第88話 : bittersweet
7月のはじめ、翠もついに退院した。しかし、家の中は重く冷たい空気に包まれていた。
あの病院での騒動以来、凛と翠の間には一言も会話のない生活が続いていた。翠は凛の分の食事を作るが、凛の部屋のドアの近くに、お盆に乗せた料理をそっと置いておくのが日課となっていた。
翠は、バイトも辞めてしまい、神城との繋がりが完全に断たれたことで、会話する機会も、感情をぶつける場所も失っていた。
ある日、翠は勇気を振り絞り、神城の様子だけでも見ようと病院を訪れた。しかし、翠は前回の事件により、病院から出入り禁止を言い渡されていた。
病院のスタッフに「あなたは中に入れません」と制止され、揉めていると、満ち足りた表情の麻奈が、病院の自動ドアから出てきた。
「あれ、翠さんだ」
麻奈は、翠がスタッフに引っ張られているのを見て、少し驚いた表情を見せた。
翠は、スタッフの手を怒りに任せて振り払う。病院のスタッフは反動でよろめいたが、翠はそれを気に留めなかった。
「麻奈さん、毎日通ってるの?」翠は、嫉妬と敵意を込めた鋭い視線でそう言った。
麻奈は、その視線を受け止め、勝利を確信したように微笑んだ。
「うん!だって、私と快は付き合ってるからね」
麻奈は、あえてマウントを取るように、感情をぶつけるかのように翠に告げた。
翠の頭は、真っ白になった。自分の命がけの告白と絶望の後の、あまりにも残酷な現実だった。
次の瞬間、翠の表情は激しい怒りに塗り替えられた。
「神城くんが記憶が曖昧なのを、都合よく利用して、罪悪感はないの!?」
「そんなものあるわけないじゃん。快も私のことが好きって言ってたし」
麻奈は、元々翠のことを恋のライバルとして敵対視していたのもあり、必要以上に翠を煽った。
翠は、もう理性を保てなかった。怒りに任せて、麻奈の髪の毛を掴み、顔面を殴りつけた。麻奈は抵抗するが、翠の怒りの勢いは止まらない。
その時、廊下の奥から、車椅子の車輪が回る音が聞こえてきた。
「俺の麻奈に、何やってんだよ、お前!!」
神城だった。車椅子に乗っているにもかかわらず、弱気な昔の面影は消え、麻奈を守ろうとするすごい迫力があった。
翠は、掴んでいた手を驚きと諦めから離し、地面に落ちた。
神城は、翠を一瞥もせず、すぐに麻奈の元へ駆け寄った。
「麻奈!大丈夫か!?顔が傷だらけじゃないか!」
神城が、麻奈を心配し、車椅子の上に乗せ、優しく抱きしめる姿を見る。麻奈は、殴られた痛みで涙を流しながらも、神城の愛に包まれ、どこか幸せそうな、満足しきった顔でいた。
その光景を見て、翠は悟った。
自分は、この恋に、完全に完敗したのだ、と。




