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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第8話「饗応の屈辱、沈黙の誓い」

 家康饗応の日取りが決まった朝、湖の面は紙を張り詰めたように静かで、安土の城下は早鐘のように動いた。

 息の長い準備は、それでも最後の七日で急に速度を変える。上段の間の障子紙は張り替えられ、畳は裏返され、金箔の縁は布で軽く押され、南蛮渡来の硝子は一か所に光を集めないよう角度を調えられた。献立の書付が昼ごとに入れ替わる。季節は端境、山なら蕗のとう、里なら早稲の新藁の匂い、海の幸は遠い。手に入る光と影の素材で、味の秩序を立てねばならぬ。


 光秀は普請の地図と政の帳面のあいだを行き来する足を、そのまま御台所へ運ぶ。

 「一の膳、白木の折敷、汁は浅め、塩は一つ摘まみに」

 「二の膳、向付は鮎の一夜干し、焼きは薄く、香は杉葉で隠す」

 「椀の蓋の向きは、右に三分……三分は多い、二分に」

 言うほどに、台所の空気が引き締まっていく。

 「名を置け」

 光秀はいつもの調子で言う。

 「魚を捌いた者、盛り付けた者、蓋を置いた者、膳を持つ者、すべての名を札に。髪結いの名もだ」

 名は背の温度を変える。名の列が板戸の隅に増えるたび、誰かが一度深く息をする。遅い息は、遅い眼と同じく、穴の縁を見る。


 器は、安土の誇りのひとつである名物が揃えられた。唐物の青磁、和宋の茶入、金継ぎの跡が陽に溶ける茶碗。

 「欠けが恥でなくなるのは、線が見えるときだ」

 光秀が呟くと、傍らの茶坊主が頷く。

 「線は粉でよろしい。金は目を眩ます。粉の線は、手に覚えが残る」

 光秀はその言葉を拾い、帳面に小さく“粉の線、恥を守る”と記した。


 座次は、武家の癖と過去の出来事の余熱を読み、わずかな角度で調えられる。

 「客の息が詰まらぬように、上座を絞るな。だが広げすぎると、中心が冷える。冷えた中心は、ひとつの悪意で割れる」

 膳所の若衆が墨で格子の図を描く。光秀はそこに小さな余白をいくつか置く。

 「余白は、息の座だ。人は座り直すとき、余白を探す」

 余白は空ではない。可能性の色だ。夕刻、家康の輿が安土に入る前に、光秀は最後の札を貼る。

 ——鐘、七。

 ——灯、小。

 ——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 札の白は、風によく鳴った。


 饗応の刻が近づくと、音は細くなっていく。襖の開け閉め、塗りの器が卓に触れる乾いた音、湯気が金の陰を撫でる湿った音。そこへ家康の足音が混じることを、誰もが自分の耳で先に想像する。想像の中の音は、実の音より重い。


 家康は、噂に違わず寡言であった。

 座に着くと、薄い笑いを一度だけ置き、目は器の縁と人の手を交互に見た。器の口縁に映る息の揺れまで読むかのような静けさだ。

 「殿、山の香」

 東国風の侍が小声で進言すると、家康は首をわずかに振った。そのわずかさが、座の空気の皺をほどく。


 一の膳は滑らかに運ばれた。椀の蓋が右に二分、揃い、美しく、過ぎず。

 二の膳、向付が遅れた。

 遅れは、一つの盆の前で生まれ、湯気の列の端で増幅され、座の真ん中で目に見える形になった。

 「ふむ」

 信長の扇が、卓の下で一度だけ低く鳴った。誰も振り返らない。だが、鳴りは皆の背に小さく残る。

 三の膳、器のひとつに、黒い細い線が入った。髪だ。

 女中の手が震え、その震えが器を伝って微かに音を立てる。音の小ささが、かえって目を集めた。

 光秀は視線を上げず、手だけで合図を送った。器は即座に引かれ、他の膳の影に隠れ、新しい器が入り、茶の湯の湯気が座を白くした。


 家康の横顔は、変わらなかった。

 変わらぬ顔ほど、内側の動きを想像させる。想像の速度が、噂より速いことを光秀は知っている。

 「殿は、食に淡い」

 別席で控える者の噂が、後に城下を走る姿まで見えた。城の外で膨らむ言葉は、たちまち形を歪にする。


 終いの茶。

 光秀は自ら薄茶を点て、家康に献じた。器は金継ぎの跡が細く走る。

 家康は一息に飲まず、縁に口を置いて、呼吸に合わせて二度に分けた。二度のあいだに、灯の火が一度揺れた。

 「よき器」

 それだけ言って、目を伏せた。褒められたのは器か、線か、継いだ手か。どれであってもよい、と光秀は思う。器の誉れは、線の恥を包む。


 饗応は、ゆるぎなく終わったかに見えた。だが、終幕の直後に本当の舞台が始まることを、光秀は何度も学んだ。

 廊下に呼び出され、信長が立つ。扇は閉じられたまま、彼の目だけが金箔の陰を残して鋭い。

 「美しさは理で作れ」

 刺すような低い声。

 「理を美で隠すな」

 言外の鞭が、肌ではなく骨に当たる。骨に当たるから、姿勢が変わる。

 光秀は深く頭を下げた。

 「は」

 その一字の温度を、自分で確かめる。冷えすぎても、熱すぎてもいけない。「は」は骨に触れて、立つための角度に落ちねばならない。


 家康の一行が下がる回廊で、供侍が一瞬だけ振り返った。

 表情の読めぬ目。

 目は、見られるためではなく、記すために振り返るときがある。

 ——記された

 光秀はそう感じた。記した者が誰であれ、記憶は名前を欲しがる。名のない記憶は、風より速く広がる。


 夜、安土の灯が徐々に小さくなるなか、光秀は女中の一人を呼び出した。髪の入った器を担った娘である。

 「名を書け」

 娘は血の気のない顔で筆を持ち、震える手で名を書いた。

 「下に、今月の三つの名を重ねよ。夜回り、灯の芯、裏戸の紙」

 娘は首を上げた。「罰、にござりまするか」

 「罰は銭でせぬ。手間で薄める」

 光秀は静かに答えた。

 「恥は、背を冷やし、背を伸ばす。伸びた背で、明日の器を持て」

 娘は深く頭を下げ、泣かなかった。泣かぬ代わりに、灯の影が頬を長くした。影の長さは、心の余白の長さでもある。


 屋敷へ戻ると、煕子の咳が強くなっていた。薬湯の匂いが部屋の隅に溜まり、灯が薄い輪を作っている。

「遅い」

 煕子は笑って言った。

 「饗応は、遅くてはならん」

 光秀も笑い、膝をついて彼女の冷たい指を握った。

 「殿、器は欠けても、使えます」

 いつかと同じ言葉。だが、その声の細さが違う。細さは儚さではない。線の細さは、手の覚えに近い。

 「欠けを隠さぬ線があれば」

 光秀が続けると、煕子は頷いた。

 「線は粉でいい。金で眩ますと、欠けを忘れる。忘れた欠けは、別のところで鋭く出る」

 ふたりの声は、湯気に混じって低く沈んだ。


 その夜、光秀は灯の下で短い文を記した。

 ——理は、美や威の飾りではない。人を守るための骨であるべきだ。

 ——骨は見えない。折れれば全身が崩れる。

 筆は止まらず、次の一行を探したが、紙の余白が先に目に入った。余白は、誓いの形だ。誓いは声に出さぬほうが長持ちする。


 翌朝、空気は薄く冷たい。

 信長からの命が届く。

 ——長宗我部の件——

 土佐との調整。四国の風向きを、安土の舞台の拍子に合わせよ、という短い行。短いが、意味は長い。

 「四国は、祭の外に置けぬ」

 光秀は独り言のように呟き、佩刀の位置を直した。腰骨の上で重みを確かめる。重みが骨に沿えば、歩みは遅くともぶれない。


 侍所に向かう途中、城下の札場に目をやる。

 ——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 ——坂、右より掃く。

 ——茶、一椀の時間、口を大きくせず。

 白い札の端に、子どもの指の跡がついていた。

 「ここは余白」

 昨日の稽古の声が蘇る。

 余白に誓いを置く。誓いは音を持たない。持たないから、折れにくい。


 長宗我部。

 土佐の風は湿り、山が近く、谷が深く、丹波に似て、しかし海がある。

 「道と掟」

 古老の問いに返した自分の言が、胸で再び鳴る。

 「恥と名」

 比叡の灰の上で拾った鉢の縁の粉の線が、指に触感を残している。

 「ためらい」

 安土の陰で主に告げられた言が、骨に沿って冷たく生きている。


 政の骨をどこまで支えられるのか。

 戦の骨をどこまで支えられるのか。

 骨は、一本だけでは立たない。

 骨と骨のあいだに、粉の線を引けるかどうかだ。

 粉の線は、見えすぎず、消えにくい。

 消えにくいものは、遅い。

 遅いものは、長い。

 長いものだけが、国の作法になる。


 侍所の手前で、饗応の夜に器を持った娘が、朝の掃き清めをしていた。

 「名を」

 光秀が問うと、娘は袖から小さな紙を出して見せた。

 裏戸の名、灯の芯の名、夜回りの名。

 名が三つ重なり、紙は厚い。

 厚い紙は、風でちぎれにくい。

 光秀は頷いた。

 「恥は、背の温度だ。温度があるうちに、器を持て」

 娘は深く礼をし、箒を持つ手の形が少しだけ美しくなった。


 家康の饗応は、城下に短い噂と長い影を残した。

 噂は風より速く、影は水より遅い。

 速いものは人を刺し、遅いものは人を沈める。

 刺されぬために、札を増やす。

沈まぬために、茶の湯の陰を増やす。

 どれも面倒で、面倒を面白がれぬ者は疲れる。

 疲れは、恥の裏の小さな亀裂から音もなく入る。


 「面倒を面白がる者が、舞台を腐らせぬ」

 信長の笑いとともに投げられた言は、礼として受けた。

 礼は、返す場所を選ぶ。

 今は返さぬ。返さぬ沈黙が、誓いの形を保つ。

 沈黙は弱さではない。

 声を節約して、骨に塗る粉のようなものだ。


 土佐の図を広げる。

 河口に砂州、山裾に村、海風の抜け道。

 「坂は敬いの角度」

 安土式目の一行が、異国の風にも通用するか、紙の上で試す。

 「名は札に、石の裏に、裏戸に」

 名を置ける石はあるか。裏戸に貼る紙は湿らぬか。鐘は何回鳴らすか。

 「ためらいを罪としすぎぬ」

 戦の図に、それをどこまで書けるか。書けぬところで、せめて余白を増やす。

 余白は、息の座。息がなければ、勝ちは長持ちしない。


 昼前、安土の大手で小さな騒ぎがあった。

 旅の楽人が笛を吹き、子どもが踊り、見物人が勝手に舞台を作った。

 役人が止めに入る前に、光秀はひとつだけ札を立てた。

 ——ここは一刻の舞台——

 札の白は薄いが、名の欄が広く空いている。

 楽人は名を書いた。子の親も、見物の商人も、通りかかった僧も書いた。

 名が重なれば、紙は厚い。

 厚い紙は、騒ぎを祭に変える。

 祭は、理の外に置かず、中で息をさせる。

 理を美で隠さぬために、美を理の中で泳がせる。


 夕方、煕子は少し熱を下げて座に戻った。

 「土佐は、遠い雨です」

 彼女は湖の皺を見るように言った。

「遠い雨の前に、灯を小さく」

 「灯は小さいほど、持って歩ける」

 ふたりは笑い、息を合わせた。

 笑いの小ささは、誓いの大きさと反比例する。


 夜半、光秀は一行だけ紙に残した。

 ——沈黙は、誓いの形——

 紙は薄い。

 薄い紙ほど、墨は早く乾く。

 乾いた墨の線は、朝になっても濃く残る。

 その線の上に足を置き、外の寒気を胸いっぱいに吸い込み、佩刀の位置をもう一度直し、光秀は歩き出した。

 政と戦の骨を、どこまで支えられるのか。

 答えは、線の上にだけ出る。

 線は、粉でよい。金でなくてよい。

 粉の線は、見えすぎず、消えにくい。

 消えにくいものは、遅い。

 遅いものは、長い。

 長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。

 安土の朝は白く、白は無ではなく、可能性の色であった。

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