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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第7話「安土の夢、理の舞台」

 安土の地に初めて杭が打ち込まれた日の朝、湖は硝子のように静まっていた。

 風は薄く、白鷺の羽音さえ届きそうなほどに音の層が薄い。大工の掛け声だけが、水面に浮いた見えない幕に当たって跳ね返り、丘の肌へ吸い込まれていった。信長の「ここだ」という短い一言が先に降り、図と縄と杭がそれを追って降りた。夢は、人の指の跡を残した石に、順番に宿り始める。


 大手道の勾配を決めるにあたり、光秀は砂を掴んで手のひらで傾けた。

 砂は、角度が一分違えば流れ方が変わる。人も同じだ。祭の日には速く、葬の時には遅く、戦の朝には揃って上り、収穫の夕には散って下りる。安土の大手は、ただ兵を通すためではない。人の呼吸を刻むための坂であるべきだ。

 「この角度なら、轎は揺れるが、落ちぬ」

 棟梁が言う。

 「揺れは、敬いだ」

 光秀は答えた。

 坂は、登る者と見上げる者の間の礼を、無言のまま整える。礼があるところに恥が生まれ、恥があるところに秩序の熱がつく。


 天守の土台が積まれはじめると、石の顔が語り出した。

 川底から上げた丸みの残るもの、田の畦から抜いてきた角ばったもの、寺の古い石段の端から譲り受けた、すでに人の足の記憶を持つもの。石はそれぞれ、別の時の温度を帯びている。光秀は掌で触れ、冷たさの形を測るようにして配置の紙に印をつけた。冷たいもの同士を向かい合わせれば、間に止まる風は鋭くなる。ひとつ柔らかい石を挟めば、そこに人が腰を下ろすだろう。

 「舞台は、柱だけでは立たぬ」

 信長が背後から扇を鳴らした。

 「柱と、風と、足音だ。足音の行き先まで、図に描け」


 南蛮渡来の意匠に詳しい者が、紙の上にあり得ぬ鳥や丸い塔の頭を描いた。

 「殿。これは風を呼ぶ形にてございます」

 画工が言う。

 信長は頷き、紙の端に指を置いた。

 「風はよい。風は匂いを運ぶ。匂いは記憶になる」

 光秀は、その指が示す先に、広場の余白をひとつ足した。余白は空ではない。祭のために空けられた場所だ。祭は理の敵にも味方にもなりうる。乱れを贈り物に変える術を持たねばならない。


 普請の指図の合間も、政務は止まらない。

 諸役の不公平は、すぐに声になる。声はまず、井戸端で小さな泡のように生まれ、夕餉の鍋の上で少し膨らみ、翌朝には市場の端で破裂する。

 光秀は、働きを三つに割った。日役、物役、知役。

 日役は手間、物役は米や木材、知役は字や計算、楽の技、祈りの声。

 「字の書ける者の役は軽く見られがちだが、軽い役ほど長く効く」

 帳面にそう書き、下に式目の条を続けた。

 一、役は三つを混ぜるべし。ひとつの役で背を折らぬこと。

 一、役の名は札に記し、札の下に名を重ねること。

 一、恥は銭で購わず、手間で薄めること。

 一、祭の日、鐘の回数は役の軽重に従うこと。

 名は骨で、骨は皮膚の緊張を保つ。名のない働きは、良くも悪くも匂いになって消える。


 税の負担は、数字の形をして背を冷やす。

 米に換えるのが早い年もあれば、塩や布のほうが村を守る年もある。

 光秀は、義輝の文に倣って、負担の式を三段にした。

 上段は定。下段は変。中段は天の気配。

 定は土地の骨、変は人の息、天は運だ。

 「運まで式に落とすのか」と書庫の番が笑った。

 「運の名を置けば、誰もが空を見上げる」

 空を見る時間は、怒りの熱を下げる。空の薄青は、人の心を一度だけ遠くへ運んでから戻してくる。戻ってきた心は、少し静かだ。


 唐風の斗栱、南蛮の硝子、漆の黒、金箔の練。

 建具が運ばれ、楽人が音を試し、僧が新しい堂の尺度を確かめ、画工が壁に下絵を流す。

 ある日、画工が金箔を貼る手を止めた。薄い金は、人の吐息でふるえる。

 「殿。この金は光のためではございませぬ」

 「ほう」

 「陰を作るために貼るのです。光は人を眩ませ、陰は人を休ませます。陰を深くするには、輝きが要る」

 光秀は、はっとした。

 輝きが陰影を深くする。

 信長の輝きが、家臣たちの心の陰を濃くするように。陰が濃くなれば、人はそこで息を整えるか、闇に紛れて背を曲げる。陰の質を、誰が決めるのか。舞台の主か、舞台の下で椅子を並べる者か。


 饗応の日、光秀は茶を点てた。

 相手の器の口縁を見れば、その日の心の湿りがわかる。乾いているときは茶が走り、湿っているときは茶が留まる。

 諸侯の顔色は、壁の金と灯の白に挟まれて一段明るく見えた。明るさは嘘ではないが、真でもない。

 器の欠けは金継ぎで美になる。だが、人の欠けはどう継ぐのか。

 継ぐには、恥を露わにして、その上に薄い線を引くしかない。粉でよい。金である必要はない。

 「安土の器は、人を恥じさせず、誇らせるためにある」

 光秀は一席を終えてから、独り言のように呟いた。

 器が人を包む。包まれた熱が過ぎれば、器は割れる。割れたときに見える線こそ、国の作法になる。


 普請の現場では、速度が音になる。

 槌の連打、縄の軋み、道を行き交う荷車の車輪の唸り。

 信長は、速度を声で刻んだ。

 「足は速く、眼は遅く」

 どこかで聞いた言が、今度は主の口で命になる。

 「遅い眼は、穴の縁を見る」

 光秀は笑うかわりに、紙の余白を増やした。余白がなければ、遅い眼は息ができぬ。息ができぬ眼は、明日を見ない。


 町割が進むと、名が増えた。

 新しく来た者の名、去った者の名、祭の札に書かれる名、夜回りの札に重なる名。

 光秀は「名の座」を作った。町ごとに一枚の板。

 板の上には、名の列。横には役。下には恩。

 恩は、今の銭では買えぬ。昔の手間で買ったものが、今日利を生む。利を生まぬ恩は切り捨てられる。舞台が腐ってはならぬから。

 だが、全ての恩を切る必要はない。継いで見せる恩もある。継ぎ目の美しさは、恩の長さを決める。

 板の前で、老女が指を当てた。

 「ここにうちの名がある」

 「あります。裏戸の名の下に」

 老女は笑い、背が少し伸びた。名は背の温度を変える。


 夜、煕子は咳を押し殺しながら縫い物をしていた。

 灯が彼女の頬を浅く照らし、影が唇の端で薄く震える。

 「安土の風は、薄くて硬い」

 光秀が言うと、煕子は笑った。

 「硬い風は、器を乾かします。乾いた器は、軽く響きます」

 彼女の指は細い。だが、継ぎの線を引くときの迷いがない。

 「この城は、国の作法を作る器でありたい」

 光秀は針箱の蓋に指を置いた。

 「器があっても、中身の熱が過ぎれば割れる」

 「熱を測るのが作法です」

 煕子は短く咳をし、針を休めた。

 「殿の言は、余白がある。余白は、人の息のための場所です」

 灯の白が、彼女の睫毛の影を濃くした。濃い影は、頬の色を薄くする。薄さは、儚さではない。余裕であるときもある。


 翌日、南蛮の硝子を持った商人がやって来た。

 硝子は、景色を切り取って、別の季節に見せる。

 信長は硝子の向こうの湖を眺め、扇で光を追いかけた。

「舞台に、遠い天気を入れよ」

 「遠い天気」

 「ここに立っている人間が、今ではなく、明日の空気を感じるように」

 光秀は、回廊の柱間に風の抜けを設け、道と道の間に小さな庭を置いた。庭には木を一本。

 木の影が季節を刻む。影の長さは、役の長さであり、恥の長さであり、恩の長さでもある。

 木の根元に、石を三つ並べた。

 ひとつは理。ひとつは義。ひとつは名。

 石には刻まぬ。刻めば、石は重くなって動かせない。動かせぬ理は、時に人を傷つける。


 普請に出た僧と楽人が、昼餉のあとで小さな論を交わした。

 「音は、天守の高さで変わる」

 楽人が笛を吹いて、天井に跳ね返る響きを確かめた。

 「祈りも、天井で変わる」

 僧が笑って答える。

 光秀は二人の間に立ち、壁の金箔の縁を指でなぞった。

 「金は光のためではなく、陰のため」

 画工の言を思い出し、二人に聞かせる。

 「陰の中の音、陰の中の祈り。それが長持ちする」

 楽人は頷き、僧は掌を合わせた。

 長持ちするものの速度は遅い。遅いものは、舞台の裏で拍子を刻む。


 饗応の席で、信長の語は短かった。

 「安土は、城ではない。日々の舞台だ」

 諸侯は首を縦に動かし、器に口を付けた。

 光秀は、席の端で茶を点てながら、器の欠けを見た。

 欠けは恥だが、恥を置けば美になる。

 人の欠けも同じだと信じたい。

 人の欠けは、名の下に置く線でしか継げない。線が見えぬように継げば、欠けは忘れられる。忘れられた欠けは、別のところで鋭く出る。

 見える線は、恥を守る。守られた恥は、誇りの裏に静かに立つ。


 普請場で、一人の若い大工が、古い石を蹴って叱られた。

 「その石は寺から来た。人の足が乗った回数が刻まれている」

 棟梁が怒鳴り、若者は肩を竦めた。

 光秀は若者を呼び、石の傍に座らせた。

 「名を書け」

 若者は不思議そうに筆を取る。

 「この石を運んだ者の名、据えた者の名、蹴りそうになって足を止めたおぬしの名」

 若者は黙って名を書いた。

 石の裏に名が並ぶ。

 名は、背の温度を変える。背が少し冷えれば、足は刃物の上を歩くように丁寧になる。

 若者は翌日、同じ石を両手で撫でてから場所を離れた。撫でた手は、木槌よりも静かに石の記憶に触れる。


 安土の町には、新しい職が生まれた。

 朝の鐘の数を唱える子、灯の芯を配る女、札の白を守る者、裏戸の名を集める者、祭の舞台で「余白」を指で示す役。

 余白を指で示す役は、最初笑われたが、やがて皆が必要とした。

 「ここは誰のものでもない場所」

 指が示すと、ケンカはそこから一歩離れた。

 「ここは息をする場所」

 人が座り、茶が置かれ、子が眠った。

 余白は、作法の始まりであり終わりでもある。


 ある夕暮れ、湖から風が上がり、天守の最上階から見下ろす水面が、薄く皺を寄せた。

 信長は硝子の窓越しにそれを見て、短く笑った。

 「風は、舞台の客だ」

 光秀は頷きながらも、胸に冷たい筋が走るのを感じた。

 輝きは陰影を深くする。

 陰が深くなりすぎれば、そこに冷気が溜まる。

 冷えは、人の骨を黙って強ばらせる。

 強ばった骨は、折れるときに大きな音を立てる。

 湖の皺は、音を持たない。音のない皺のほうが、怖いときがある。


 安土の作法が整いはじめると、外からの眼が増えた。

 「うつくしい」「いかめしい」「派手」「無駄」

 言は短く、意味は長く、長い意味の半分は言った者の心の影だ。

 光秀は、影の濃さに応じて返す紙を変えた。

 濃い影には薄い紙、薄い影には厚い紙。

 薄い紙は、墨がよく滲む。滲んだ字は、読み手に余白を渡す。

 厚い紙は、筆が滑らない。滑らない字は、読み手の背を直す。

 背が直れば、器の高さに気づく。高さに気づけば、階に慣れる。慣れた者だけが、上る速度と下る速度を選べるようになる。


 夜更け、光秀はひとりで天守の床を歩いた。

 板の一枚一枚に、小さな音の違いがある。

 乾いた音、湿りを含んだ音、少し浮いた音、確かな音。

 音の差を図に落とす必要はないが、耳は覚える。覚えた耳は、翌日の政で言葉を置く位置を変える。

 「罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める」

 比叡の夜に煕子へ書いた一行が、黄金の光の陰で別の色になる。

 制度と施策は骨と筋。

 骨は器の高さを決め、筋は動きを決める。

 骨だけでは立てても、歩けない。筋だけでは歩けても、立てない。

 両方がある場所に、人は息をする。


 煕子の咳は増えたが、針の手は乱れなかった。

 ある夜、彼女は縫い目の途中で手を止め、窓の外を見た。

 「湖の皺は、遠い雨のしるし」

 「遠い雨」

 「近い火より、遠い雨のほうが、器を試します」

 光秀は頷き、机の端に置いた未完成の「安土式目」の草案に目を落とした。

 一、祭は理の外に置かず、中に入れること。

 一、名は札に置くだけでなく、石に忍ばせること。

 一、恩は天守の高さで配らず、地の傾きで配ること。

 一、ためらいを罪としすぎぬこと。

 一、速さの反対を怠けと呼ばぬこと。

 ——ためらいは、文を骨にする。

 筆が止まり、光秀は息を数えた。

 遅い息は、遅い眼を守る。


 信長は舞台の主であり、舞台の観客でもあった。

 ある昼、彼は唐突に言った。

 「金を増やせ」

 「陰が深くなります」

 光秀が返すと、信長は扇で白い壁を叩いた。

 「深い陰でしか見えぬ形がある」

 「陰が深すぎれば、冷えます」

 「冷えは、熱のためだ」

 短いやりとりは、舞台の上の台詞のように空気を切った。

 光秀は、舞台裏で札を増やし、名を重ねた。

 陰が深くなるなら、名は多く要る。

 名は背の温度を戻す。

 背が温まれば、人は息を潜めずに歩ける。


 安土の町では、子らが道の白を誇った。

 「ここは余白」

 指で示す。

 「ここは名の場所」

 札に書く。

 「ここは祭の舞台」

 草鞋を脱ぐ。

 作法は、言葉でなく、出来事の形で身につく。

 道を掃く、灯を掛ける、鐘を鳴らす。

 出来事の列は、いつか文になる。文になったとき、作法は骨に変わる。


 やがて、遠い使者が来て、近い不穏が増えた。

 「安土は、眩しすぎる」

 誰かが言い、

 「眩しさは、目の弱い者を傷つける」

 別の誰かが言った。

 光秀は、町の端に茶の小屋を増やした。

 眩しさに目をやられぬよう、陰の休みをたくさん置く。

 茶の湯は、陰の術だ。

 湯気が白い襖に当たり、薄い水の輪を残す。輪はすぐに消える。消えるものだけが、長く残る気配を持つ。

 小屋の壁に、小さな紙を貼った。

 ——白は無ではない。可能性の色だ。

 紙は薄い。だが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。


 信長は人を試した。

 舞台に上げ、ひとこと投げ、返ってくる言の骨の太さを見る。

 「坂の角度は、人をどう変える」

 「揺らします」

 「揺れは何を生む」

 「敬いと、吐き気を」

 「吐いた後、人はどうする」

 「顔を洗い、背を伸ばす者と、背を曲げて笑う者に分かれます」

 信長は薄く笑った。

 「面倒を言う」

 面倒を面白がる主の笑いは、刃よりも細い。


 安土の夢が石になって積み上がる日々、光秀の紙には線が増えた。

 線は道であり、掟であり、名の下に置く恥であり、恩の返し道でもある。

 線が増えれば、余白が減る。

 余白が減るたび、光秀はどこかに別の余白を足した。

 舞台袖、井戸端、回廊の角、天守の階の踊り場。

 踊り場に立ったとき、人は自分の速度を思い出す。

 思い出す瞬間が、作法になる。


 ある晩、風が強く、最上階の硝子が低く鳴った。

 湖面は皺を深め、遠い稲光が薄い黄を差した。

 信長はその光を背に、扇を閉じた。

 「明智」

 「は」

 「舞台は整った。次は役者だ」

 「役者は、観客でもあるべきです」

信長は頷き、少しだけ目を細めた。

 「舞台に立ちながら、客席の息を数える者。それがいるかどうかだ」

 光秀は胸の中でひとつの言を結んだ。

 ——罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める。

 ——舞台では、余白がそれを助ける。

 余白がなければ、恨みは早口になり、制度は硬い音だけになる。


 翌朝、安土の町に新しい札が立った。

 ——祭、朝の鐘七つ。

 ——坂、掃除の順右より。

——灯、子の手で掛け、老の目で確かむ。

 ——茶、一椀の時間、口を大きくせず。

 ——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 札は白い。白は無ではない。可能性の色だ。

 名が重なれば、紙は厚くなる。厚い紙は、風にちぎれない。


 煕子は、咳の合間に笑った。

 「殿の札は、歌のようです」

 「歌」

 「声に出すと、背が伸びます」

 光秀は小さく笑い、紙の端に一行足した。

 ——ためらいを罪としすぎぬこと。

 彼女の目が柔らかく濡れた。

 「ためらいは、人を人にします」

 「主の前では弱さです」

 「弱さを隠す作法は、やがて器を割ります」

 彼女の声は細いが、芯がある。芯のある声は、舞台の上の音に負けない。


 夕暮れ、光秀は最上階から湖面を見下ろした。

 水は大きな余白だ。

 余白は、舞台の外の舞台。

そこに、薄い皺が走る。

 近い火ではなく、遠い雨の前触れ。

 器は、遠い雨で試される。

 熱で割れる前に、冷えで音が変わる。

 音が変わったときに、座り直す作法が要る。

 座り直す場所は、余白である。

 余白がなければ、人は他人の膝の上に座り、やがて押し合う。


 安土の夢は、石になって積み上がった。

 だが、夢は終わりではない。

 夢の輪郭が固まったとき、陰が濃くなる。

 濃い陰の中で、人の欠けは見える。

 人の欠けを、粉で継ぐ術を持たねばならぬ。

 金でなくてよい。

 粉でよい。

 粉の線は、灯にかざすと柔らかく光を吸う。

 吸った光が、器を丁寧にさせる。

 丁寧さは、速度に負けない。

 速度に負けぬものだけが、舞台の下で拍子を刻み続ける。


 その夜、光秀は紙に長く筆を走らせた。

 ——安土式目草案——

 一、坂は敬いの角度であること。揺れは吐き気と礼の両方を生む。吐いた後、顔を洗う場を坂の途中に置く。

 一、金は光のためではなく陰のため。陰の深さに応じて名を増す。

 一、祭は理の外に置かず、出来事として内に入れる。鐘と灯と掃除の順を札で示す。

 一、名は札に置くだけでなく、石の裏に忍ばせ、恩は地の傾きで返す。

 一、ためらいを罪としすぎず、遅い眼を怠けと呼ばぬ。遅い息の場として余白を増やす。

 一、罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める。

 一、白は無ではない。可能性の色。白を守る者を役に置く。

 筆の先で、紙の白が少しだけ重くなった。白が重いと、風にちぎれない。

 外で、風が踊り場の角を曲がり、回廊の陰を撫で、湖の皺へ帰っていった。


 翌朝、信長は薄く笑い、紙を受け取った。

 「面倒を言う」

 「はい」

 「面倒を面白がる者が、舞台を腐らせぬ」

 扇が鳴り、風が白い札を揺らした。

 湖は薄青で、天守は金の陰を深くし、町の道は白で、鐘は長く、灯は小さく、名は重い。

 安土の夢は、理の舞台になった。

 舞台に立つ者は、役者であり観客である。

 観客の息を数える者が、そこに立っている限り、器は割れぬ。

 ただし、中身の熱が過ぎれば、皺は静かに増える。

 静かな皺の音は、紙には書けない。

 書けぬ音を、光秀は胸の骨に刻み、余白をひとつ増やして、次の札を手に取った。


 ——白は無ではない。可能性の色だ。——

 その一行を、城下の最も狭い路地の、誰もが通りながら見過ごす角に、そっと貼った。

 通り過ぎる足がわずかに遅くなり、誰かの背が半歩だけ伸びた。

 安土の夢は、その半歩の上に積まれていった。

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