第82話 : unknown
神城は記憶喪失になってしまってから、会話を交わす相手は麻奈と実の父親の二人だけになっていた。彼の記憶は、凛と出会う前の大体中学校一年生の時で止まってしまっているようだった。
外界に対する恐怖と警戒が強く、彼は病室から出ることもほとんどなかったが、この日の夕方、ようやく車椅子に乗って廊下に出ることが許された。
凛は、廊下の隅で車椅子に座る神城の姿を見つけた。
凛は、迷惑かもしれないとは思ったが、神城に話しかけに行く決意をした。すべてを失ったかのように怯える神城を見て、放っておけなかったのだ。
神城は、自分に近づく凛を見て、たちまち顔を強張らせた。
「また、俺を騙しに来たのか!」
声は小さく、怯えがにじみ出ていた。
凛は、神城を刺激しないように、一歩下がって優しい笑顔を作った。
「あれ?騙すって、何をですか?私はただの、たまたま隣の病室にいるお姉ちゃんですよー」
凛は、友達だと名乗るよりも、全くの他人として接することを選んだ。神城にとって、知らない人が「知っている人」のふりをして装ってくることが、最も怖いのだと理解していたからだ。
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神城は、その軽妙な調子に、少しだけ警戒を解いたようだった。
「俺......何が起きたのかわからないんだよな。麻奈も何も教えてくれないし」
「そっかー」
凛は、神城の弱々しい言葉を聞き、心が深く傷んだ。凛は、神城が自分を心配しすぎるあまり事故を起こしたことに対して強い罪悪感があり、喉が締め付けられるような思いであった。彼女が神城に近づくたび、胸の奥で痛みが走った。
凛は、それでも話を進めた。
「あのね、私と同じ病室にいる妹の『翠』っていう子がいてね。とっても良い子だから、神城くんと友達になって欲しいから、今度紹介するよ」
凛は、今はまだ翠も静養中だからと付け足した。
神城は、警戒をさらに薄れさせたようだった。
「へー、お姉ちゃん、妹いるんだ」
彼の顔に、ほんのわずかだが、過去の恐怖ではない、新しい好奇心が浮かんだ。それは、凛にとって、小さな、しかし確かな希望のように見えた。




