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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第二部・石田三成編

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第3話「長浜の算盤」

 長浜城に入って最初に鼻を刺したのは、戦の匂いではなかった。

 米蔵の湿り、銭箱の鉄、帳場の墨、乾きかけた漆の器にこもる甘い匂い――そのどれもが薄く混ざり、台所の湯気とは別の「温度」を持って流れている。藁の束を抱えた下男が行き、簀の目を踏む足が硬い音を落とし、廊の陰を小姓がすべる。槍の影が壁に濃く伸びる時刻であっても、帳場の釘は別の角度で光った。

 佐吉は、その光の傾きを秤にかけるように眺めた。


 秀吉の陣では、槍と同じほど帳簿が重んじられた。槍の柄が汗で手になじむなら、帳簿の紙もまた指の脂でうっすら光る。若い小姓は算盤そろばんますを両の手に持ち、出入りの記録を追い、誤差の音を拾い、米と銭の行方を地図に置き換える。

 算盤を弾く指の音は、最初こそ軽かったが、日を追うごとに低くなった。低い音は、遠くへ届く。寺で聞いた鐘の鳴り口を思い出しながら、佐吉は帳場の隅に腰を落とす。


 米蔵の扉は重い。締めるたびに、城の骨が少し軋む。

 この日の朝も、入出の記録を改める役が佐吉に回ってきた。

 帳を繰る。紙の縁に指先の皺が引っかかる。

 壱月分――稲束の仕入れ、乾し場の損耗、踏み台の更新。

 貳月分――雪に濡れた麻袋の買い足し、蔵人への薄賃支給。

 参月分――橋板の補修、馬の蹄鉄の交換。

 字は砂子すなごのように細かく、人の手の癖が並ぶ。その隙間に、ひとつだけ違う息が混じる。

 数の匂いは、ちいさく変わるとすぐ匂う。

 佐吉は欄外に小さく注を書く。「何升何合、何人」。そして「取回し可」「振替候」と墨の腹でなだめるように線を引く。

 足りぬ分は、どこから戻すか。逆算で道筋を引く。

 足りないのは米ではない。道だ。道が濡れ、橋が傷み、人の肩が沈む。沈んだ肩は数を落とす。

 数は、人の体温に従う。


「小僧、槍で覚えることを算盤で覚えるな」


 豪胆な同僚が、背中で笑う。

 伊助は肩で笑わず、目で笑う。


「覚えるのは同じだよ。手の皮が厚くなるか、指の腹が黒くなるかの違いさ」


 佐吉は算盤を軽く弾き、針の代わりに心の中の天秤を見る。

 数を載せた皿は、言葉の皿と向かい合う。

 ここから一升減らす。向こうへ四合足す。

 針は揺れる。

 住持の言葉が浮かぶ――理で折れぬよう、たわめよ。

 撓めるのは、数でもできる。


 昼の刻、米蔵の隅で枡を磨いていると、城下の商人が来た。

 近江の湖風に焼けた顔、頬の骨が張り、目尻に笑い皺が深い。口に出す言葉より、指先の癖が信用できる、そういう男だ。


「御城の枡は、ようできてますな」


「同じ枡で測られた米でも、蔵によっては重さが違って聞こえます」


「はは、耳の枡と舌の枡か。よう言わはる」


 商人は腰を下ろし、一分ほど黙った。

 沈黙の間、人は自分の枡を取り出して撫でる。

 やがて彼は、懐から小さな木の角を出した。角は白く、指に吸い付く。


「この角で、寸法を合わせとう思てますのや」


「角?」


「ええ。枡の角は命です。角が丸うなると、枡の心も丸うなる。丸うなった心は楽ですが、数が甘なる」


 佐吉は角を受け取った。指にぴたりと吸い付き、寺の木魚の手触りを連れてくる。太鼓の皮の裏で鳴る低い音まで、掌に残る。


べたいのです」


 商人は声を下げた。

 城下の枡は、店ごとに微妙に違う。人の顔ほどに違うわけではないが、天気ほどには変わる。

 布の縫い目のような誤差は、日々のやり取りに混ざり、やがて大きな皺になる。

 その皺を伸ばす角が、これだと商人は言う。


「殿の名で統べられたら、町は回りやすうなる。うちは損しますか、得しますか」


「損も得も、最初は音が大きい」


 佐吉は角を机に置き、掌で軽く押した。

 木が机に鳴らす音を聴く。

 しずかな音だ。低い。

 低い音は遠くへ届く。


「この角を使う所から始めれば、音は低くなります。低い音は、寝床にまで届く。寝床で損得の話をする家は、翌日の機嫌がよい」


「はは、ええこと言わはる」


 商人は笑い、角を預けて帰った。

 角は掌に残った。木のちちの匂い。寺の朝の匂い。

 佐吉は帳場に戻ると、枡を一つずつ指で撫でた。角にそって、指の皺を走らせる。

 統べるための寸法を密かに書く。

 数字ではない。角の角度、縁の高さ、底板の鳴り。

 紙に描くと、線はただの線になる。

 指に覚えさせる。

 枡の角を撫で、撫で、撫でる。

 撫でる手の温度が一定になると、枡は音を替える。

 その音こそ、統べる寸法だ。


     *


 雨が来た週の末、山からの水が道を飲み込み、橋の袂が崩れ落ちた。

 武具蔵の軒先に濡れた槍の列が立ち、馬は鼻を鳴らし、兵は声を荒げた。

 兵糧の列が止まる。止まった列は腐る。腐るのは米でも干物でもない。人の気だ。

 秀吉は具足の胸板を打ち合わせ、濡れた髪を手で梳いた。


「佐吉」


「は」


「橋がない」


「橋はあります。道がないのです」


「ほう」


 佐吉は、帳場の隅で書き溜めていた「迂回の図」を広げた。

 紙の上の線は、雨の日の川をなぞる。

 平時は人が渡らぬ浅瀬、商人が牛で渡る支流、子どもが石を投げて遊ぶ洲。

 寺にいた頃、雨の日はいつも水を見ていた。

 湯の白を眺める目で、川の白を眺める。

 泡がどこで崩れ、どこでまとまるか。

 水は足の速い兵だ。足の速い兵は、道がなければ道を作る。


「ここから回ります。浅瀬をふたつ渡り、柳の下を抜け、古い石仏の後ろで列を細くする。細くしたところで、枡を替える。大枡から小枡へ」


「枡を替える?」


「人の肩が沈むところで、枡を軽くするのです。計りの心を軽くする。肩の心が軽くなる」


 秀吉は笑わなかった。

 笑うと、兵の肩が笑いを待つ。待たれる笑いは、秤を狂わせる。

 彼は図を一度だけ見て、指で線の交わりをなぞった。

 指の腹が紙のざらつきを覚えて、止まる。


「行け」


 兵糧の列は動いた。

 雨の白が低く鳴り、腰のあたりで草が濡れ、馬の脚は泥を跳ね上げ、背負い子の唇の色が薄くなった。

 浅瀬の手前で、佐吉は指を振った。

 枡を替える。

 握り飯の配り方を替える。

 小さな枡の音は軽い。軽い音は、人の足に早く届く。

 列は細り、だが切れなかった。

 切れない列は、夜に笑う。

 その夜、長屋の囲炉裏で、誰かが言う。「今日の飯は、かろうて、腹に落ちる」

 軽いが腹に落ちる。

 それは、枡の角のせいだ。


 城に戻ると、秀吉は具足の紐をほどいていた。湿った革は、手に吸いつく。

 火の側で、彼は軽く肩を回し、言った。


「槍は日の表、算は日の裏。表裏が揃っては昇る」


 火の橙に、唇の形が少し影を落とす。

 佐吉は、その影の濃さを見て、三献の秤を思い出した。

 最初は薄く――入る。

 二献目は厚く――掴む。

 三献目は重く――沈める。

 今日の迂回は、まさにその順で進んだ。

 入って、掴んで、沈めた。

 沈めれば、浮く。

 それを兵が覚えれば、明日の橋は、なくても渡れる。


     *


 帳場に戻ると、紙と墨の匂いが落ち着きを戻していた。

 濡れた衣の匂いと混じり、ぬるい風が廊の隙間をすべる。

 佐吉は机の上に枡を置き、角を撫でた。角は濡れていても吸いつく。木の乳の匂いが少し強くなる。


 枡をべるには、殿の名だけでは足りない。

 町の手の動き、商いの呼吸、祭りの賑わい、弔いの沈黙――そういう場所で鳴る音に、同じ高さを覚えさせなければならない。

 枡は道具であり、音でもある。

 寺の木魚が僧の呼吸を揃えるように、枡の角は町の呼吸を揃える。


 夜、城下の酒屋の離れに、商人たちが集まった。

 表向きは新酒の利き酒。裏の議は枡の角。

 佐吉は茶を点てる役で呼ばれ、座に入った。

 薄く、厚く、重く。

 順序は変えない。

 茶の渦が落ち着いた頃合いで、佐吉は角を取り出した。

 灯心の影が角に沿って伸び、男たちの目の色が少し真剣になる。


「この角で、城も町も同じ音を鳴らしたい」


 言葉は少なく、手を多く。

 角を渡し、枡を撫でてもらう。

 男の手は年輪を持つ。

 若い手は薄く、古い手は厚い。

 しかし角に触れた瞬間、手の厚みは同じ高さで沈む。

 その沈み方を、佐吉は記憶する。

 どの家の枡が、どれほどたわんでいるか。

 どの舌が、どの音で飯をうまいと言うか。

 数は舌でも測れる。


「統べるいうても、殿さんのご威光で押し通すんでは面白ない」


 ひとりが言った。頬に古い傷がある、船方の親方だ。


「おもしろい必要はありません」


「いんや、面白いことは大事や。人は、面白い方へ流れる」


「ならば、面白い枡にしましょう」


「面白い枡?」


「量るたびに、同じ音がする枡です。音が同じやと、人は安心して笑う」


 笑いが座に落ちた。

 笑いは、枡の角を丸める。

 丸めた角は、また角で起こせばよい。

 起こす手を、町中で合わせる。

 茶を飲み、湯の白を眺め、角を撫でる晩がいくつか過ぎた。

 やがて、城下のいくつかの店で、同じ角が棚の奥に鎮座するようになった。

 角の木目は、店ごとに違う光を吸い、違う匂いを持った。

 しかし、鳴る音は同じになっていった。


     *


 城の朝は、音で知る。

 火の起きる音、井戸の桶が返る音、鶏の喉が伸びる音、遠くの寺の鐘が一拍遅れて届く音。

 その朝、鐘はいつもより長く余韻を引いた。

 胸の骨が、静かにその余韻を受ける。

 離れがたい高さ。

 鐘の高さは変わらないが、鳴りは毎朝すこし違う。


 佐吉は帳場で、新しい帳を開いた。

 表紙に小さく、墨で「角」とだけ記す。

 枡の角の周りに集まった言葉を、砂子のように散らす。

 「柳下の浅瀬」「石仏の影」「舟の舳先」「大豆の乾き」「若い手の厚み」「雨の白」――

 数ではない言葉の群れが、数を支える。

 言葉は、秤の真綿だ。

 真綿がない秤は、針が折れやすい。


 そこへ、伊助が駆け込む。


「佐吉、殿が呼んでる。城外の米寄せがめてる」


「揉めている?」


「枡の角だ」


 城外の広場には、米俵がいくつも積まれ、その周りで声が高くなっていた。

 村の頭と、城の蔵役と、船方が三角に立ち、互いの影を足で踏む。

 角を統べる前触れは、たいてい揉める。

 人は、枡の角と同じく、撓められる前に反り返る。


「角なんぞ、殿の御名で押し付けられても、腹はふくれん」


 頭のひとりが言う。

 腰の帯は緩く、声は強い。

 佐吉は近づき、礼をしてから、俵の上に手を置いた。


「腹がふくれる話をします」


「ほう。坊主上がりが腹の話か」


「坊主の腹も、飯で満ちます」


 笑いがいくらかこぼれる。

 空気の角が丸くなる。

 佐吉は、俵の縄を少し緩め、枡をひとつ取り出した。

 角は、先日と同じ。

 指で撫で、音を出す。


「この枡で量った米は、明日も同じ重さで量られます。蔵でも、商いでも、舟でも。

 明日も同じ音で量られる米は、値が狂いにくい。

 値が狂いにくい米は、貯めやすい。

 貯めやすい米は、祭りで大きな餅になる」


「餅だと?」


「ええ。餅は腹がふくれます」


 笑いが大きくなる。

 笑いの波の上で、否は沈む。

 沈んだ否は、拾いやすい。

 佐吉は、否を拾って皿に載せる。

 枡の角を撫でながら、言葉を重ねる。


「角を統べるのは、城に都合がいいばかりではありません。角が揃えば、誤魔化しが減る。誤魔化しが減れば、喧嘩が減る。喧嘩が減れば、子が泣かんで済む」


「子が、泣かんで済む」


 低い声で繰り返したのは、舟方の親方だった。

 彼には、頬の古傷と同じくらい深い皺が目尻にある。

 その皺は、雨の朝に子を送る父の皺だ。


「餅を大きゅうできるなら、うちは角でもつのでも、撫でるで」


つのは撫でると丸うなります」


「せやから撫でるんや」


 笑いがもう一度揺れて、やがて落ち着いた。

 角はその場で三つ、持ち帰りが決まった。

 角を手にした男たちは、帰り道、おそらく家で一度、妻と子の手にも触れさせるだろう。

 触れさせた手の温度で、角は少し育つ。


     *


 夜、秀吉に報告すると、彼は座につかず、立ったまま話を聞いた。

 立ったまま聞くと、人は余計な言葉を削る。

 削られた言葉は、骨が見える。


「角は揃うか」


「すぐには揃いません。しかし、揃えようとする手は増えます」


「手が増えれば、音が揃う」


「はい」


 秀吉は口角をわずかに上げ、具足の紐を指先で弄んだ。


「算盤の珠は、押せば走る。だが押さねば、ただの木だ。

 押す手の力を、揃えねばならん。

 枡の角は、珠の角やな」


 彼は歩きながら、ぽつりと言った。


「表裏が揃えば陽は昇る。……陽が昇りっぱなしでは、人は焦げる」


 その声には、茶の三献の夜に庭で漏らした声と同じ陰りがあった。

 陽は、昇れば影をつくる。

 影は、冷やす。

 冷やし過ぎれば、動きが止まる。

 止まる前に、撓める。


 佐吉は、帳場に戻ると算盤を取り出した。

 珠の角が、指に当たる。

 軽く弾き、止める。

 弾き、止める。

 珠の音が低くなっていく。

 低い音は、夜に届く。


 その夜、宿直部屋の窓の外で湖が遠く鳴った。

 波が岸に打ち寄せ、返す音が少し遅れて戻る。

 遅れて戻る音は、長く残る。

 鐘と同じだ。

 佐吉は目を閉じ、骨の中の音を確かめた。

 寺の鐘の高さ。

 長浜の算盤の低さ。

 高い音と低い音は、同じ棚に並べられる。

 並べる手は、撓められる手でなければならない。


     *


 春が来る。

 湖の匂いが薄く甘くなる。

 城下の女たちは簾を洗い、男たちは草刈りを始める。

 子どもが小さな枡で砂を量り、枡の角で山をならす。

 佐吉は、朝の帳場で新しい枡の音を聞く。

 角が揃いだした町は、同じ高さで笑う。

 笑いが同じ高さで重なると、歌になる。

 歌は、遠くへ届く。


「佐吉」


 伊助が顔を出す。


「殿が今朝、面白いことを言ってた」


「どんな」


「『駄賃を払うのは、明日の自分や』だと」


「明日?」


「今日、利口をすると、明日が払う。今日、損をすると、明日が受け取る。

 算盤は、今日の珠だけ動かす道具やない、と」


 佐吉は笑った。

 算盤は、今日の珠で明日を動かす道具だ。

 枡は、今日の角で明日の腹を満たす道具だ。

 湯は、今日の白で明日の喉を覚えさせる道具だ。

 三献の秤は、今日の順序で明日の秩序を撓める道具だ。


 机の端に置いた天秤を、そっと触る。

 針は、もう揺れにくくなっている。

 揺れにくい針は、折れやすい。

 折れぬよう、撓める。

 針の真綿――言葉と、笑いと、角の手触り。


     *


 ある夕暮れ、城下の外れで小さな葬列に出会った。

 白布で包まれた小さな遺骸。

 足の短い台に乗せられて、四人で担がれていく。

 春先の病に倒れた子だろう。

 泣き声はない。風が鳴る。

 佐吉は、列の端で深く頭を下げた。

 誰かが、枡を持っていた。

 黒ずみ、角が丸い。

 粉がこびりついている。

 米の粉か、麦の粉か。

 その人は、枡を指で一度だけ撫で、列の最後に置いた。

 撫でた指は、角を探すように震えた。

 角は、撓められれば、いつでも立つ。

 立つ角がある家は、明日、飯を炊く。


 寺の鐘が、遅れて鳴った。

 高い音。

 骨に降りる音。

 長浜の低い音と、一瞬だけ重なって、すぐ離れた。

 離れる音は、切ない。

 切ない音は、忘れにくい。


     *


 季節がもうひとつ進む頃、秀吉は城の間で地図を前にしていた。

 石の小さな山と、線。

 指で石を摘み、置く。

 その角度は、茶筅の角度と似ている。

 広げず、閉じず、撓める。


「佐吉」


「は」


「算盤は、兵にも持たせる」


「兵に、算盤を」


「珠で敵の数を弾けとは言わぬ。

 珠で、自分の腹の減りを弾け。

 自分の腹がどれだけ減り、どれだけ戻れば走れるかを、手が覚えろ」


「枡を持たせます」


「よい」


 兵が枡を持つ軍勢は、腹の音で動く。

 腹の音で動く軍勢は、逃げ足も早い。

 逃げ足の早さは、恥ではない。

 撓めて折れぬ軍は、長く残る。

 残った軍は、笑いを覚える。

 笑いを覚えた軍の枡は、餅を増やす。

 餅が増えれば、子が生まれる。

 子が泣かんで済めば、角は立つ。

 角が立てば、町は音を揃える。


 数珠つなぎのような理が、佐吉の中で鳴る。

 理は舟だ。渡ったら降りる。

 降りた先で、また舟を作る。

 舟板の角を撫でる。

 角は、枡と同じ角だ。


     *


 その夜、宿直部屋でひとり、佐吉は茶を点てた。

 薄く、厚く、重く。

 最初の薄は、自分の喉の道を開くため。

 次の厚は、今日の数を舌に刻むため。

 最後の重は、明日の秤を沈めるため。

 湯の白が、紙の白に重なる。

 算盤の珠が静まり、枡の角が灯の影を引く。

 遠くで、湖が遅れて鳴る。

 遅れて鳴る音は、長く残る。


 佐吉は目を閉じ、骨の中で小さく言った。


「表も裏も、陽も影も、同じ棚に」


 棚は、寺の庫裏にもあった。

 長浜の帳場にもある。

 どちらにも、湯の白と紙の白が置かれる。

 どちらにも、角の手触りが残る。

 離れがたい高さと、低く遠くへ届く音。

 どちらも、撓めれば折れぬ。


 明日、また角を撫でるだろう。

 明後日、珠を弾く。

 その先で、橋が流れ、また道ができ、兵が笑い、子が泣かず、餅が大きくなる。

 それを、算盤で、枡で、湯の白で、そっと支える。

 支える手は、目立たない。

 目立たない手ほど、よく残る。

 残るものだけが、遠くへ届く。


 火を落とし、茶碗を伏せる。

 伏せられた茶碗の中に、音がひとつ残った。

 寺の鐘の高さ。

 長浜の算盤の低さ。

 ふたつが、夜の底で重なり、小さな和音になった。

 和音は、誰にも聞こえない。

 だが、確かに、骨には届く。


 佐吉は、静かに息を吐いた。

 撓める技は、まだ道半ばだ。

 だが、道はいつも、半ばにある。

 半ばにあるから、人は歩ける。

 歩く足音を、低く、遠くへ。

 そのための算盤であり、枡であり、湯の白であった。

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