第90話 : festival
それは、神城が退院を目前に控えた、夏の始まりの日のことだった。
麻奈は、病室の窓から差し込む夕日を見つめながら、神城の手を握っていた。
「ねえ、快。退院したら、まずどこに行きたい?」
「そうだな……」神城は少し考え、照れたように言った。「どこでもいいけど、麻奈が行きたいところがいい」
麻奈は笑って、一つの提案をした。
「じゃあ、地元のお祭りに行こうよ!夏の夜、浴衣を着て、花火も上がるんだよ。屋台の焼きそば、快、好きだったでしょ?」
「……覚えてるのか」神城は、記憶がないにも関わらず、その提案に心が躍るのを感じた。
「もちろん!約束だよ。この夏、二人で行こう」
あの時、二人の未来には輝くような希望しか見えなかった。麻奈は、神城の記憶が戻らないまま、この穏やかな時間が永遠に続けばいいと、心の中で切に願っていた。
そして今。
神城と麻奈は、約束通り地元の夜祭に来ていた。
提灯の柔らかな灯りが石畳を照らし、賑やかな太鼓の音と歓声が響く。麻奈は後ろから神城の車椅子を押し、人混みをゆっくりと進む。美味しそうな屋台の匂いがするたびに立ち止まり、麻奈は串から分けて食べ物を神城の口元へ運んだ。二人は射的の屋台の前で立ち止まった。
麻奈は、真剣な表情で銃を構え、いくつか景品を撃ち落とした。
「快、どれが欲しい?私が取ってあげる!」
麻奈は、神城に笑顔で尋ねた。
神城は、その様子に思わずツッコミを入れた。
「普通ってこういうの、男女逆じゃないか?」
「いいの!」麻奈は、笑って神城の言葉を一蹴する。
「来年は快に、私に景品を取ってもらうから!その次の年は私ね!そうやって私たちは毎年、一緒にこの祭りに行くんだ」
麻奈は、未来の二人の姿を想像するように、嬉しそうにそう言った。神城は、その屈託のない笑顔に、抗いがたいほどの温かさを感じていた。二人の間に流れる時間は、周囲の喧騒とは隔絶された、穏やかで幸福なものだった。
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その時、神城の頭に祭りの音さえかき消すような、激しい痛みが走った。視界が白く霞み、頭の中に事故後の麻奈との優しい日々と、失われていたはずの高校生活の鮮烈な記憶が、一気に押し寄せてくる。
神城は、車椅子の上で激しく身体を震わせ、苦悶の声を上げた。




