第8話「奉行の台頭」
名は、先に走らない。
役が先に歩く。
歩いたあとの足跡の形が、名の形になる。
小姓の頃の佐吉は、呼ばれれば走った。
茶の湯、帳場、兵站、火矢の数。走れば間に合った。
使番になると、走るだけでは針が狂うことを知った。誰がどの順で息を吐き、どこで言葉を置き、どこから黙るか――順を持ち運ぶのが使番だ。
吏へと移ると、順そのものを作る側の席に腰を入れることになった。席は、立つより難しい。立てば、足の裏で地を確かめられる。座は、針を先に決めなければならない。針を決める手は、嫌われる。嫌われる手は、折れてはならない。折れぬために、撓める。
文は短く、印は明瞭、秤は一定。
秀吉は、目録を前にして笑った。「三行にせよ」
三行。
一行に「何を」。
二行に「なぜ」。
三行に「いつまでに」。
三行で足りぬものは、いらぬ、とまで彼は言った。
佐吉は、三行に理を詰める術を覚えた。詰めるとは、潰すことではない。香を逃さず、骨に入れる角度を探すことだ。
たとえば、蔵入りの目録。
一行――「印枡にて検見」。
二行――「底の焼印、丸以外は撓め直し」。
三行――「満月の前日、昼までに」。
書いたあと、余白に小さく「等間、命」と書き足して自分だけに見えるよう紙を折る。余白は、あとで効く。余白を恐れる者は、長文に逃げる。長文は、夜を削る。
奥向きの控えに入ると、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家らがすでに座していた。
浅野は、筆の腹に力がある。
前田は、言葉の前に沈黙を置く。
増田は、人の顔色の角度を測るのが速い。
長束は、文の裾を短く切る。
それぞれの癖を、佐吉は秤に載せた。人の癖は、枡の底に似ている。面取りが深い者は、言葉の立ち上がりが早い。底が少し笑う者は、締めが甘くなる。
磨き合ったのは、札の文言だった。
「人払いの札」――『この先、言葉は短く/目は低く』
「釘打ちの札」――『釘は見えぬ所へ/音は低く』
「夜火の札」――『灯は二つ/間は三歩/風は板の下』
札はやがて「奉行の掟」に姿を変えていく。札は場の端に立ち、掟は場の骨になる。骨にするには、嫌われ方を選ばねばならぬ。
佐吉の名は、この頃から呼び方を変えた。
「石田治部少輔三成」
長い。長い名は、誰かの舌に乗った時に短く切られ、裏で別の名になる。
「小煩い治部」
小煩いは、風だ。風は板の下。板が撓めてあれば、風は抜ける。抜けた風は、遠くで雨になる。雨は、等間で落ちなくとも、心は等間を欲する。
*
奉行の掟の最初は、台所から始めた。
笑われた。
城中の台所にまで秤を置き、器の角度と量目を定めるなど、と。
「飯の一口は、戦の百口につながる」
本気で言った。笑いは起きた。笑いは、必要だ。笑いが先に出れば、次に骨が入る。骨は黙って入る。
飯の器の「角度」は、口の角度である。器の縁がわずかに反っているものと、真っ直ぐなものとでは、米粒の流れ方が違う。流れが違えば、喉の「今」が違う。喉の今は、足の今につながる。
掟には、文を三行にした。
一行――『器の角度、五分反り』
二行――『一口、十六粒/三口で百』
三行――『朝は薄く、昼は厚く、夜は重く』
台所の女たちは目を丸くした。「粒は数えられぬ」
「数えなくてよい。掟が数える」
笑いが二度目に起きた。二度目の笑いは、一度目より低い。低い笑いは、遠くへ届く。
日が変わる頃、兵が「一口」で歩き出す間の短さが、ほんの少しだけ整った。
器の角に合わせて、塩の掟を足した。
『塩は、人の背骨のひと粒』
『汗の日、塩を一指』
『塩は喧嘩の前に』
喧嘩の前に塩が入れば、喧嘩は半分ほど遅れる。遅れる間に、札が効く。札が効けば、喧嘩が別の日へ回る。回った喧嘩は、勢いをなくす。勢いをなくした喧嘩は、眠りに負ける。眠りに負けた喧嘩は、功になる。
*
奥では、奉行たちが掟の文を短く切り合った。
浅野は、「言い回しを捨てよ」と言った。捨てた文のほうに余韻が残るのを好む人だ。「『〜べし』は二度いらぬ。一度で骨へ入れ」
前田は、沈黙を掟に混ぜようとした。「札の空白も掟だ。空白を読む者が増えれば、夜は短くて済む」
増田は、顔の角度を書き込む。「掟を読む時の顔を決めよ。目は低く、口は閉じ、頷きは小さく」
長束は、数字を入れる。「三、七、九。三つに割れる言葉は骨に残る」
佐吉は、湯の白を思い出しながら、三行へ落とした。
『掟は短く/余白は深く』
『空白、読むべし』
『三で吐き/七で撓め/九で笑え』
笑ったのは、伊助だった。「掟で笑うのか」
「笑いは骨の隙間」
伊助は笛を回し、「掟は骨に笛穴か」とふざけた。ふざけ言は掟の端を丸める。丸めすぎないうちに、釘を一本。
釘の掟。
一行――『釘は見えぬ所へ』
二行――『長釘は梁/短釘は柱』
三行――『音は低く/二度に分けて』
低い音の釘は、夜を起こさない。夜を起こさなければ、夜は延びる。
秀吉がある晩、月を見上げながら言った。「三成、天下は広く、夜は短い。お前の札で夜を延ばせ」
夜を延ばすとは、灯を増やすことではない。影を先に置くことだ。影があれば、灯は欲しい分だけで済む。灯が多すぎる夜は、翌朝が遅い。
*
「人払いの札」は、最初、嫌われた。
人は、人の気配で安心する。安心の前に札を立てれば、不安が生まれる。
一行――『此より中、声を低く』
二行――『目を合わせず』
三行――『用のみ残す』
字は淡くした。強い墨は、拒絶を呼ぶ。
前田が札の位置を一歩下げた。「これで良い。『中』の手前に『ほの暗いところ』が生まれる。人は、その薄暗が好きだ」
薄暗さは、掟を柔らげる。柔らかい掟は、嫌われにくい。
人払いの札の先に「口の札」を置いた。
一行――『口は後』
二行――『骨の後』
三行――『笑いは骨の隙間』
「骨が、骨が」と、誰かが囁いた。囁きは嫌いではない。声が低いからだ。低い声は、長く残る。
「夜火の札」は、火の輪郭を教える札だった。
一行――『灯は二つまで』
二行――『間は三歩』
三行――『風は板の下』
風は板の下。板は撓め。撓めぬ板は、夜にめくれ、火を呼ぶ。
この札が台所に立ってから、深夜の火事は目に見えて減った。減った数を、佐吉は覚書の欄外に砂子のような字で記した。「昨夜、灯二つ。寝息十六」。寝息は、功績だ。
*
奉行の席に座るとは、嫌われ方に手加減を覚えることだった。
兵に嫌われ、商に嫌がられ、僧に鼻で笑われる。
だが、文は嫌われた分だけ通る。通る文は、短い。短ければ、通り過ぎる時に骨へ刺さる。刺さった骨が、夜の間に自分で撓む。
ある日、蔵入りの場に古い枡を持った老人が来た。底には掠れた「息子の黒い字」。
印枡と並べ、「底の右に殿の印、左に息子の印」。老人は言った。「値切られなければ、喧嘩にならん」
喧嘩がなければ、火事が減る。
火事が減れば、人は眠れる。
眠れる夜の数は功績だ。
この三行を、佐吉は奉行の控えの柱に小さく刻んだ。誰も読めない高さで。人は、読めぬところほど、骨で読む。
*
「使番・吏の文は、重ねるな」
秀吉は、文台の紙を指で弾いた。紙は薄いが、指先の音は低い。「重ねる文は、逃げ道だ。逃げ道は最初に用意せよ。だが、文の中には要らぬ」
逃げ道は、掟の外に置く。
掟の内側は、道にする。道は、等間で杭を打つ。杭の頭に麻布を巻き、字を守る。
佐吉は、目録の端に短い図を添えた。
図は言い訳を減らす。言い訳が減れば、声が低くなる。低い声は、夜を延ばす。
「治部」
浅野が、短く呼んだ。
「負担の配り、直せ」
「どこから」
「笑いの多い組から」
笑いの多い組は、よく動く。よく動く組に負担を集めれば、短期の効きは上がる。だが長くは続かない。
佐吉は、三行にした。
一行――『負担、笑いの少ない組へ』
二行――『笑いの多い組、休ませる』
三行――『笑い、全体で均す』
増田が眉を上げる。「笑いを配る掟は、初めて見た」
前田は頷いた。「笑いは骨の隙間だ。配らねば折れる」
「治部」
長束が、細い声で寄せた。「小者の賃、一文上げろ。文で争う夜を減らす」
佐吉は、紙の端に一行を足した。
『小者、一文』
短い一行に、夜がひとつ延びる。
*
奉行としての仕事は、表で武勲を立てる者と違い、派手な凱声を持たない。
凱声の影、湯の白の向こう、釘の音の下で、静かに「黒い点」を置いていく仕事だ。
点は小さい。紙の端に、石の角に、器の裏に、枡の底に。
点は黒い。黒は低い。低いものは遠くへ届き、遅れて戻る。
点は消えない。消えぬ点が二つ三つと並び、いつか線になる。線は掟になる。掟は骨になる。骨は、名になる。名は、最後に走る。
名が先に走る者もいる。
福島正則は、相変わらず大声で笑い、前に出る。
加藤清正は、槍を担いで戻り、鼻で笑って去る。
彼らの名は、旗の上で風を受ける。
佐吉の名は、板の下で風を受ける。
風は板の下。板は撓め。
ある日、小者が裏口で囁いた。「治部様、台所の掟、また笑われております」
「どこで」
「飯の一口を数えるのが、馬鹿げていると」
「笑わせておけ」
「でも」
「笑いは、骨の隙間だ」
小者は目を瞬いた。
「なら、隙間を広げすぎないよう、釘を打て。背中の低いところへ」
小者は頷き、背を丸くした。
背を丸くする者が増えると、夜は延びる。
*
左筆の若い者が、紙を抱えて走ってきた。「治部様、目録の三行、どうしても四行になってしまいます」
「四行は、顔の無い男だ」
「顔の無い男?」
「目も口も、どこへも入らぬ。三行にすると、顔が出る」
若者は首を傾げた。
佐吉は筆をとって、彼の四行を三行に切り詰めて見せた。
『馬、橋を渡す時は半間』
『荷、片側に寄せるな』
『子ら、橋の下を覗くな』
若者は、最後の行を指した。「これは、掟ですか」
「掟だ。橋の下を覗いた子が落ちる。落ちた子の母が泣く。母の泣き声は、夜を短くする」
若者は、初めて「夜」を掟の中に見た顔をした。
「夜を延ばせ」
秀吉の声が、紙の裏から漏れ出してくる気がした。
*
奉行の仕事は、僧とも神とも顔を合わせる。
寺の住持が、久しぶりに城へ来た。
「理で身を立てる者は、理で折れる。撓める技を忘れるな」
あの日の言葉を、そのまま置いていった。
佐吉は、湯を点てた。薄く、厚く、重く。
住持は、重の一献で少しだけ眉をあげた。「おぬしの重は、前よりも低い」
「夜を延ばすためです」
「夜は延びるか」
「延びます。笑いのぶんだけ」
住持は笑わなかった。笑わぬ顔のまま、茶碗の底を見た。
底の黒に、掟の黒が重なる。黒は低い。低いものは、遠くへ届く。
神社の神主は、札の立つ場所で首を傾げた。「神の領分に札はいらぬ」
「いりません。しかし、神前に至る前に、口の札が要ります」
神主は目を細め、「口は後」と書かれた札をじっと見た。「よかろう。神は、うるさい口が嫌いだ」
宗と理は違えど、順は同じ。順が同じなら、神も笑う。
*
奉行の掟は、城下にも降りた。
市の朝の始まりに鐘を一打、昼に二打、夕に三打。
「舟の二と四」は鳴らさない。
寺の鐘は、二と四を避ける古い癖がある。
佐吉は、その空白を掟に入れた。
『二と四を空ける』
『空白、骨に入る』
『空白を恐れるな』
空白は、嫌われる。何もしない者のように見えるからだ。
しかし、空白に釘を打つことはできる。
打つ釘は、低い音で。低い音は遠くに届き、遅れて戻る。
城下の台所で、飯の一口の掟が少しずつ守られ始めた頃、夜の喧嘩は目に見えて減った。減った夜を、佐吉は数えない。数えれば、掟は数字の顔になる。顔が数字になると、人が離れる。離れた人は、戻りにくい。
代わりに、寝息を覚える。
寝息の数は功績だ。
功は名ではなく、順序でできている。
順序は骨で受け継がれる。
*
名が「石田治部少輔三成」となった日、佐吉は自分の筆箱の底に小さな黒い点を描いた。
点は、忘れないための印だ。
「奉行としての最初の黒い点」
点は小さいが、消えない。
消えない黒が、筆箱の底でいつも低い音を鳴らす。
その夜、秀吉が廊の外で月を見上げていた。
「三成、天下は広く、夜は短い」
「はい」
「お前の札で夜を延ばせ」
「延ばします」
「延ばしすぎるな」
「はい」
「朝が来ぬ」
言って、彼は笑わなかった。笑わぬ顔に、目尻の皺がふたつ寄った。
佐吉は、胸の深いところで鐘の高さを聞いた。
一つ。
間をおいて、一つ。
一つ。
舟の二と四は、今もどこにもない。ない音の空白に、札の黒い点を置く。空白に点を置けば、音が鳴る。鳴らないまま残す空白も、時には必要だ。どちらを選ぶかは、夜の長さで決まる。
*
奉行の掟は、戦から遠いところで、戦を少しだけ遠ざける。
兵に嫌われ、商に嫌がられ、僧に笑われ、女に呆れられても、掟は残る。
残るのは、低いものだ。
低いものは、遠くへ届き、遅れて戻る。
戻ってきた低い音が、ようやく誰かの骨に入る日を待つ。
待つ間に、また札を一本。
短く、濃く。
そして、ほどけるように。
台所で、一口を掬う音がした。
蔵で、印の底を爪で確かめる音がした。
廊で、釘を二度に分けて打つ音がした。
夜火の前で、灯を二つに留める指の止まる音がした。
人払いの札の手前で、息を吐く音がした。
遠くで、寝息が重なった。
寝息の等間が、夜を延ばした。
佐吉は、筆箱の黒い点をもう一度見た。
点は小さい。
小ささを恥ずかしがる必要はない。
小さい点が、最初に残る。
大きい線は、最後に見える。
見えた時には、もう掟になっている。
掟になったものには、名がいらない。
名は最後に走り、やがて追いつけずに息切れして、どこかへ消える。
消えた名のあとに、夜が残る。
延びた夜は、朝の白を細くする。
細い白は、湯の白に似ている。
湯の白は、茶の三献の順を思い出させる。
薄く、厚く、重く。
薄い一献で喉の道を開き、厚い一献で香に橋を架け、重い一献で胸に重しを置く。
重しがあれば、夜は崩れない。
*
ある日、奉行所の片隅で、若い者が紙を抱えて眠っていた。
紙には、三行で書かれた掟が並んでいる。
『橋、半間』
『塩、一指』
『灯、二つまで』
『口は後』
『笑い、均す』
『風、板の下』
数え上げるうちに、佐吉はふっと目を閉じた。
寝息が、隣の部屋の寝息と等間に重なる。
等間が、命を繋ぐ。
命を繋ぐ等間を、文にする。
文にした等間が、また人を撓める。
撓められた人が、夜を延ばす。
延びた夜が、朝を少しだけ遅らせ、遅れた朝の白が、湯の白に似て、掟の黒に寄り添う。
筆を取り、紙の余白の一番下に、佐吉は小さく書いた。
『名は最後に走る。順は先に歩く。点は、最初に残る』
書き終えると、墨の腹でそっと撫でた。
撫でると、低い音がした。
低い音は、遠くへ届き、遅れて戻る。
戻ってくるだろう。
夜のどこかで。
鐘の高さの隙間に。
二と四の抜けた空白に。
その空白へ、奉行の名ではなく、奉行の点を置き続ける。
点は小さい。
小さいが、消えない。
消えないものだけが、やがて功になる。
*
夕刻、湖が細く鳴った。
風は板の下をゆき、撓められた板はどこにもめくれない。
秀吉が廊の端に立ち、指で月を隠してみせる。「隠れるか」
「指が、近すぎます」
「お前の札も、時に近すぎる」
「針を見ています」
「針だけ見るな。皿を見よ」
「はい」
「皿だけを見るな。棚を見よ」
「はい」
「棚だけを見るな。……夜を見よ」
「はい」
秀吉は笑わなかった。笑わぬ顔のまま、目尻の皺が深くなった。
夜は短い。
短い夜に、掟の黒い点をひとつ。
明日もひとつ。
明後日もひとつ。
点が並ぶまで、息を吐きながら。
佐吉――石田治部少輔三成――は、筆箱の底の黒を撫で、灯を二つに留め、釘を二度に分けて打ち、塩を一指、器の角を五分反りにし、笑いを均し、口を後に回して、夜を延ばした。
延びた夜の底で、鐘の高さが遅れて降りた。
一つ。
間をおいて、一つ。
一つ。
舟の二と四は、今もどこにもない。
ない音の空白が、骨の棚のいちばん奥で、静かに、消えない点を求めていた。
佐吉は、その奥へ、奉行としての今日の点をひとつ置いた。
点は小さいが、消えない。
消えないからこそ、風に耐える。
風は板の下。
板は撓め。
撓めた板の下で、誰かが等間に眠っている。
眠れる夜の数は、またひとつ増えた。