第87話 : dating
翠との騒動と凛の涙の告白があった翌日、麻奈は病院を訪れた。
麻奈は、前夜に聞いてしまった凛の涙の告白と、記憶のない神城の真っ直ぐな想いの残響を、胸の中で噛み締めていた。それは、麻奈の決意を固めるのに十分すぎる出来事だった。
彼女は、神城のベッドサイドに座ると、少しの躊躇もなく、はっきりと告げた。
「ねえ、快。私たち、付き合おうよ」
神城は、幼馴染同士が恋人になるという状況に、わずかな気恥ずかしさを感じたようだったが、彼の心は迷わなかった。記憶が失われていても、麻奈への感情は純粋で、揺るぎないものだったからだ。
「……おう。俺も好きだ」
二人は、誰かの深刻な手術の決断のように、テンポよく、あっさりと交際を開始した。これは、過去の記憶が曖昧な神城と、すべての真実を知ってしまった麻奈の間で交わされた、少し不思議な病院での告白だった。
神城はまだ退院できないため、二人の交際期間は病室の中で始まった。
麻奈は毎日、手作りのお菓子を持ってきては、看護師の目を盗んでこっそり神城に渡した。神城はそれを口にするたびに、子どものように目を輝かせて喜んだ。
穏やかな午後。麻奈は、神城の手をそっと握りながら、未来に思いを馳せて微笑んだ。
「退院したら、色んなとこ行こうね。海とか、映画とか、前に話してた美術館も!」
神城は、照れを隠すように、少し冷静な言葉を返した。
「そうだな。でも、勉強もしなきゃだから、毎日のようには行けないけどな」
麻奈は、その真面目すぎる返答に、思わず声を上げて笑った。
「もう!なんでそう言うこと言うの!」
病室には、記憶の欠落という重い現実がありながらも、温かい笑い声と未来への希望が満ちていた。二人は、確実に恋人としての絆を深めていた。
凛はあの日以来、神城の病室に一度も姿を見せなかった。
正確には、来ることができなくなったのだ。
麻奈と、神城が交際を始めたことを、彼女はまだ知らない。凛は、あの夜の告白の傷が残ったままであった。




