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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第9話「長宗我部の影、外交の迷路」

 土佐からの便りが安土に届いた朝、湖の面は塩の薄い膜を張ったように鈍く光り、風は南へ向かって低く流れていた。

 ——長宗我部。

 信長の短い命は、いつもながら骨だけで立っていた。「調整せよ」。肉付けは任せる、ということだ。肉をどのように付けるかは、骨の形を理解しているかどうかにかかる。光秀は命の紙を折り、懐に入れた。紙は薄いが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた線は、朝になっても濃く残る。


 土佐へ渡る船は、河口から海へ出るところで一度、息を止めた。

 潮が、川と海の言い分を、互いに少しずつ呑み込んでいる。船頭は風の匂いを嗅ぎ、舵の角度をひと分だけ変えた。

 「四国の風は、山を越えてから海に落ちる」

 船頭の言は、政の匂いを含んでいた。山と海。自立と交流。長宗我部の気配は、その両方の間に張られた細い綱のようだ。細い綱は、張りすぎれば切れ、緩めすぎれば役に立たない。


 土佐の浜は、石が白く、砂が粗く、潮の匂いが深かった。

 出迎えの使者は、言葉の前に肩の角度を示す男だった。膝を折るとき、膝より先に拳の影が畳に落ちる。

 「ようお越し」

 言は短く、音は低い。

 「尾張の御庭にては、風はいつも同じ方に吹くと聞き及ぶ」

 挨拶に、砂粒ほどの棘が混じっている。

 「風は器を選びませぬ。器を選ぶのは人」

 光秀は笑いの形だけを口元に作った。

 「ここでの風は、山で一度ひっくり返り、海で再び座る。座り直す風は、息が長い」

 使者の眼が、一瞬だけ揺れた。

 揺れは、海鳴りの上に浮かぶ泡のように短くて、しかし確かだった。外交の術は、その泡に指を差し入れ、破らず、形を覚えることにある。破れば、泡は海の一部に戻る。形を覚えれば、明日の言の乗り場になる。


 最初の会は、海辺の粗末な座で行われた。

 藁を敷き、塩を置き、干魚と薄い茶。

 「殿のお言葉を」

 使者が促す。

 光秀は、信長の命をそのまま言にせず、骨から筋をこさえ、筋から皮膚を伸ばす手つきで話を進めた。

 「西海の道を整え、坂の角度を揃え、鐘の回数を合わせる。名は札に、石の裏に、裏戸に」

 土佐の男は、鼻で短く笑った。

「坂や鐘はええ。裏戸に貼る紙は、潮で剥がれる」

 「ならば、石に忍ばせる」

 光秀は近くの白い石を指で撫でた。

 「名は、背の温度を変えます。風が変わっても、温度は自分で守れる」

 男は黙り、石を一度だけ足先で触れた。

 「名、か。名は恥にもなる」

 「恥は、背を伸ばします」

 短い応酬の間に、潮が引き、石の色が一段明るくなった。


 翌日、長宗我部の家中から別の使者が来た。

 こちらは、言葉の前に眼の色を変える男だった。

 「土佐は海であり、山である」

 男は最初にそう言った。

 「海は交易の道、山は守りの道。どちらを庭と呼ぶかで、話は変わる」

 光秀は頷き、紙の端に小さく線を引いた。

 「庭という言は、土を囲い、世話をし、季節を待つ心から生まれます。囲いすぎれば、風が腐る。囲わなければ、苗が折れる。——殿は、風を腐らせたくない」

 「殿?」

 男の眉が動いた。

 「尾張の殿は、風を使う男です。器に風を通すために、壁を打ち抜くことを惜しまぬ」

 男は薄く笑った。

 「壁を打ち抜く音は、山では反響して倍になる」

 「ならば、壁を打つ前に、鐘を二つ鳴らす」

 光秀は言い、持参した書付を差し出した。

 ——鐘、七。灯、小。名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。祭は理の外に置かぬ——

 土佐の男は、文字を追う眼でこちらの息を測る。

 「書は水やな」

 「真意は炎になりがちです」

 「炎は早い。水は遅い。遅いものは、長い」

 同じ言に、海の方言が付いた。海の湿りで、言の骨は少し柔らかくなる。柔らかい骨は、折れても継ぎやすい。


 会合は三度を数え、四度目の朝に風が変わった。

 長宗我部本隊の使者が現れたのである。

 髪は潮で重く、眼は山で乾いている。背の線は自立の形を持ってまっすぐだ。

 「四国は一つの舞台」

 使者は言った。

 「舞台の主は、こちらで決める」

 挑む言に、怒りの熱はない。熱は、向けられるよりも、抱えられるほうが強い。

 「舞台の主は、客の息を数える者であるべきです」

 光秀は静かに返した。

 「息を止める者ではなく」

 使者は、わずかに顎を持ち上げた。顎の線は、山で鍛えられた武の線だ。

 「息を止めるのは戦。息を測るのは政。——そちらは、どちらで来た」

 「文で参った」

 「文は水やな」

 「水の上に橋を架ける者の名を、札に置きたい」

 「名を置くと、背が冷える」

「冷えは、火に不用意に近づく足を止めます」

 しばしの沈黙ののち、使者は短く頷いた。

 「一両日、返答を待て」


 宿に戻ると、潮の匂いの隙間から、煕子の咳の音が届くような錯覚に襲われた。

 灯の下に文机を置き、光秀は筆をとった。

 ——土佐の風は、山を越えて海に落ちる。

 ——名は背の温度。札は石の裏で乾く。

 ——四国は一つの舞台。主は客の息を数える者。

 ——真意は炎、文は水。混ぜれば濁る。

 筆は迷わなかったが、紙の端に余白を多く残した。余白は、遠い場所にいる者の息が入るための場所だ。

 返事を待つ間、光秀は港の札場に立ち、名の欄を少し広げた。

 ——名、渡船の者、潮見の者、灯の者、裏戸の者——

 子どもが近寄り、文字を指でなぞった。

 「ここは余白」

 光秀が言うと、子は笑い、潮で白くなった指を振った。

 「余白は、波が来たとき座り直す場所です」


 返答は、潮が満ちる時刻に届いた。

 長宗我部は、表向きの和を受ける。ただし、海の道に関する決め事の半分は土佐の裁量に委ねる。

 「半分」

 使者は言葉に石を置くように強めを加えた。

 「半分は、山に残す」

 「半分の和は、半分の戦です」

 光秀は返し、書付の下に小さく一行を足した。

 ——ためらいを罪としすぎぬこと——

 使者はその行を読み、目を細めた。

 「ためらいは、潮目のようなものか」

 「潮目を見誤れば、船は砂に乗り上げる」

 「見ておるうちに、風が変わることもある」

 「変わるからこそ、鐘の回数を決める」

 使者は笑い、頷いた。笑いは短いが、潮風の中でよく響いた。


 京に戻れば、風は一晩で別の匂いを帯びた。

 安土の金の陰は濃く、地の声は薄い。

 信長は、文を受け取ると、扇の骨を鳴らすことすらせずに薄く笑った。

 「四国は我が庭」

 断は短く、骨だけで立つ。

 「庭の草は、抜くほうが早い」

 光秀は頭を下げた。

 「庭は囲いの名にて候。囲いは風を選びませぬ」

 「風は選べぬが、風の道は作れる」

 信長の眼は、金箔の陰を内側に灯していた。

 「水は、石で形を変える。石を積め」

 「積めば、遅くなります」

 「遅いものは、長い」

 同じ言が、別の角度で戻ってきた。

 だが、その「長い」は、舞台の上の台詞のように、次の場面のための布石だった。

 「半分の和、か」

 信長は紙を軽く持ち上げ、光に透かした。

 「半分の和は、半分の戦より、始末が悪い」

 冷笑が、紙の端を刃のように撫でた。

 外交の成果は、一瞬で舞台の灯に溶ける。溶け残るのは、紙の重みと、言の痕と、胸の奥のひびだけだ。


 光秀は筆を執り、信長の言を柔らかく翻案して、四国あての書状に落とした。

 ——海の道は、風でなく、名で決める。鐘、七。灯、小。祭は理の外に置かぬ。

 ——石は積む。積んだ石の間に水を通す。

 ——庭は囲いではなく、世話。世話の名は札に置く。

 書は水だ。炎に投げ込めば消える。だが、消える前に湿りを残す。湿りは、次の火を小さくする。

 光秀は、紙の余白にまたひと行足した。

 ——白は無ではない。可能性の色。

 白は、まだ信じられた。


 数日後、土佐から別の風が来た。

 短い書付。「半分の和」を「三分の和」にしたいという。山の事情、海の機嫌、周辺の名の重さ。

 「三分」

 安土の広間で、信長は笑わなかった。

 「三分は、庭の砂の数にはならぬ」

 扇の骨が、今度は乾いて鳴った。

 「明智」

 「は」

「四国の舞台に、余白が多い。余白は、座るためにある。座っている間に、風は変わる」

 「余白は、息の座」

 光秀は応える。

 「息がなければ、勝ちは長持ちいたしませぬ」

 信長の眼が細くなり、次の瞬間、笑いが細い刃に変わった。

 「面倒を言う」

 面倒は骨の継ぎ目である。継ぎ目を見せるのは、恥を誇りに変える術だが、舞台の主にとっては、観客の耳に響かぬ雑音でもある。

 「四国は、我が庭」

 その言が再び置かれ、紙の上の水は少し、濁った。


 夜、煕子は灯の前で裁ち端を揃えていた。

 咳は前より深く、しかし、針の進みは乱れない。

 「土佐は、海と山で、息が長い」

 光秀が言うと、煕子は微笑を形だけ作った。

 「長い息には、短い言を」

 「短い言は、骨だけで立つ」

 「骨は、粉で継げます」

 粉。——金でなくてよい。

 光秀は、煕子の指の節にそっと触れた。指は冷たいが、芯は熱を持っている。

 「殿、文は水」

 煕子の声は細く、しかし底に強さがあった。

 「水は、器の形を写します。器が歪めば、水も歪みます。歪んだ水でも、喉は潤う」

 「潤いが、次の言を遅くします」

 「遅いものは、長い」

 ふたりは小さく笑い、灯の火を指で囲んだ。小さい灯は、消さずに持って歩ける。


 調整は続いた。

 駆け引きの場で、相手の眼が一瞬揺れる。その揺れを掬い取れるかどうかが、外交の術。

 ある会で、土佐の若い者が、古い地図に指を置いた。

 「ここが、潮の穴」

 地図の海の余白に小さな点があり、そこから細い波線が四方へ伸びている。

「潮の穴に舟がかかると、しばらく動かない。動かないうちに、潮が変わる」

 「ためらいと同じですね」

 光秀は言い、紙の端に小さく「潮目」と書いた。

 「ためらいを罪としすぎぬこと」

 「罪とせねば、戦えぬ時もある」

 別の男が低く言った。

 「戦は短い。恨みは長い」

 光秀の返しに、男は鼻で短く笑い、すぐに真顔に戻った。

 「長いものは、いつか骨になる」

 「骨は、見えぬところで継ぎたい」

 「継ぎ目が見えぬと、誰かが同じところで折る」

 言の綱は、海風に鳴った。


 やがて、安土からの次の命は、言の余白を狭くした。

 ——讃岐・阿波の筋立て、こちらで定むべし——

 四国の西と東を、別の舞台に分ける意。土佐の自立心に、わざと角度をつける線引きだ。

 「線は、粉で引くべきところに、刃で引けと仰せです」

 光秀が小声で漏らすと、近くにいた小者が目を丸くした。

 「粉の線は、灯にかざすと柔らかい光を吸う。刃の線は、光を反す。反した光は、目を痛める」

 小者は頷き、白い札を一枚増やした。

 ——ここは一刻の舞台——

 港の辻に立った札は、潮で揺れ、子どもが名を書き、僧が指で押さえ、商人が笑い、海鳥が鳴いた。

 祭を理の外に置かない。出来事にして、理の中に入れる。

 理を美で隠さない。美を理の中で泳がせる。

 その作法を、四国の潮にも馴染ませられるか。紙は薄く、風は無色で、名は重い。


 交渉の合間、光秀は夜ごと、安土へ書を飛ばした。

 ——鐘、七。灯、小。

 ——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 ——祭は理の外に置かず。

——半分の和、三分の和、次は幾分の和か。

 返ってくるのは、いつも短い骨の文だった。

 ——四国は我が庭——

 その一行が、他のすべての行に影を落とす。影は、金箔の陰よりも冷たい。冷たい陰は、背を固くする。固くなった背は、折れるときに大きな音を立てる。

 光秀は、紙の余白に「遅い息」と書き足した。

 遅い息は、遅い眼を守る。遅い眼は、穴の縁を見る。穴の縁は、潮目に似ている。


 ある夕刻、土佐の使者が思いがけず茶を所望した。

 粗い茶碗、粉の線、薄い茶。

 「器は欠けても、使える」

 使者が言い、碗の縁の線を指でなぞる。

 「欠けを隠さぬ線があれば」

 光秀が応える。

 「線、か」

 「国の作法も、線です。刃の線より、粉の線が長持ちする」

 「粉は雨に弱い」

 「雨の前には、灯を小さく」

 使者は笑い、茶を二度に分けて飲んだ。二度の間に、港の灯が一つ、二つとともった。

 灯は小さい。小さいから、持って歩ける。持って歩ける灯だけが、海と山をまたぐ。


 京へ戻る旅路、風は陸に向かい、舟の腹を低く鳴らした。

 安土につくと、信長はすでに次の舞台の図を手にしていた。

 「阿波の道に石を積め」

 「水は、石を避ける」

 「避けて流れればよい。流れが速すぎる」

 「速さは、恨みも育てる」

 信長は扇を開き、一枚ずつ骨を指で撫でた。

 「恨みは、遅く、長い。長いものは、別の舞台で扱え」

 「舞台は一つ」

 思わずこぼれた一言を、光秀は自分で拾って飲み込んだ。

 「舞台は一つの器。器は割れぬように、粉で継ぐ」

 「粉は、風で飛ぶ」

 信長の笑いは薄かった。薄い笑いは、刃の背でなでられたような痛みを残す。

 「面倒を言う」

 「面倒は、器の継ぎ目にございます」

 そのやりとりのあとで、信長は一つの紙を押し置いた。

 ——京の席次、改む——

 四国だけでなく、都の椅子も動く。椅子の動きは、海の潮のように見えず、しかし確かに足を攫う。


 煕子の咳は、日によって荒れた。

 夜、彼女は縫い目の途中で針を止め、襖の外の風を聴いた。

 「四国の風は、こちらまで来ます」

 「風は器を選ばぬ」

 「選ばぬから、器が選ばねばならぬ」

 光秀は頷き、紙の端に「器の選び方」と書いた。

 ——坂は敬いの角度。

 ——名は背の温度。

 ——祭は理の内。

 ——ためらいを罪としすぎぬ。

 ——白は無ではない。可能性の色。

 書けば、息が落ち着く。落ち着いた息は、明日の遅い眼になる。


 駆け引きの場は、やがて迷路になった。

 讃岐の港の名、阿波の峠の名、土佐の浦の名。名は紙の上で増え、札の白は狭くなり、余白を別の場所に足す必要が出てくる。

 光秀は、迷路の角ごとに「一刻の舞台」の札を立てた。

 ——ここは息の座——

 札の前で、兵が水を飲み、商人が荷を下ろし、僧が数珠を解き、子が眠った。

 息は、勝ち負けの外にある。

 息があるところで、刃は鈍くなる。

 鈍い刃は、粉の線を守る。


 京都へ戻るたび、信長の言は短くなった。

 「四国は、我が庭」

 繰り返される一行は、紙ではなく、胸の骨に刻まれる。

 骨は見えない。折れれば全身が崩れる。

 光秀は、その骨の周りに粉をそっと置き続けた。

 ——祭は理の内。

 ——鐘、七。灯、小。

 ——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 粉は、風で少し飛ぶ。飛んだ後に残る粉が、線になる。線は、見えすぎず、消えにくい。消えにくいものは、遅い。遅いものは、長い。長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。


 ある日、土佐の使者が京に上った。

 安土の広間で、彼は深く頭を垂れ、短い言を置いた。

 「三分の和を、四分に」

 信長は、扇で空を一度だけ切った。

 「半分でなければ、庭の砂は揃わぬ」

 使者は顔色を変えず、わずかに視線を光秀に投げた。

 その一瞬の揺れを、光秀は胸の中で掬い、紙に書き留めるように覚えた。

 ——四分の和、半分の戦。

 ——半分の和、四分の戦。

 言の配分は、潮の配分に似ている。

 潮目を見定める眼は遅く、舵を切る手は速い。

 「足は速く、眼は遅く」

 かつて信長の口から出た言を、光秀は自らの胸で繰り返した。

 遅い眼は、穴の縁を見る。穴の縁に粉を置く。粉が線になる。線が器を継ぐ。


 饗応の屈辱の夜から、まだ遠くない。

 理を美で隠すな、という刺すような言。

 美は陰を深くし、陰は息を休ませる。

 だが、陰が冷えすぎれば、骨は黙って強ばる。

 強ばった骨は、折れるときに大きな音を立てる。

 湖の皺は、音を持たない。

 音のない皺のほうが、怖いときがある。

 四国の風は、音のない皺を安土の水面に寄せつつあった。


 夜、光秀は煕子の枕元で、短い文をひとつ書いた。

 ——外交の術は、相手の眼の一瞬の揺れを掬い、破らず、形を覚えること。

 ——真意は炎、文は水。混ぜれば濁る。

 ——濁らせぬために、粉の線を置く。

 煕子は咳を押し殺しながら聞き、微笑の形だけを置いた。

 「殿、白は無ではありません」

 「可能性の色」

 「白に線を引くのは、面倒」

 「面倒を面白がる」

 ふたりの声は、灯に撫でられて薄く伸び、そのまま夜の襞に吸い込まれた。


 翌朝、空は薄い灰色で、京の鐘は長く鳴った。

 信長からの新しい紙は、相変わらず骨だけで立っていた。

 ——四国、兵の支度、早々に——

 文は水、真意は炎。

 炎の舌が、紙の端をすでに焦がし始めている。

 光秀は黙って佩刀の位置を直し、外の寒気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 沈黙は弱さではない。

 誓いの形だ。

 紙の余白に、ひと行だけ書き足す。

 ——ためらいを罪としすぎぬ——

 その線は細い。だが、細い線が地図を作る。

 地図は、一夜で庭にされる。庭は、一刹那で荒野になる。

 それでも、粉の線を置く。

 粉の線は、見えすぎず、消えにくい。

 消えにくいものは、遅い。遅いものは、長い。

 長いものだけが、国の骨になる。

 光秀は、その長さを信じることで、背を伸ばした。背が冷えぬように、名を紙に置き、鐘の回数を決め、灯を小さく、札を白くして、安土の石段を降りた。

 四国の影は長く、外交の迷路は狭く曲がり、出口は風の方角で形を変える。

 だが、息はある。

 息がある限り、粉の線は引ける。

 粉の線がある限り、器は割れぬ。

 割れぬ器の中で、人は今日も、ためらいを持ったまま、茶を飲み、名を書き、背を伸ばす。

 白は無ではない。可能性の色である。

 その白を、誰の庭にもせぬために——光秀は、今日も黙って、紙に線を置いた。

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