第6話「比叡の火、胸中の灰」
比叡の方角の雲は、朝から低かった。
命は、扇の骨を折るような音もなく下りた。紙に書かれた一行は短いが、行間は長く深い。「比叡山、掃討」——疑義は許されぬ空気が、広間の畳に敷かれた。簡潔は、ときに残酷の別名である。言は短く、意味は長い。長い意味が胸に降り積もるとき、人はそれを灰と呼ぶ他ない。
軍勢が山肌を登る。
湿った土は靴の底にまとわり、杉の根が地の下から蛇のように這い出して、足の踏み場を奪う。霧は薄く、しかし刀身の冷えのように確かで、兵の息はその中に吸い込まれて短くなる。上へ行くほど、音は削がれた。草履の縄の擦れる音、鎧の鋲が触れ合う音、誰かの喉で湿った咳がひとつ。遠くで法螺が響き、近くで泣き声がすぐに消える。山は、音の行き先を決めている。泣き声は、上へ行かず、土へ落ちる。
木立の向こうに、僧坊の甍が現れた。
瓦は冬の名残りの色をしている。夏へ向かう光にもまだ馴染まぬその鈍さが、かえって眼に刺さった。法はどこにあるのか。罪と祈りは、ときに同じ衣を着る。理非の背中合わせを知る者ほど、声を荒げない。荒げぬ声で、人は断を下せるのか。——問う声を、光秀は胸の中で押しつぶした。押しつぶした形のまま、声は灰になって残る。
「女子供を、先に落とせ」
光秀の命は、低く短い。短い声こそが、兵の脚に届く。
先遣の組を二手に割り、裏手の竹林に回して退路を開く。寺領の境の小径に札を立て、矢印と二つの名を書く。ひとつは札を立てた者の名、ひとつはその札を見た者の名。見た者の名は空欄だ。空欄は、背を冷やす余白である。名を書けば、背は冷える。冷えた背は、火に不用意に近寄らぬ。
だが、戦の帳は隙間を憎む。
火は隙間に忍び込み、名を持たぬ命を舐める。僧形の若者が、僧ではない握りで槍を構え、額の汗が塩を吹いている。祈の目と殺の目が、同じ顔の中で交互に光った。どちらが本性かを問うことに意味はない。どちらも人のうちにある。意味がないのに、問わずにいられないのが、人の骨の弱さだ。
「比叡の衆徒、焼くべきや否や」
初めて信長に問われた日の扇の骨の音が、杉の梢で再び鳴った気がした。
焼くは容易、治めるは難し——そう答えた自分の声は、いまや山の斜面に吸われて、どこにも残らない。
火は橙で、空は薄青、風は無色。
色が分かれて世界が割れた。橙は哭き、薄青は見ないふりをし、無色はただ通り抜ける。焚かれた藁屋根に、ひと息置いて油が投げられる。橙が濃くなる。息を合わせる術は、火にもある。合わせた息は、家を、蔵を、祈りの場を同じ橙で包む。包まれたものは、皆、同じ灰になる。
光秀は兵を統制した。
道の左右に名のある札を掲げ、逃げる者を誘導し、赤子を抱えた女の袖を引いて林の陰へ落とす。手は震えぬ。震えを自覚する暇がない。震えは、夜に来る。
ひとりの老僧が、火の背で座し、静かに経を唱えていた。火の音に溶けるような声だが、声は消えない。消えない声ほど、耳の奥で形を変える。
「法は、あなたの外にありましょうか」
光秀の問いは、声にならなかった。
老僧は目を開け、微笑の形だけを作って、また目を閉じた。微笑の形のまま、頬が熱で乾いた。乾いた頬は、割れる。割れたところから、灰が内へ入る。
若い兵が、戸口から什器を引きずり出そうとした。
光秀はその手首をつかんだ。
「置け」
言は冷たく、短い。短い言は、刃より深く届くことがある。
兵は唇を噛み、唾の白さが歯の間に滲んだ。
「…は」
置かれた木盆は、すぐに橙に呑まれた。
略奪は戒められる。だが、戒めは火の速度には及ばない。火は命令を知らず、名に従わず、ただ燃える。
「殿、ここは敵でござる」
部将のひとりが低く言った。
「敵が祈る場と、祈る敵の場の違いを、火は知らぬ」
光秀は返し、手の中の脈を放した。放した瞬間、脈は火の鼓動と同じ速さになった。
山の裏で、女子供を下ろす列ができた。
足の遅い者から優先に置き、抱え、背に負い、滑りやすい苔を避けて段差に筵を敷く。
「名を」
光秀は逃れる者にも名を記させた。名は生の重りだ。名を持って下る者と、名を持たずに下る者の足音は、違う。後で誰かが数えることができるということが、細いが確かな線になる。
その列に、僧形の童が混じっていた。童は鉢巻をし、眼の白が火を跳ね返している。
「これを持て」
光秀は紙を渡した。白い紙は、火の前ではひどく心細いが、心細いものは人の手で守る形を思いつきやすい。
「おぬしの名を書け。紙は、背の温度を覚えている」
童は丸い字で名を書き、紙を胸に抱いた。紙が胸で温まる。温めば、今度は紙が名に熱を返す。熱は、逃げる足を速くする。
日が傾くにつれ、火は山の形を覚えた。
谷の風は無色のまま、炎の背を撫でて、次の屋根に火を渡す。渡された火は躊躇がない。躊躇を持てば、火ではなくなる。
光秀の躊躇は、胸の内で燃えず、灰となって積もった。
命は命、掟は掟——そう自らに繰り返すたび、灰の層は薄く広がる。広がる灰は重い。重いが、形がない。形のない重さほど、人を消耗させるものはない。
信長の采配は、山の上と下で同時に効いていた。
断は速い。躊躇は罪と見なされる。
織田の旗は風を選ばず、火の前でも色を保った。旗の布地が熱を吸い、布の縁がかすかに黒ずむ。その黒ずみさえも、秩序の印に見えた。
「ためらうな」
信長の声は短く、乾いていた。乾いた声は、火の前でよく響く。湿った声は、火に消される。
光秀は頷き、しかし胸の奥で別の声を押し殺した。押し殺した声は、夜に灰となって咳に変わる。
下山したのは、夜半に近かった。
石段の陰で、光秀は灰を吐くような咳をした。咳は浅く、しかし長い。長い咳は、胸の内側に積もったものを少しずつ剥がす。剥がれたものは、水に溶けず、手水鉢に沈む。
手水鉢に映る自分の眼を、光秀は見られなかった。水は薄い。薄い水に映る眼ほど、自己の形を残酷に示す鏡はない。
「殿」
側にいた若い小者が、静かに声をかけた。
「湯を」
光秀は頷き、湯を受け取り、喉へ落とした。湯気が鼻腔の奥を通り、灰の匂いに一瞬、違う匂いを混ぜた。混ざった匂いは、すぐに消えた。
夜。
陣の隅の灯は弱く、弱い灯の輪の外に、火の余熱がまだ地面に残っているようだった。踵で土を踏むと、生ぬるい。
煕子からの文を広げる。墨は新しい。字は細く、しかし芯が立っている。
——殿の筆は春を連れて来る。あの日の言葉は、まだ真です——
紙の白は、火の橙の後に見れば、眩しさではなく、静けさとして眼に入る。静けさは、胸の灰に水を落とすが、水はすぐに吸われて消える。
光秀は返書をとった。
——罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める——
理想を一行に凝らす試み。
しかし一行に込めた瞬間、その言は脆くも見える。脆いものは、人の手で守らねばならぬ。守らねば、言は風に千切れ、灰の上を転がって、どこかへ消える。
筆を止め、灯の芯を指で少し縮めた。炎は小さくなったが、安定した。小さいからこそ、消さずに持って行ける。
眠りは浅い。
夢の中で、法螺の音が遠くに続き、その音の下で、紙に書かれた名が一枚ずつ灰に変わっていく。名が灰になるたび、背の温度が一度ずつ下がる。背が冷えすぎる前に、誰かの手が上着を掛ける。上着の重さは優しさだ。優しさは、灰の重さとは違う重みを持つ。違う重みは、同じ背に同時に乗ることができるのか。——夢はそこで切れた。
翌朝。
空は薄い灰色で、昨日の灰を空が引き受けたかのようだった。陣の朝餉は簡素で、椀の中の湯気は低い。
信長が通り、薄く笑った。
「ためらったな」
それだけを言った。
光秀は首を垂れた。
ためらいは、人を人たらしめる。だが、主の前でそれは弱さだ。弱さの名を、光秀は自分で紙に書く。名を書けば、背が冷える。冷えは、火に不用意に近づく足を止める。
「ためらいは、まだ役に立つところがある」
信長は続けなかった。扇の骨がひとつ鳴り、足音が砂利を踏み分けて去っていく。
残されたのは、薄い笑いの温度だけ。温度は、名よりも早く消える。
都では、比叡の火の話が風に乗った。
風は無色だが、匂いを運ぶ。匂いは形にならず、形にならぬまま、路地の子の鼻先へ、井戸端の女の舌先へ、寺の僧の袖口へ、町家の仏間の座へ、それぞれ違う形で届く。
「殿様方は、祈る場を焼くのか」
「祈るふりして槍持っとったら、同じやないのか」
「同じやないことを、誰が確かめる」
噂の言は短い。短い言は、長い意味を欲しがらない。欲しがらぬ言は、軽く遠くへ行く。軽く遠くへ行くものは、いつかどこかで重く落ちる。落ちた先の地面を、誰が支えるのか。
光秀は、札を増やし、名を重ね、寺に封を預け、鐘の回数に意味を刻んだ。——焼いた後の町に、焼かぬ掟を置く。置かれた掟は、背を冷やす。冷えた背は、灯を欲しがる。灯は、紙を燃やさぬ程度の小ささでよい。
比叡の山裾で、灰の中から鉢を拾う女がいた。
鉢の縁は割れている。女は指の腹で割れ目を撫でた。
「金で継ぐほどの家ではない」
女は言い、目を上げた。
「粉でよい。粉で線を引けば、器は丁寧に扱われる」
光秀は頷いた。
「恥の線は、粉で引けばよい」
恥の線は、金色である必要はない。見えすぎる線は、恥を見世物にしてしまう。見世物になった恥は、恥であることをやめる。やめた恥は、火に似て速くなり、人の間を走る。
粉で引いた線は、灯にかざすとやわらかい光を吸う。吸った光は、器を丁寧にさせる。丁寧さは、速度の反対にある。速度の中で丁寧を選ぶことは、贅沢だ。贅沢は、余白の言い換えでもある。
光秀は「比叡後」の書付を作った。
一、焼け残りの鐘は、昼と夕に鳴らす。音は長く。
一、山裾の村に、夜の名を置く札場を設ける。裏戸の名、堰の名、鍵の名。
一、寺領跡の畑地化は徐に。急げば、灰が飛ぶ。
一、焼亡の記に名を残す。名のない灰は、恨みを孕む。
一、僧形の孤児を寺へ戻すのではなく、家へ配る。家は恥を分け合う器。
文字は少なく、意味は長い。長い意味は、余白で息をする。息をしない掟は、火で読まれ、火で忘れられる。
夜、煕子へ二通目の返書。
——今日、灰の中で鉢を拾う女を見た。粉で継ぐ、と言った。
——金ではない線の美しさを、私は信じたい。
——罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める。
——だが、火は、すでに世の記憶に刻まれた。
筆の先に躊躇が戻り、光秀は一字だけ消した。消した痕は薄い灰色になって紙に残った。残る痕は、恥の印である。印があるから、明日の言が丁寧になる。
翌朝、信長はまた薄く笑って言った。
「ためらいは、捨てられぬか」
光秀は答えた。
「ためらいを捨てれば、文が骨でなくなるやもしれませぬ」
「骨は、折れて継ぐほうが強いこともある」
「はい。昨夜、ひとつ継ぎました」
「何を」
「言」
信長は扇の骨をひとつ鳴らし、何も返さなかった。返さぬときの沈黙は、叱責より重いときがある。だが、その重さは、胸の灰の重さとは違う。違う重さは、同じ胸に同時に宿る。宿った重さが、背筋を伸ばす日もある。
山を見上げると、空はもう薄青を取り戻しつつあった。
灰は地に、空は空に。色は元の場所へ戻るが、匂いは遅れる。遅れた匂いは、道の曲がり角で急に立ち止まり、背中にまとわりつく。
光秀は、道の曲がり角ごとに札を立てた。札の白は、灰に弱いが、弱さを知る白は、守られやすい。名が重なれば、紙は厚くなる。厚くなった紙は、風にちぎれにくい。
名を置くことは、記すことだ。記すことは、忘れないことの最低のかたちだ。最低のかたちであっても、持っていれば、火の後で人は立てる。
山裾の寺に、ひとつだけ無事だった石仏があった。
鼻が欠け、頬にひびが走り、口元の笑みは半分だけ残っている。
光秀はその前に立ち、しばし目を閉じた。
祈りは掟ではない。掟は祈りではない。
掟は骨で、祈りは息だ。骨だけでは立てても、息がなければ歩けない。息だけでは歩けても、骨がなければ立てない。
石仏の前で、光秀は胸の灰に細い指で線を引いた。
——罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める。
——ためらいは、文を骨にする。
——骨は折れて継いでもよい。継ぎ目を恥の線で隠すのではなく、恥として見えるように。
線は見えない。見えるのは、自分の姿勢だけだ。姿勢は、紙に映らない。映らぬものを、明日も持ち運ぶ。
午後、山を離れる列のなかで、若い兵が言った。
「殿。火は速い。速さで勝てます」
光秀は頷き、そして、首を横に振った。
「速さで勝つ。——その通りだ。
だが、速さは憎しみも育てる。
憎しみを刈るのは槍でできる。
しかし、憎しみの根に水をやらぬのは、文でしかできぬ」
兵は黙り、視線を下に落とした。土の上に、灰が薄く積もっている。足の裏がそれを踏み、踏んだ灰が靴の底に薄く貼りつく。
「殿は、何を植えるのです」
いつかの古老と同じ問いが、若い声で来た。
「道と掟。——それと、忘れぬこと」
若い兵の目が、火の橙ではなく、空の薄青を映した。
「忘れぬことは、何の種で育つ」
「名」
兵は小さくうなずき、「名を覚えます」と言って、歩幅を揃えた。
日が落ち、都の灯が遠くに連なった。
灯の数は、昨日よりわずかに少ない気がした。少ないからこそ、ひとつひとつが濃い。濃い灯は、遠くからでも息をしているのがわかる。
光秀は懐から紙片を取り出し、昨夜の一行の下にもう一つ、短く書き足した。
——焼いた後に、焼かぬ掟を置く。
紙は薄い。だが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾けば、線は濃く残る。濃く残った線の上に、明日の足を置けるように。
胸中の灰は、冷えた重みのまま消えない。
だが、その灰の上にも、線は引ける。粉でよい。金でなくてよい。
恥と記憶の粉で引かれた細い線は、火にやられてもすぐには消えない。消えにくいものは、遅い。遅いものは、長い。
長いものが、国の骨になる。
光秀はそう信じることで、背を伸ばした。伸ばした背が冷えぬように、名を紙に置き、紙の白を胸に入れて、明日の町へ歩を進めた。




