第96話 : family
快が病室のドアを開けた瞬間、固く閉ざされていた時間が、音もなく動き始めた。
かつての父の事件によって、母の心は深く傷つき、病院という隔絶された空間で治療を受け続けていた。
しかし、快の呼ぶ「母さん!」という切実な声は、その眠りを破る唯一の鍵だった。
涙を流す快の瞳に映るのは、確かにそこにいる母の姿。高校生という多感な時期に、最も安否を案じていた人の無事。快の胸を満たしたのは、言葉にできないほどの安堵だった。
「こんなに大きくなって」
母の手が、快の頬に触れる。それは過去の傷跡をなぞるのではなく、現在進行形で生きている息子の温もりを確かめる、純粋な母性だった。
そして、その再会のハイライトは、唐突に訪れた。
母は快の胸にそっと耳を当てた。その仕草は、幼い頃、不安になると確かめに来た、あの頃と同じだったのかもしれない。
「あなたの心臓。しっかり動いているわ」
この言葉は、単に快の健康を喜んだものではない。快は悟る。母は、父――神城の父から、自分のことを聞いていたのだと。
事件で関係が崩壊したはずの二人が、水面下で、「快」という名の命の行方を通して、連絡を取り合っていた。それは、父と母の関係が良好であること、母が快を大切に思っていたことの、静かで確かな証明だった。
快の心の奥底に巣食っていた、「家族は完全に壊れてしまった」という絶望は、この一言によって、音を立てて崩れ去る。彼は涙を拭い、初めて心から安堵の息を漏らした。
過去の傷は消えない。だが、その傷の上で、彼らの家族の系譜は、途絶えることなく、力強く未来へと繋がっていたのだ。
窓の外に広がる、光に満ちた空。快は、その光景を、新しい始まりの象徴として、深く心に焼き付けた。
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これにて『派遣、恋に落ちる』は完結です。
長く付き合っていただきありがとうございました。
近いうちに長編スピンオフなどを書きますので、ぜひ読んでいただけると幸いです。




