第89話 : stuck
翠は、神城への想いを断ち切るために、その辛さを全て受験勉強にぶつけていた。しかし、集中力が続かない。一問解き終えるたび、どうしても神城のことを思い出してしまい、手が止まる。
塾の自習室にいても、ふとした瞬間に視線が泳いだ。少しでも神城に似た人を見つけると、無意識のうちに二度見をしてしまう。心臓が跳ね、すぐに自嘲する。その繰り返しだった。
翠にとって、神城の記憶喪失は永遠に埋まらない、愛の敗北の傷跡だった。
そんなある日、集中力を欠いたまま勉強を続けていると、自習室の扉が開いた。
現れたのは、神城だった。どうやら退院したようだ。
彼は車椅子に乗っていたが、誰の助けも借りず、自分で車輪を漕ぎながら、周囲を気にせずに空いている席を探していた。その姿には、まだ以前のような鋭さはなく、どこか幼さが残っていた。
神城は、翠の席から少し離れた空席を見つけ、車椅子を寄せた。
翠は、反射的に立ち上がった。
神城が、車椅子から席に移るため、元々椅子が置いてあった場所の椅子を引こうとしていたのだ。
翠は何も言わずに、音を立てないように素早く神城の椅子を引いてあげた。そして、引いた椅子が邪魔にならないように壁際に置き、神城の顔を見ることもなく、何も言わずに自分の席に戻った。
翠は、机に向き直り、再び参考書に目を落とした。
すると、背後から、明るく、澄んだ声が聞こえてきた。
「翠!ありがとな!」
神城は、以前の喧嘩別れや麻奈を巡る騒動があったことなど、まるで覚えていないかのように、満面の笑みで感謝を伝えた。彼の笑顔は、中学校時代の、まだ何の色もついていない純粋な笑顔だった。
翠は、一瞬身体が固まったが、会釈もせず、無反応なふりをして、そのまま前を向いた。
もう、振り返らない。
しかし、神城のあの無垢な笑顔を見た瞬間から、翠の胸を締め付けていた苦しみが、すっと引いていくのを感じた。
そこからは、不思議と集中して勉強をすることができた。
この日、特に神城と翠が会話を交わす機会は、後にも先にもなかった。翠は、彼の笑顔を胸に刻み込み、静かに、自分の道を進み始めたのだった。




