第二章【ユリ】
夕暮れ前の空は、溶けかけた金魚鉢みたいな色をしていた。
祖母と西瓜を分け合い、縁側で風に当たりながら、俺はふと立ち上がる。
「どこ行くんだい?」
「……谷屋、行ってくる」
祖母はにやりと笑った。
「ラムネ買っておいで。お釣りはあげるよ」
そのやり取りが、胸を締めつけるほど懐かしい。
土の匂いのする道を歩く。
アスファルトじゃない。車も少ない。
遠くで犬が吠え、風鈴が鳴る。
谷屋は、昔のままそこにあった。
色あせた看板。
軒先に吊るされた風車。
紫陽花の鉢植え。
「いらっしゃい」
店主のばあちゃんは、記憶より少し若い。
皺は少ないが、目元の柔らかさは同じだ。
「おや、日和の孫かい」
俺は頷く。
棚に並ぶ駄菓子を見ていると、ふいに線香の匂いが流れてきた。
店の向かいの空き地で、白い幕が張られている。
「葬式だよ」
ばあちゃんが静かに言う。
「猟師の息子さんがね。今朝亡くなって」
胸の奥がざわつく。
なぜだろう。
まだ何も知らないはずなのに。
「山によう行っとった人だよ」
その言葉が、耳に残った。
俺はラムネとガムを買い、店を出る。
足は自然と、向山へ向かっていた。
⸻
山道は、子どもの足には少し険しい。
蝉の声が耳を刺す。
木漏れ日が、地面にまだらな模様を落とす。
そして。
杉の大木の下に、彼女は立っていた。
白いワンピース。
大きな麦わら帽子。
夏の光を背に受け、輪郭が淡く揺れている。
「こんにちは」
透き通る声。
俺は思わず立ち止まる。
「……誰?」
「ユリ」
ただそれだけ。
けれど、その名が胸に落ちた瞬間、なぜか懐かしさが広がった。
彼女は俺を見つめる。
まるで、ずっと待っていたかのように。
「遊ぼ」
その一言で、時間がほどけた。
⸻
川辺で石を投げ、
木の枝で剣ごっこをし、
鬼ごっこで転び、笑う。
身体は子どもでも、心は大人のはずなのに。
いつの間にか俺は、本気で走っていた。
息を切らしながら振り返ると、ユリが笑っている。
その笑顔は、どこか儚い。
「ねえ」
彼女が不意に言う。
「あなた、大人でしょ」
心臓が止まりかける。
「……なんで?」
「目が、寂しいから」
言葉を失う。
彼女は空を見上げる。
「でも今は、ちゃんと笑ってる」
その横顔は、年齢を感じさせない。
風が吹き、白い裾が揺れる。
影が、地面に落ちる。
「影踏み、しよっか」
ユリが言う。
俺は頷く。
夕陽に伸びた影を追いかける。
「鬼ごっこより、ずっと難しいよ」
「なんで?」
「影はね、逃げないけど、触れないから」
その言葉の意味を考える前に、空が暗くなる。
ぽつり、と雨粒。
瞬く間に夕立。
俺たちは杉の下に駆け込む。
雨音が強くなる。
土の匂いが立ち上る。
「最後までできなかったね」
ユリが小さく笑う。
「じゃあさ」
俺は衝動的に言う。
「タイムカプセル埋めよう。大人になったら、開けるんだ」
ユリは驚いたように目を見開き、やがて頷いた。
俺たちは谷屋で買った菓子箱を取り出す。
俺は紙にこう書いた。
未来の俺へ。
ちゃんと笑えてますか。
ユリも便箋に何かを書いた。
内容は見せてくれない。
「これは、あなたが戻ったあとに読むの」
雨が弱まる。
地面を掘り、箱を埋める。
泥だらけの手。
夕暮れが戻る。
ユリは、俺を見る。
「ありがとう」
その声は震えていた。
「あなたが来てくれたから、私、ひとりじゃなかった」
胸がざわめく。
「……どういう意味?」
ユリは帽子を押さえ、ゆっくり言う。
「私ね、もう、とっくに死んでるの」
蝉の声が、遠くなる。
世界が静まり返る。
白いワンピースが、夕陽に透ける。
「私の話、聞いてくれる?」
その瞳の奥には、深い夏の影が宿っていた。




