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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第二部・石田三成編

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第1話「観音寺の小僧」

 山の稜線を越えて、朝の風が寺に届く。鐘楼の上で鳴った鐘の音は、霜を帯びた空を割り、野の彼方まで静かに染みわたる。

 近江・坂田郡の観音寺は、戦乱の余燼を抱えた世の中で、それでも律を崩さず、朝の読経と炊事の煙を欠かさない小寺だった。


 寺の裏手にある井戸の上に、ひとりの少年がしゃがみ込んでいる。

 佐吉――のちの石田三成である。

 井戸の水面に映る空を見て、風向きを測っていた。吹く風に波紋が寄り、葉が一枚落ちる。東風こちだ。今日も風は、山の向こうの国の方へ流れている。


 桶の影で、水をすくう手が止まらない。佐吉は桶の取っ手が水に沈む角度を確認し、数歩下がって位置を直す。その几帳面さに、同輩の寺子たちはいつも呆れていた。

 「そんなこと、誰も見とらんのに」

 そう言って笑う声にも、佐吉はただ小さく首を傾ける。

 「見とらんでも、乱れは残る」


 日々の務めは単調だ。朝は井戸、昼は庫裏くりの灰をふるい、夜は経蔵の鍵を同じ角度で戻す。

 その規則を乱したことは一度もない。

 乱れると、世界の呼吸が少しだけずれる気がするのだ。


 寺子の相撲や竹馬の遊びにも誘われた。けれど佐吉は、竹の長さが揃っていないと知るや否や「型が整わぬ」と首を横に振る。

 ことわりに合わぬものに触れると、胸の奥で小さな音が鳴る。それは鐘ではなく、歯車が外れるような軋みだった。


 ある日、寺に客が来た。

 背は低く、笑うと頬の皺が深く刻まれる男――羽柴秀吉。諸国を転戦し、近江の地を往く途中だった。

 寺の僧たちは慌てて支度を整え、茶を出す者を探した。だが、いつもの茶の担当の老僧が留守であった。

 「佐吉、やってみい」

 誰かがそう言った。

 少年は、湯殿の釜を確かめ、手の甲で炭の温度を測り、炉の下の風穴を指先で撫でる。火の呼吸を確かめてから、水を三度すくっては捨てた。


 湯が立つまでの間に、茶碗を布で拭く。布を折り返す角度が一定であることに、僧たちは思わず息を呑んだ。

 茶をてるとき、佐吉は三つの間を置いた。最初は渇きを断つ薄茶、次は香を立てる中、最後は疲れを沈める濃。

 「はい」

 差し出した茶碗の縁には、一滴の露も残っていない。


 秀吉は茶を啜り、しばらく何も言わなかった。

 その沈黙の長さに、僧たちの背筋が固くなる。

 やがて、秀吉が笑った。

 「手順が理に叶い、乱れがない。だがな、小僧、なぜそこまで整えようとする?」


 佐吉は小さく答えた。

 「乱れは、あとから戻せませぬ。初めの一滴を外すと、最後まで濁ります」


 秀吉は目尻を緩め、腰の刀を軽く叩いた。

 「理を知る小僧か。……いや、理を守る小僧だな」

 そして、ふと真顔になる。

 「わしは今、天下を歩いとる。戦の中にも理が要る。手順を間違えぬ男を、ひとり側に置きたいと思う」


 寺の奥にいた僧たちは息を呑む。

 小さな寺の小僧が、天下人の足元に呼ばれるなど夢のような話だ。

 佐吉の胸にも、鐘の音が鳴り響いた。


 秀吉は立ち上がり、湯気の向こうで笑った。

 「どうだ、小僧。わしのもとで仕えてみるか」


 佐吉は少しの間、口を開かなかった。

 寺の柱の影に、長年磨かれた木目が光る。

 自分が掃き清めた廊下、並べた器、均された灰――そのすべてが一瞬にして遠ざかる気がした。


 やがて、彼は深く頭を下げた。

 「はい。理を学びに、まいります」


 その声を聞いた秀吉は、まるで子供を見守るような柔らかい笑みを浮かべた。

 「よかろう。わしの陣の帳を、おぬしの理で支えろ」


 佐吉は立ち上がり、袖口を握りしめた。指先に布の皺が残る。

 外で風が起こり、寺の鐘が鳴る。


 一つ。

 間をおいて、一つ。

 また一つ。


 その音の間に、少年の心は微かに震えた。

 小さな律が、やがて天下の律に繋がることなど、このとき彼はまだ知らない。


 翌朝、寺の門前。

 秀吉の供が待つ馬の前で、佐吉は僧たちに頭を下げた。

 「鐘を欠かすなよ」

 老僧がそう言った。


 「はい。鐘は、欠ければ理が鈍ります」


 馬上の秀吉が手を伸ばし、少年を引き上げる。

 「おぬし、名は?」

 「佐吉と申します」

 「……よい名だ。すけけるよしと書くか?」

 「はい。けれど、まだ誰の理を助けるかは決まっておりませぬ」


 秀吉は笑い、風を切った。

 「ならば今日からは、わしの理を助けよ」


 馬の蹄が土を打つ。

 小さな寺の鐘の音が、背後でいつまでも響く。

 やがて、その音は遠ざかり、風の中に溶けていった。


 佐吉は振り返らなかった。

 胸の中に、ひとつの音が残っている。

 それは鐘ではなく、未来を刻む律だった。


 やがてこの少年が、秀吉の側近となり、戦国の秩序を紙と数字で支え、そして敗者の理を継ぐ者となる。

 その始まりは、茶の湯の湯気と鐘の音の間にあった。

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