第92話 : bike
麻奈との別れを終えた神城は、覚悟を決めていた。次に伝えなければならない相手は、凛だ。
神城は、かつて自分がバイトしていたファミレスへ向かうため、車椅子を自分で動かし始めた。受験勉強と怪我でバイトは辞めていたが、凛はまだ働いているはずだった。いつもバイクで一瞬だった道のりを、車椅子で向かうのだから、どれだけ時間がかかるか分からない。
彼はゆっくりと車輪を漕ぎながら、失われた記憶と戻ってきた記憶のすべてを反芻した。麻奈との優しくも偽りの日々、翠の愛の叫び、そして凛への抑えきれない想い。
「神城くん、どこにいくの?」
不意に声をかけられ、驚いて振り向くと、そこにはヘルメットを被った環奈が、エンジンをかけたバイクに跨って立っていた。
「環奈さん……今から凛ちゃんに会いに行くところです」
神城の口調や態度から、環奈は全てを察したようだった。彼女は驚きを表面に出すようなことはしなかったが、静かに言った。
「その感じだと、記憶が元に戻ったんだね」
「……はい」神城は短く答えた。
「環奈さんって、バイク乗るんすね」
「まあねー、カッコいいでしょ?」環奈はヘルメット越しに笑った。
「かっこいいっす」
環奈は、神城の車椅子を見下ろし、言った。
「あんた見てると何時間かかるかわかんないから、乗ってきなよ。後ろに」
環奈はバイクの後ろを指差す。神城は、その提案に甘えることにした。
バイクが夜の街を滑るように走り出す。
環奈は、風を切り裂きながら、まるで独り言のように話し始めた。
「神城くんたちさあ、いいよね。3人とも同じ人からのドナーなんだって。すごい確率だよね。結構条件厳しいはずだよ」
神城は、その事実に最初こそ驚いたが、そもそも自分たちが致命傷から生還したこと自体が奇跡だったため、そこまで大きな衝撃は受けなかった。
環奈は、続ける。
「3人って、同じ人からパーツをもらってさあ。こんなこと言って不謹慎かもしれないけどさ、心の奥深いところで通じ合ってそうだよね。まるで運命の共同体みたいでさ」
環奈は、少し寂しそうに、そしてストレートに付け加えた。
「私には、そんなに強い繋がり、ないからさ……ちょっと羨ましい」
環奈は、少し寂しそうにそう呟いた。
そして、環奈はトドメを刺すように、最も重い真実を口にした。
「あと、すごい偶然だよね。ちょうど昨日聞いたんだけどさ、臓器を提供してくれた人の名前は……『神城』って言うんだって」
環奈の声は、風に乗り、神城の耳元に直接響いた。
神城の視界が、一瞬にして、事故後の記憶のすべてと、環奈の言葉のすべてで埋め尽くされた。
環奈が「神城」という名前を口にしたこと。
すなわちドナーが父の後輩だったこと。
そして、自分が今、誰の心臓で生きているのか。
彼は、その瞬間、全てを理解した。
感謝と、申し訳なさ、そして自らの命を犠牲にしてまで、彼らを救おうとした後輩の遺族の愛が、奔流となって胸に押し寄せた。
神城は、環奈の背中に顔を伏せ、声を上げずに、熱い涙を流した。
「え?神城くん泣いてる?」
環奈がバックミラー越しに問いかける。
神城は、すぐに涙を拭い、声を張り上げた。
「泣いてなんかないっすよ」
強がる彼の声は、風に揺らぎながらも、彼が背負った命の重みを物語っていた。
環奈は、それ以上何も聞かなかった。バイクは、凛のいるファミレスへと加速した。




