第85話 : scramble
翠が運ばれていき、病室からスタッフが去った後、廊下には重い沈黙が残された。
凛は、ビンタした自身の右手を固く握りしめ、ただ立ち尽くしていた。彼女の視線は、遠く運ばれていく翠の残像を追っていた。
やがて、凛の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。声を殺そうとするが、嗚咽が漏れる。
「そんな....翠.....ずるいよ.......」
彼女の独り言は、嫉妬と、そして妹の愛の深さに打ちのめされた、心からの悲鳴だった。
凛は、ベッドに横たわる神城に近づいた。
「........神城くん、ごめんね。変な騒ぎを見せちゃって」
凛は、そっと神城の寝顔を覗き込み、涙声で語りかけた。
「........私もね。神城くんのことが好きだよ。ずっと。けど、翠との様子を見てると、そんなことを言ってはいけないと思ったんだよ。私だけ、幸せになろうなんて...」
凛は、頬を伝う涙を拭いもせず、堰を切ったように本心を吐露した。
「……そうなんですか」
凛は、その声に全身が凍り付いた。彼は、意識があったのか、それとも無意識下で聞いていたのか。
「起きてたの!?」
凛は驚愕し、慌てて涙を拭おうとした。
神城は、まだどこかぼんやりとしている瞳で、真っ直ぐに凛を見つめた。彼の声は、怯えは消え、穏やかだが、確固たる意志を持っていた。
「俺は、あんたとの過去をまだ思い出せていない。昔の俺のことはわからない。けど……」
神城は、遠い記憶に引っ張られているにもかかわらず、今の自分の本心を迷いなく口にした。
「けど俺は、麻奈が好きなんだ」
その言葉は、凛の心を鋭く、深く抉った。
凛は、張り付けたような笑顔を無理に作り、感情を奥底に押し込めた。
「そっか。そうだったんだね。神城くん」
凛は、無理をして作り笑いを浮かべた。その笑顔は、崩壊寸前のガラス細工のように脆かった。彼女は、これ以上感情が露呈するのを恐れ、神城に背を向けた。
その瞬間、病室の扉が静かに開いた。
麻奈が、すべてが終わった安堵の表情を浮かべながら、病室に今さっき着いたところだった。
麻奈の目に映ったのは、涙を流しながら作り笑いを浮かべる凛と、ベッドの上で彼女を見つめる神城。そして、神城が凛に言った「けど俺は、麻奈が好きなんだ」という言葉の残響だった。
麻奈の安堵の表情は、一瞬にして凍りつき、複雑な衝撃に変わった。
親友の秘めた涙と、愛する人からの、記憶のない状態での真っ直ぐな告白。
麻奈は、自分が最も聞くべきでなかった告白の瞬間と、最も聞きたかった告白の瞬間を、同時に目撃してしまったのだ。




