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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第二部・石田三成編
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第7話「九州の雨」

 最初の一滴は、いつも音を持たない。

 肌に落ちた気配だけが皮膚の裏側で膨らみ、二滴目がその輪郭を与え、三滴目でようやく耳が「雨」と名を付ける。肥後の雨は、その三滴目からすぐに本名を名乗り、以後は黙って働いた。黙って兵を鈍らせ、黙って米を腐らせ、黙って心を重くする。

 行軍は、音から崩れる。九州の雨は、崩す音さえ低い。


 佐吉は、湿った土間で札を書いた。

 『ぬかるみ、木道』

 『橋の下流、石のくさび

 『谷の肩に足を置く』

 『腹で息を吐け』

 短く、濃く。そして、ほどけるように。

 墨は雨に弱い。弱いからこそ、文字は骨を探す。骨に届く短さでなければ、雨にほどける前に人に解けない。


 道普請みちぶしんの支度を命じ、佐吉は現地の百姓頭を呼んだ。

 歳は六十を過ぎていよう、背は曲がっていない。土がそうさせない。

 「この谷は三年前に崩れた」と百姓頭は指で山の肩をなぞる。「あの川は満月で増す。二番目のせきうずが立つ」

 聞き書きをその場で札に移し替える。

 『三年前崩れ/谷、肩を歩け』

 『満月増水/二の堰、渦』

 固有の時間と場所を短い言葉へ押し縮めるのは、茶の重と同じ手の角度がる。香を潰さず、しかし逃さない。


 木工の組に、山桜と松の板を運ばせた。ぬかるみには木道。並べて敷くのでなく、間を空ける。

 等間。

 落ちる雨は等間でないが、人の足が歩を整えるには、等間がいい。

 橋の下流には石を楔に打ち込む。水は前から来るのではなく、横から崩す。横を抑えれば、前はやがて諦める。

 札を打つ杭は短く。杭の頭に麻布を巻いて字を守る。守るのは字ではない。順だ。順が崩れれば、字はただの黒い湿りになる。


 伊助は、泥の上で笛を短く鳴らして歩の拍子を作った。「七で吐け。九で笑え。笑いは腹に」

 笑いは、ぬかるみの手前で必要だ。

 友之丞は黙って槍の背を肩にのせた。穂先は布で括ってぬめりを殺す。「半間はんげんだぞ」

 賤ヶ岳で覚えた半間の言葉は、雨の底でも骨を探した。

 太市は拍子木を濡らさぬよう懐に抱え、歩きながら札を読み上げる。声はまだ細いが、濡れて低くなる。


     *


 肥後の山裾には、雨を忘れない村があった。壁の白は灰を多く含み、地面の石は小舟のように置かれている。十字の印を欠いたほこらに、木の十字が挿してある。

 キリシタンの村だと誰かが言った。

 寺の鐘の高さと違う高さで祈る人々。だが、雨の重さの受け方は同じだ。

 傷兵を担ぐ列が村の角を曲がる時、十字を切る男が肩を差し入れた。

 「こっちへ」

 日本語の中に、どこか遠い海の角が混じっている。男は、汗の匂いと草の匂いを纏っていた。

 佐吉は札を新しく一本書いた。

 『むねちがえど、助ける順は同じ』

 裏に、さらに小さく書き足す。

 『腕はいま/足は前に/口は後』

 言葉の順序が、人の順序になる。違えど、順は同じ。順が同じなら、宗と理は喧嘩しない。


 村の片隅に医の館があった。

 藁葺わらぶきの小屋だが、内には灰の濃い匂いがあり、桶に灰汁あくが溜めてある。

 佐吉は、酒の割当の札を書き替えた。

 『酒、医へ回せ』

 『灰汁と酒で洗え』

 あく抜きの理は、湯の白と同じだ。強すぎれば傷む。弱ければ残る。

 館の女が、傷口に酒を含ませた布を当てる。布は唇のように震える。震えが止むと、血は少し遅れて止まる。


「酒は兵の口でも要りましょう」と、背後で誰かが言った。

 振り向くと、加藤清正が立っていた。肥後の主のひとりだ。

 「要ります。しかし、今は手が先です」

 佐吉が札を指差すと、清正は鼻を鳴らした。

 「小煩い理詰めよ」

 言葉の刃は湿っていた。湿っている刃は、骨に向かわず皮だけを切る。

 友之丞が横を通り過ぎる時、佐吉の背を軽く叩いた。背で持て、の合図だ。

 背の刀――のり――は、血を見せないが、血を減らす。その刃は、濡れていてよい。


     *


 山と山の間を縫う道は、ある日、突然に消える。

 昨夜あったものが今朝は無い。九州の雨は、そういう不躾ぶしつけさを持っている。

 「谷が落ちた!」

 叫び声が背骨へ落ちる前に、佐吉は杭袋を掴んだ。

 木道の場所を変える。

 石の楔を増やす。

 札を足す。

 『谷、欠落けつらく/肩に回れ』

 『荷、かろく/息、短く』

 短い札は、おろおろする目の前で足場になる。

 伊助が笛を一音だけ鳴らし、太市が拍子木を三拍打つ。

 律が戻る。律が戻ると、人は動く。


 村の百姓頭を探すと、彼はすでに谷の肩にいた。

 「この土は、雨が止んでも休まんのです」

 彼は土を掴み、掌で握って見せた。握った土は指の間からすぐに逃げる。「二日待て」

 佐吉は札に書いた。

 『土、二日休まず』

 『二日、触れるな』

 触れないことが、支えることになる場面がある。何かをしない札は、嫌われやすい。

 嫌われる札の角は、いつも先に丸くなる。丸くなる前に、釘を打つ。

 「釘をくれ」

 木工の若者が袋を差し出す。釘は雨の中でも冷たい。冷たさは輪郭をくれる。輪郭があれば、焦らない。


 その夜は、いつもの火が焚けなかった。湿りが火をねじ伏せる。焚けない夜は、声が高くなる。高い声は、すぐ近くで燃える。燃えると、燃え尽きる。

 佐吉は、雨樋あまどいの下に立った。屋根から落ちる水が、等間で土に刺さっている。

 等間。

 等間の打音は、拍子木の代わりだ。

 「等間が命を繋ぐ」

 口に出した言葉は、自分の耳に冷たく響いた。嫌われる声だ。だが嫌われる声の温度を、掌は覚えている。


「等間で眠るのか」

 背で、秀吉の声がした。

 「眠れません。しかし、眠れる者が増えます」

 「眠れる夜の数は功績、か」

 秀吉が笑う時は、唇ではなく目尻の皺が先に動く。

 「九州の雨は、功を嫌う。派手な首級しるしは濡れて重くなり、凱声がいせいは雲に吸われる。残るのは木道と楔と札だ。……それでよいのか」

 「よいと、思うようにします」

 「思うように、か」

 秀吉は樋の水を指で受け、その滴りを払った。「宗と理の違いは、お前の札の長さぐらいかもしれん」

 言って、踵を返した。

 宗は人を立たせ、理は人をたわめる。どちらも、雨の前には帽子になる。帽子の縁が広すぎても狭すぎても、肩は濡れる。


     *


 キリシタンの村で、一人の女が医の館の前に膝をついていた。膝の下に泥の輪が広がり、彼女の指は十字を描こうとして雨にほどける。

 彼女の夫は、敵方の斥候だった。斬られ、最後にこの村に運び込まれたのだという。

 「助ける順は同じです」

 佐吉は札を示し、順を口で言い直した。「腕は今、足は前に。口は後」

 女は顔を上げ、唇の端で何か祈り、そして頷いた。

 酒を薄めた灰汁で傷を洗い、布を巻き、息を揃えさせる。

 雨は、止まない。

 村の教会堂らしき小屋の鐘が、遠くで遅れて鳴った。

 離れがたい高さ。

 寺の鐘とも、城の合図とも違うが、高さは高さだ。骨は、高さを覚えている。


 翌朝、男は息を繋いだ。

 女は十字を切り、低く礼を言い、そして笑った。笑いは、宗の隙間に理を置く。

 佐吉は、札に小さく書き足した。

 『宗、理、雨』

 並べただけの三つの言葉が、骨の棚の同じ段に乗るとのちに気づいたのは、数日を経てからだ。


     *


 行軍の列に、印の押されたますが混じるようになった。

 九州の湿りは、枡の角を早く甘くする。底に焼かれた印――丸・半月・角――は、その甘さの速さを教える。

 印を嫌う者は、いつでもいる。

 「小賢しい」「戦の外で功を作る」「雨は札で止まらない」

 風は板の下を戻ってくる。板は撓めてある。撓めていない板は、もうめくれて土に沈んでいる。

 友之丞が槍を拭きながら、ふと口を開いた。

 「お前の札は、俺の槍より嫌われる」

 「嫌われるほど折れぬ」

 「折れぬだけでは、前に出ない」

 「撓みが、前に出す」

 友之丞は鼻で笑い、すぐ真面目に頷いた。「撓め」

 その短い言葉が、火の輪郭の代わりになって夜の湿りに灯りを残す。


     *


 戦が終わった。

 首級の名は、濡れた空気に重くぶら下がり、武勇の士の名は早くも口々に乗る。

 佐吉の札は、泥に汚れ、杭から外れ、誰の足跡にもならない。

 札の名は残らない。

 残らぬ名に、夜の骨がうずく。

 湯は薄く、香は弱く、重は少しだけ苦い。

 伊助が湯気の向こうで片目をつぶる。「重は、翌朝の足を残す」

 太市は拍子木をひざの上で転がし、指で等間の跡を押し付けるようにして遊んでいる。

 友之丞は黙って槍の背を撫でる。穂先ではなく、背だ。背の木目に、雨がまだ残っている。


 夜半、雨はやっと止んだ。

 佐吉は外へ出て、といを見上げた。

 滴が等間で落ち、土に小さな円を等間に描いていく。

 等間は、骨に安堵を作る。

 「等間が命を繋ぐ」

 誰にも聞こえない声で呟き、胸の中の天秤てんびんを覗く。針は少しだけ左へ傾いている。左は陰口で、右は弔いで、中央は札の余白だ。

 余白は、次の札のために空けておく。空けておいた余白に、朝が入ってくる。朝の白は、湯の白につながる。


     *


 翌日から数日は、弔いの順が静かに働いた。

 『名を呼ぶ/目を閉じる/髪を撫でる/水を供す/土を一掴み』

 キリシタンの村では、十字を切る手が一行の間に挟まる。順の前に、十字。十字の後に、順。

 宗と理が喧嘩しない光景は、雨上がりの匂いに似ていた。濡れた土の匂いは長く残る。残る匂いの数だけ、札は必要だ。

 ある葬列で、老人が古い枡を持って歩いていた。底には、掠れた黒い字が残っている。

 「息子の字だ」と彼は言った。「遠い前の雨の日につけた」

 印の黒と、息子の黒。どちらも黒。黒は低い。低いものは遠くへ届き、遅れて戻る。

 老人は、土を一掴みして枡に入れ、また取り出して墓の上に置いた。

 それを見て、佐吉は札に新しい短い一行を足した。

 『土は記憶の枡』

 書いてから、少し恥ずかしくなった。だが書いておく。短い言葉ほど、後で骨の奥から出てくる。


     *


 雨が止み、空が白く乾いていくまでの数日、佐吉は「道のれき」を札にまとめ直した。

 『三年前崩れ/肩を歩け』

 『満月増水/二の堰、渦』

 『土、二日休まず』

 『橋の下流、楔』

 『ぬかるみ、木道』

 『等間、命』

 並べて読むと、詩の真似事のようで、顔が熱くなる。だが、短さは恥と同居する。


 秀吉に札の束を差し出すと、彼は一枚一枚、裏まで見る癖でめくった。

 「宗ちがえど、助ける順は同じ」

 声に出して読み、目尻に皺を寄せる。

 「お前は、宗の人か、理の人か」

 「どちらでもありません。順の人です」

 秀吉は笑わなかった。笑わない顔のまま、札を束ね直し、角を掌で撫でた。

 「順の人、か。順は嫌われる。嫌われるものが、国を支える。……風は板の下を行け。板は撓め」

 短い言葉を、彼は置いていった。置かれてから効いてくる言葉は良い言葉だ。雨の言葉は、遅れて骨に届く。


     *


 戦働きの名は、武勇の士に帰った。

 声は大きく、酒は濃く、夜は短い。

 札の名は残らない。

 残らぬ名の夜に、佐吉はひとりで湯を沸かした。

 薄く、厚く、重く。

 薄は喉に道を、厚は香に橋を、重は胸に重しを。

 湯の白は、雨の白ではない。だがどちらも白だ。白は、輪郭を隠すのではなく、輪郭を教える。

 重の一献を飲み干し、札の余白に非常に小さな字で書き足す。

 『名は残らず、順は残る』

 『等間、命』

 『宗、理、雨』

 字が雨に解けて消えるのなら、骨に残るように何度でも書く。骨に残れば、札はいらなくなる。その日まで、札は書く。


     *


 九州の湿りは、いつまでも指に残る。

 木道の板は、乾いても重い。

 石の楔は、土に沈みながら石であり続ける。

 キリシタンの村の鐘は、晴れの日にも遅れて鳴る。

 遅れて届く音は、長く残る。

 佐吉は、夜の樋の下で等間を数え、数えるうちにかずかぞになっていくのを不思議に思いながら、目を閉じた。

 眠れる夜の数は功績だ。

 功は名ではなく、順序でできている。

 順序は骨で受け継がれる。

 骨に届く印は、底に。

 骨に届く札は、楽の直前に。

 そして、ほどけるように。


 雨は止んだ。

 しかし土の匂いは長く残る。

 残る匂いの数だけ、札は必要だ。

 札は、背の刀の名である。

 刀の名は――規。

 血を見せぬが、血を減らす。

 それでよいのか、と時に胸の内で問う声はやまない。

 やまない声を、等間の滴が撓めていく。

 滴の低い音が、遅れて、遠くから、骨に落ちる。

 その音を合図に、佐吉は明日の札を一本、短く、濃く、そしてほどけるように書いた。

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