第40話 : sumo
スキー場でのスノボ珍道中を終え、一行は宿泊先の旅館で夕食と温泉を満喫した。神城の財布が冷え込む原因となった旅館の壁は、当面、白いビニールシートで覆われている。
部屋に戻ると、各々が夜の時間を過ごし始めていた。
凛は、ロング缶のお酒をすでに3本空け、ほんのり頬を赤らめている。
環奈は、家から持参したスキットル(携帯用ボトル)に入れたウィスキーをチビチビと味わっている。その表情は「私はプロだ」と言わんばかりの余裕だ。
石田は、部屋の隅で静かに法学の専門書を読みふけっている。周りの騒がしさなど存在しないかのように、そのクールな眼差しは条文を追っていた。
翠は、ローテーブルに向かい、なぜか旅館にまで持参した参考書を開き、真剣に受験勉強をしている。「この時間を無駄にはしない」というストイックさが滲み出ている。
神城は、一人ポツンと座り、今日のスノボの恥ずかしい思い出を反芻していた。
しばらく、各々が自分の世界に没頭していたが、静寂を破ったのは、唐突な神城の雄叫びだった。
「よーし!みんな、気分上げていこうぜ!梨鉄やろうぜ!」
神城の提案に、空気が一変する。「梨鉄」とは、毎度誰かがゴールに着くと目的地が変わり、目指すものがころころと変わる人生ゲームの亜種のような、彼らの中で流行しているデジタル媒体のボードゲームだ。
「やだー、めんどくさい」
環奈はウィスキーを一口飲み、即座に却下した。どうやらゲームの説明はいらなかったようだ。
「っていうか、神城くん、そんな熱くなるなってーゲームより、もっと原始的で本能的な遊びをしようよ」
環奈はニヤリと笑い、飲み終わった凛のロング缶をテーブルに置いた。
「相撲しよう、凛」
「いいねえ」
凛は、お酒で温まったせいか、その瞳は挑戦的な光を帯びていた。普段のおしとやかな面影は薄れ、妙に勝気な「酔い凛」モードになっている。
「え、ちょっと待って!なんで急に相撲なんすか!?」
神城が慌てて立ち上がるが、二人はすでに臨戦態勢に入っていた。
「翠、ちょっと審判やってよ。土俵は、この座布団の上ってことで!」
環奈が、旅館の薄っぺらい座布団を二枚、畳の上に並べる。
「はぁ?こんなアホなことに付き合ってられないわよ。私は勉強があるのよ」翠は冷たい視線を送るが、ついには立ち上がった。そして、石田は変わらず法学書から顔を上げない。
「それでは...はっけよーい、のこった!」
酔っ払った二人の相撲は、全くもってルール無用だった。
「うりゃー!」環奈が低い体勢からタックルを仕掛ける!
「きゃっ!」凛は体勢を崩しながらも、長い腕で環奈の首に巻き付く!まるでプロレスのような展開だ。
畳の上をゴロゴロと転がりながら、二人はお互いを押し合う。
「ちょ、座布団から出てる!勝負あったんじゃ!?」神城が叫ぶ。
「うるさいわね、ヤンキー!これが本能と本能のぶつかり合いよ!土俵なんて飾りよ!」翠が妙に興奮している。
環奈は、ウィスキーで得たパワーで凛を押し返す!一方、凛は酔いながらも持ち前の柔軟性と粘りで耐える!
そして、運命の瞬間が訪れた。
環奈が渾身の力を込めて凛を押し込んだ瞬間、凛は受け身を取るどころか、その勢いを殺せずに後方へ大きく体勢を崩した。
ドンッ! ガラガラガラ!
凛の背中が、部屋の隅にあった障子にまともに激突!障子の細い桟と白い紙が、まるで紙吹雪のように飛び散る!
障子には、凛の背中の形をした見事な大穴が空いていた。
障子の惨状に、全員が動きを止めた。凛は呆然と穴を眺め、環奈はスキットルを落としそうになっている。そして、石田は...まだ本を読んでいる。
「あ...」
一瞬の沈黙の後、ついに事態を理解した神城が、青ざめた顔で叫んだ。
「環奈さん!井出さん!もういい加減にしてください!さっきのボードの弁償代に、この障子の修繕費がまた追加されるんすか!俺の給料、全部なくなるって!」
神城は、先ほどの壁の修繕費に続き、再び出費が確定した事実に、顔面を両手で覆い、畳に泣き崩れた。彼の目には、給料明細がどんどん薄くなっていく恐ろしい幻影が見えていた。
「えー、凛が倒れたんだから、凛が弁償だよ」環奈はシラを切る。
「むー、環奈が押したからだよ...」酔いが覚め始めた凛が不満を漏らす。
彼らの旅は、楽しさよりも破壊と弁償の記憶で上塗りされつつあった。




