第5話「賤ヶ岳の影」
山の影が、ひとつ深くなった。
朝の空気はまだ冷たく、草の穂先には夜の湿りが残っているのに、胴巻きに触れる指の腹には早くも汗がにじむ。賤ヶ岳は、湖の呼吸と山の呼吸がぶつかる場所だ。風はふたつの方角から来て、真ん中で言い合いを始め、やがて低い同意に変わっていく。その低い音が、兵の腹に落ちる。腹が先に鳴る。心はあとから振り返る。
佐吉は、板に「札」を書いていた。
板は薄く、墨は濃く、字は砂子のように細かい。覚書に書き溜めてきた順序を、戦の場にふさわしい短さへ切り詰める。
『口は戦の後/腕は今/足は前に』
『矢は惜しむに非ず、留めるに有り』
『傷は熱の高き者から/血は静かに/息は揃えよ』
『ぬかるみ半間、槍も半間』
『炊ぎは二息待て/火の輪郭を見よ』
札は、声より先に届く。届いてほしくない者にも届く。嫌われるのは承知だ。嫌われることを怖がれば、札はただの木切れになる。
帳場から外へ出ると、空は薄曇りだった。
藁束の匂いに油の匂いが混じり、焙られた革の香が鼻に刺さる。遠く、湖面の光が薄く震え、葦の影が風で折りたたまれたまま戻りきらない。
兵が集まり、若い者は笑い、年のいった者は黙って空を見ている。笑いは、槍の穂先を軽くする。黙りは、足の裏を重くする。どちらも欲しい。どちらも過ぎると、崩れる。
「おい、札の小僧」
ふいに声が落ちてきた。
福島正則が、肩で笑う。額に汗の玉を乗せ、指の節は分厚く、笑いは大きい。「札などで腹は膨れぬぞ」
「腹は飯で膨れます」
「ならば飯の札を書け」
「書いてあります。『炊ぎは二息待て』」
「二息も待てぬ」
加藤清正が、正則の後ろで鼻を鳴らした。目は笑っていない。「待つ間に敵が詰めてくる」
「詰めてきた敵の足は、ぬかるみに飲まれます。『ぬかるみ半間、槍も半間』」
「札でぬかるみを浅くできるなら、紙を敷いてくれ」
「紙は敷けません。けれど間合いは詰められます」
ふたりは笑い、笑いの輪が周りに広がった。輪の外で、伊助が目だけで「よし」と短く合図する。笑いは必要だ。だが笑いで札が消えると、夜の火は輪郭を失う。
札は、笑いで丸め、釘で立てる。釘は見えない場所へ打つ。
その日、陣の評議で佐吉は短く言った。
「雨後のぬかるみは弓を鈍らせますゆえ、槍の間合いを半間詰めるべし」
秀吉は、地図の上の石を指で弾き、頷いた。「半間。よい。短い言葉は骨に入る」
誰かが小さく笑った。「骨に入るほど冷たい」
冷たさは、火の輪郭を教える。輪郭があれば、燃やし過ぎない。燃やし過ぎなければ、残る。残るものが功だと佐吉は思う。派手な首級と凱声は陽であり、札の木目は影だ。陽は昇り、影は残る。残る影の場所を先に決めておけば、陽のあとに人が迷わない。
*
賤ヶ岳の朝は、思いの外、静かに始まった。
太市が拍子木を小さく打ち、拍は「三で吐き九で笑え」の薄い版になって皆に伝わる。笑いは喉に留めておき、腹に落とす。落ちた笑いは、あとで湧く。
佐吉は札を人の手に渡しながら、ぬかるみの場所へ白い粉を撒いた。粉は石灰だ。線にできるほどには撒かない。点で撒く。点は、目が拾う。線は、足が迷う。
矢束の前に札を立てる。「一の矢の後、三呼吸」
火桶の側に札を立てる。「火の輪郭」
傷兵の収容所に札を立てる。「腕は今/足は前に」
『口は戦の後』の札だけは、裏に立てた。前に置けば、札が刺さる。刺さった札は抜けない。裏に置けば、終わってから目に入る。終わってから入る言葉が、心を撓める。
合図の角笛が鳴った。
山が、息を吸う。湖が、目を細める。
初手の矢は低く短く飛び、二手目は三呼吸の間に風を読み直して、相手の胸板へ沈む。三手目で、矢の音が変わる。近い音だ。近い音は、槍の背に伝わる。
ぬかるみの点の間を、福島正則たちが駆け抜ける。間合いは半間。大股を封じ、膝を低く、槍の背で押す。背で押すと、穂先の光は必要以上に暴れない。
「半間だ」「半間だぞ」
声が短く飛び交い、土の上の水が、踏まれてもなお表面張力を保っている。張力は、破れないための撓みだ。
敵の矢は湿り、弦の音が重い。弓の腹が汗を吸っている。
こちらの矢札の前には、三呼吸の札。拍子を覚えた兵が、矢を惜しむのではなく「留める」。留めた矢は、いざというときの心の藁帯になる。
伊助が先頭のひとつ後ろで、肩のわずかな撓みを合図に替えて人を流す。流れる列は、美しい。美しい列は、強い。美しさは勝利の一部だが、勝利そのものではない。勝ったあとに残るものが、功だ。
昼過ぎ、勝敗は明らかになった。
首級が上がり、凱声が山に跳ね返る。跳ね返りの音に浮かれて足元を見失う者もいる。浮かれは、ぬかるみに似て人を飲む。
佐吉は凱声の輪から少し離れ、泥に汚れた札を拾い上げた。
『ぬかるみ半間、槍も半間』――泥で字が半分隠れている。
『傷は熱の高き者から』――血の指跡で「熱」の字が二度書かれていた。誰かが震える手でなぞったのだ。なぞる行為は、生に向かう。
『一の矢の後、三呼吸』――札の角が欠けている。欠けは、使われた証だ。
板の裏に、佐吉は新しい札を一本差した。「弔いの順」。
『名を呼ぶ/目を閉じる/髪を撫でる/水を供す/土を一掴み』
順序は、亡者にも必要だ。順があれば、泣く者の肩が撓む。撓めば、折れぬ。
*
勝ち戦の夜は、火が高い。
火は高くとも、湯の白は低く。佐吉は湯の白を見つめ、三献の順を乱さない。薄く、厚く、重く。薄い一献は喉に道を、厚い一献は香に橋を、重い一献は胸に重しを。重しがない夜の勝利は、翌朝に崩れる。
伊助が湯気の向こうで笑う。「重しを置ける奴は、次の朝に立てる」
友之丞は黙って火を見ていた。指の節に新しい傷があり、その上に薄い灰が載っている。
「三の呼吸を、守った」
彼はぽつりと言った。「守らせた札の角を、俺は今日、指先で何度も撫でた」
「札の角を撫でる指が増えれば、明日の声は低くなる」
「低い声は、遠くへ届く」
同じ言葉を、ふたりで違う場所から言った。違う場所で重なる言葉は、なぜか骨に深く入る。
太市は拍子木を膝に置き、うとうとしかけては肩を跳ねさせる。膝には焦げの跡が残っている。あの夜の火で焦がした袖の糸、輪郭を撫でて守った掌。太市の母は今日、列の端で弁当の結び目を撓め結びにしていた。弁当の重みは、撓め結びで肩にやさしい。
その輪の外で、「小煩い理詰め」という言葉が、火の輪郭のさらに外側を回って行くのを佐吉は感じた。
陰口は風だ。風は板の下。板が撓めてあれば、風は抜ける。撓めていなければ、板はめくれ上がる。めくれた板で足を切るのは、踏む者だ。
めくれない板をつくるために、釘を一本、また一本。誰にも見えないところで打つ。釘を打つ音は低く、低い音は遠くへ届く。届いた低い音は、遅れて戻る。遅れて戻る礼ほど、長く残る。
*
賤ヶ岳の数日後、雨が細く降った。
傷兵の収容は続き、札の黒は泥で汚れて、けれど字は読めた。『腕は今』の札の前で、若い兵が歯を食いしばっている。骨が、身の内で暴れている音がする。
「息を揃えよ」
佐吉が短く言い、札を指で叩いた。叩く音は、兵の耳の奥で別の音に変わる。声は届かなくても、音は届く。
熱の高い者から担ぎ、足の傷は前へ、胸の傷は後ろへ。順序は、冷たい。冷たい順序は嫌われる。だが、順序がない優しさは人を殺す。
伊助が担架の尻を持ちながら息を吐く。吐く音がほかの者の吐息を誘い、部屋の中の空気が低いひとつの音にまとまる。
友之丞は外で、雨に濡れた槍を拭いていた。穂先から背へ、背から柄の節へ。拭く順序にも札が要る。
佐吉は、収容所の隅に新しい札を立てた。「呼ぶべき名」。
名は、弔いの順の前に必要だ。名があれば、土の重さが変わる。名がなければ、土はただの土だ。
太市が名を一つずつ読み上げ、読み違えると自分で耳を叩く。叩く音が低くなってきた。自分を責める音は高く、自分を撫でる音は低い。
誰かが言った。「札が増えた」
佐吉は頷いた。「増えた札は、減らすための札です」
「減らせるのか」
「減らせるように、今は増やす」
増えた札は、やがて要らなくなる。要らなくなる日が来るように、今は濃く書く。濃く書く札は嫌われる。嫌われる札は、折れぬ板の下で風を抜かせる。
*
夕刻、秀吉に呼ばれた。
地図の間は湿っており、紙は薄い水を吸っていた。紙が水を吸う音は、耳には聞こえないが、指には届く。指に届く音は、脳の静かな場所を撫でる。
「三成」
「は」
「よくやった」
短い言葉の方が、人は受け取り方を迷う。迷いの余白が、次の線になる。
秀吉は札を一枚めくった。「弔いの順、か」
「はい」
「勝った夜に、弔いの札を書く奴は、そうはおらん」
「勝ちが残るのは、弔いがあるからです」
秀吉は笑わなかった。笑わない顔に、目尻の皺がふたつ寄った。
「小煩い理詰めと、陰で言われておるぞ」
「風です」
「板は、撓めてあるか」
「板は、撓めてあります」
秀吉は頷き、地図の上の石をひとつ、別の位置に置いた。置く指の背に小さな傷がある。
「槍は陽、札は影。表裏が揃って陽は昇る。……陽が昇りっぱなしでは、人は焦げる。影を置け。影は嫌われる。嫌われた影の下で、人は涼む」
涼む場所があれば、人はもう一度歩ける。
佐吉は、礼をして部屋を出た。廊の窓から、湖がひとつ、深く息を吐くのが見えた。吐く音は、遅れて胸に届いた。
*
夜、宿直部屋でひとり、天秤の針を見た。
針は、ほんの少しだけ右に傾いている。今日の功の重みは右、陰口の重みは左、残り続ける弔いの重みは、天秤のどちらにも載せられない。天秤は、載らぬ重みには無力だ。無力を自覚することが、秤を折らない。
机の端に、寺から持ってきた小さな角がある。枡の角を揃えるために、城下で皆と撫でた木の角。
角を撫でる。撫でると、音が出る。低い音。低い音は、遠くへ届く。届いた音は、遅れて戻る。
遅れて戻る音が、弔いの夜には必要だ。
佐吉は湯を沸かし、三献の茶を自分だけのために点てた。薄く、厚く、重く。
重くの一献に、弔いの順の札を思い浮かべる。
名を呼ぶ/目を閉じる/髪を撫でる/水を供す/土を一掴み。
順序に冷たさが宿るのは承知だ。だが冷たさは、火の輪郭を教える。輪郭があれば、泣き過ぎない。泣き過ぎない夜は、翌朝の足を残す。
*
次の日、城下の外れで小さな葬列に出会った。
太市が拍子木を持って先を歩く。拍子は打たない。ただ握っている。拍子木は、音を出すためだけの木ではない。握り、温度を伝え、掌の汗で木目が柔らかくなり、柔らかくなった木目が指を撫で返す。撫で返しは、生の側の仕草だ。
佐吉は列の端に並び、土を一掴みした。指の間からこぼれる土の粒が、爪の中に黒い線を残す。線は、夜まで消えない。
太市の母が、拝礼のあと小さく言った。「うちの子は、嫌われる札を読める子になりました」
佐吉は少し笑い、首を振った。「札を撫でる子になったのです」
撫でる者は、折れぬ。
折れぬ者は、いつか誰かの背で槍を持つ。
*
賤ヶ岳の影は、勝ち戦の栄の陰に長く伸びる。
影は、火の輪郭があるから影でいられる。輪郭を忘れると、影はただの暗がりになって人を迷わせる。
佐吉は、札を一枚ずつ拭った。泥を拭い、血を拭い、角を撫でる。
『口は戦の後』の札の裏に、細く線を足した。
『口は戦の後/言葉は骨の後』
骨の後に言葉が来る時、言葉は骨になる。骨になる言葉は、短い。短い言葉は、嫌われる。
嫌われる言葉に撓めを入れるため、佐吉は隅に小さく、さらに足した。
『笑いは、骨の隙間』
骨の隙間に笑いが入ると、骨は折れにくい。笑いは札を丸め、丸めた札は、次に立て直せばよい。立て直すための角を、木の角が指に教える。
夕暮れ、湖が細く鳴った。
寺の鐘の高さが、遅れて胸に降りてくる。離れがたい高さ。
高い音と低い音が、同じ棚でやっと重なる。
湯の白と泥の黒、槍の陽と札の影、勝ち声と弔いの静けさ。
どれか一つだけを抱えれば、もう一つがこぼれる。
こぼれるものを撓めて受ける掌を、明日の自分は持てるだろうか。
答えは、今は要らない。
今はただ、板の下で風を抜かせる釘をもう一本。
誰の目にも触れぬ高さで、短く、低い音で。
夜、三献の最後の茶を飲み干す。
喉の奥に小さな重石が沈み、息が少しだけ深くなる。
天秤の針は中央で眠り、窓の外で波がひとつ、遅れて岸を打った。
遅れて届く音は、長く残る。
長く残るものだけが、功だ。
功は、名前ではなく、順序でできている。
順序は、誰かの骨で受け継がれる。
その骨のために、札はある。
札のために、今日の言葉は短くなる。
「口は戦の後」
佐吉は、そっと札を伏せた。
伏せられた木の面に、火の輪郭が揺れ、ゆっくりと影が伸びていった。




