いてくれない。男の歯車としての生活の中の僅かな楽しみ味わわせてくれない。
望んだ境遇ではあるが、願った境遇ではなかった。男は歯車ではない。本来そうでないものを、そうであると偽るために必要な儀式の一つ⸺男にとって化け物との関わりは、そのようなものだった。あるいはシステムの設計者は、そこまで念頭に入れて彼女をここに配置したのだろうか。
「今回は、第一二万九七八五回目の封印です」
「外はどうだ?」
最後の定型句に間髪を置かず、男は問うた。
「……前回同様、当施設100キロメートル圏内に人間の反応はありません」
「何とかして遠くを見れたりしないか?」
「前回同様、不可能です」
男は舌打ちをした。
最後に自分たち以外の人間を観測して何百年か何千年かが経っていた。
「じゃあ観測範囲内の状況を細かく教えてくれ」
「……前回同様当施設付近は猛烈な吹雪が吹いています。当施設直上には雪が約233メートル降り積っています。気温はマイナス17度です」
233。マイナス17。
その数字に思わず口角が上がる。前回は218とマイナス16だった⸺化け物を通して得られる外界の変化こそが、歯車ではない男を歯車ならざるものたらしめていた。
「川は?」
「表面が凍った後、その上を雪が覆いました。雪の高さは37メートルです」
「火山は?」
「数年前に煙が止まりました。次の噴火まで数万年は空くと思われます」
「例の木は?」
「頂上まで完全に雪の中に埋没。もう五年以上日光を浴びていないため恐らく死んだものと思われます」
次々と質問を繰り出す。
今回は当たりだった。雪の高さと気温が変わっただけでなく、川が凍てつき、山が鎮まり、木が埋もれた。気象と気温以外何も変わらなかった時期もあったことを思い返すと、まるでここに来る前と同じかそれ以上に生きている気分だった。
「ありがとう。今回は弟に良い話ができそうだ」
一頻り外の状況を知った後、男は化け物の横を通り過ぎて、その奥にある扉へ向かった。
「……あなたは」
ノブに手をかけた所で、背後から声がかかる。
「なんだよ、誓約者」
「……幸せ、ですか」
随分と大雑把な問だった。
男は肩を竦めた。
「当たり前だろ。でなきゃやってられるか、こんな山羊みたいな生活」
「あなたは人間です」
「あぁ、俺は人間だ。山羊であることを望んだ人間なんだ」
言い切って、何か言い返される前に扉を開けた。その先はまた廊下になっていて、松明が灰色の世界に赤みを足している。扉を閉めて化け物と別れた男は、一歩、また一歩と踏み締めながら歩いてゆく。目覚めてから化け物の部屋に行く時とは違い、今度は退屈を思っていなかった。顔にあるのは充足と期待、そして僅かな緊張だった。
廊下の果てに扉はなかった。突然左右の壁が消失し、永い時の中で濃縮された血と獣の匂いの立ち込める広間に出る。
広間の中に灯りはなかった。廊下を照らしていた松明は広間を僅かしか照らさず、その奥は依然として闇に包まれて何も見えなかった。男はそれでもいいと思っていた。何があるか、誰が待っているかなんて見なくてもわかるから。
この広間の主は、男の来訪に気付いて、既に闇の中で待っていた。黒の中に赤が二つ浮かんだのを認め、男はニカァと笑った。
「久しぶりだな、アスト」
主は黙っていた。
「元気にしてたか? お前は兄ちゃんと違ってずっと生きっぱなしだから心配だよ。怪我とかしてないか?」
男はかまわず語りかけた。
「寂しくなかったか? ごめんなぁ、また十年以上も独りにしちまって。誓約者の野郎はわざわざお前の話し相手になりに来はしないだろうし。本当は、兄ちゃんがずっと傍に居てやりたいんだけどな」
「友達は出来たか? 幻でもいいからお前に友達が出来て欲しいと俺は思ってるよ。気が紛れる」
「兄ちゃんはなぁ、またずーっと死んでたからなぁ、特に報告することはない。ただ、いつも通り死んでる間もお前のことを考え続けてたぜ」
男はいきいきとしていた。先程女の化け物と話していた時よりもずっとずっと、いきいきと、生命力を感じさせる声で喋っていた。松明の灯りに隠れて頬に赤みさえ差していた。
男の一方的な会話に、主は答えない。ただその二つの赤い瞳で男を見詰めている。しかし、時折、ジャラリと鎖の音を鳴らして、少し男の方に歩み寄っていた。
男が話し始めて、少し経った。
「……終わりの時間みたいだな」
男の耳には荒い息の音が届いていた。ボタボタと、液体が⸺例えば唾液のような液体が床に滴り落ちる音もする。そしてそれは実際、唾液だった。
広間の主の正体は獣だった。かつて世界を滅ぼす大いなる災いと呼ばれ、幾多の苦労の末にこの箱に封印された終末の獣⸺そして、男の弟でもあった。姿は変われど、主⸺アストは確かに、男の弟だった。
男の役割は封印を維持する生贄だった。アストの昂ぶる獣性を抑えるために、定期的に供えられる山羊。アストは男の肉体を喰らい、しばしの安寧を得、男はまた生贄として果たすべき役割が来る頃に目覚める。そういうことを、もう幾度となく繰り返していた。
男はただ贄として喰われるだけではなく、その前にこうして対話をすることを忘れなかった。男の中で、アストはまだ人間だった。確かに姿は凶悪な野獣に変わったろう。しかしその心は、未だ人のものであると信じている。そして人のもので在り続けさせることこそが、己の最大の使命だとも思っていた。放っておけば、アストはすぐに人間でなくなってしまう。
なれば自分が、自分こそが、アストという人間の心を繋ぎ止める杭で在ろう。⸺そう望み願ったから、男はここに居る。それこそが男の使命であり、単なる歯車になってしまってはいけない理由だった。
「今日も楽しかったよ、アスト」
ジャラリ。鎖が鳴り、アストが首を持ち上げる。
獣は真上から男を見下ろし、赤い目を細めて何やら思案げだ。
男はその瞳を見て、確かにそこに人の心を見出した。
「またな」
獣の顎が開かれ、男は瞬く間にその中に呑み込まれる。
こうして、永劫の営みは過ぎ去ってゆく。




